第18話

文字数 3,668文字

 十二月七日。
 昼過ぎ、病院に行く準備をしていた父のスマートフォンが鳴った。どきりとして目をやると、画面には病院名が表示されていた。私は「お父さん、電話」と声を上げながら、慌てて洗面所にいる父の元にスマートフォンを持っていった。
 応答した父のスマートフォンから明るい女性看護師さんの声が漏れ聞こえ、悪い知らせではないとわかって私は胸を撫で下ろした。父の横で耳をそばだて、母が七階の一般病棟に移動するという看護師さんの話を聞いた。移動は十四時過ぎからとのことだったので、父はいつもよりも遅く家を出た。
 この日は、私の心が弱っている日だった。ついこの間、クリスマスのカタログを見て嬉しそうにケーキを選んでいた母が、なぜ今ここにいないのだろうと思って何度も泣いた。ミックスジュースを作ろうと、ソフトクリームをまた食べに行こうと話していた母が、なぜこんなことになってしまったのか。「おやすみ」と言っていつも通りに寝た母が、なぜ「おはよう」と言ってくれないのか。考えれば考えるほど悲しくなった。
 母のために購入したLEDライト付きの耳かきが届き、早く耳垢を取ってあげたいと思った。甘い香りのマッサージクリームも買ってあげたい。それから、個室ならクリスマスオーナメントの一つでも飾っていいだろうか。
 そんなことを考える私の頭の中で、もう一人の私が呟く。
 「すべてただの独りよがりではないか」と。
 私は自分の咎を薄めるために、「自分は母のためにこれだけしてあげたんだ」と思いたいのではないだろうか。母のためと言いながら、全部自分のためにやっているのではないだろうか。
 帰宅した父から、母が一般病棟の個室に移動していたことを聞いた私は、咄嗟に母が入院している病院の差額ベッド代を調べた。こんなに母のことを想って泣きながらも、妙に冷静な自分もいることが不思議でならなかった。
 私の涙は母のためのものなのか、私のためのものなのか、わからなかった。

 十二月八日。
 午後から病院に向かう父に、スノードームを持って行ってもらった。クリスマスが近くなると、母が玄関などに飾っていたものだ。HCUにいたときは物が多いと邪魔になるだろうと思って飾りなどは何も置いていなかったが、個室なら少しくらいは許されるだろう。イベント事には興味のない父と私が毎年美味しいご馳走を食べられたのも、誕生日、クリスマス、年末年始などを大事にする母がいてくれたからだった。
 年末に向かうに連れ、街中がどんどん気忙しく、それでいて華やかな雰囲気を纏っていくのが辛かった。煌びやかなイルミネーションがそこかしこに増えていくのを目にするたびに、自分たちだけ置き去りにされているような気分になった。私たちには、当たり前に過ごしてきた日常はもう戻らないのだと思い知らされた。
 母が搬送されてから、一ヶ月が経とうとしていた。本当にあっという間だったけれど、十一月八日に「おやすみ」と言って眠りに就いた母を見たのはずいぶん昔のことのようにも思えた。
 母のパーキンソン病と認知症の進行は加速度的に進んでいたので、もしこんなことにならなくても、寝たきりになってしまう日は近かったのかもしれない。それでも、意識があるのとないのとでは大きく違う。「らーちゃん」と甘えて私を呼ぶ母の声が聞きたくて仕方がなかった。
 どうしてこんなことになってしまったのだろう。
 そう思わない日はなかった。

 あの日から一ヵ月が経った十二月九日は、あの日とは正反対の穏やかな一日だった。面会には兄夫婦が行ってくれることになっていたので、病院通いが休みの父は午後から買い物に行った。私は午前中に歯医者に行き、お昼ご飯を作って食べ、編み物をしながらサッカーを観て、夕飯を作って食べ、また編み物をしていた。母の帽子はもう仕上がったので、今度は手袋を編み始めていた。
 何年も編み物などしていなかった母が思いついたように毛糸を買ったのには、何か意味があったように感じていた。もしこの頃の私の頭に編み物がなかったら、私は何をして大きな隙間を埋めていたのかわからない。母は、私の隙間を埋める準備をしてくれていたのではないのだろうかと思った。
 最近の母は、涙もろくなっていた。十月末に車椅子を押して美容院に連れて行ったときには、背後で待つ私をよそに美容師さんに「娘のことが心配なの」と言って泣いていたし、同年代の芸能人の訃報にも涙していた。私は、「母は私のことが心配だから、簡単には逝かないだろう」などと悠長に考えていたが、もしかしたら母は自分の身に迫り来る何かを感じ取っていたのかもしれない。
 母が妄想じみたことを言うと、私は「なんでそんなこと言うの!?」と怒ってしまうことがあった。特に父に関するネガティブな妄想が私は許せず、つい言葉が強くなってしまうのだった。そんなとき母は、「認知症だから」とあっけらかんと、それでいて少し悲しそうに答えることがあった。母自身も、自分自身の変化に戸惑っていたのだろう。
 せめて今は、楽しい夢を見ながら眠っていてほしいと思った。もう起きることがでいないのなら、生きている間はせめて、自由に歩き、料理やお菓子作りを楽しんでいる夢を見ていてほしかった。
 母は苦しんではいないと思いたかった。

 十二月十日。
 この日は駅前のデパートを目指す車で国道が混んでおり、渋滞を抜けるまでにかなりの時間を要した。そうか、師走の日曜日なのかと、自分には関係のない世界に紛れ込んでしまったような気分になった。
 母の病室は、七階のナースステーションのすぐ目の前にあった。入り口はカーテンで仕切られただけだったが、トイレ付きでソファも置かれた部屋は十分な広さがあり、大きな窓からの見晴らしもよかった。窓辺には、以前に叔父が持ってきてくれた写真と、先日父に持たせたスノードームが置かれていた。
 母は、目を閉じて眠っていた。前夜に兄からもずっと目を瞑っていたと聞いていたし、その前も目は開いていなかったと父から聞いていたので、もうこのまま目を開けてくれないのだろうかという一抹の不安が過ぎった。
 私は涙を堪えながら、「〇〇おばちゃんがお母さんに会いたがってるから、お家に帰ってから来てもらおうね」と母の耳元で声を掛けた。するとその直後に、母は両目をしっかりと開いたのだった。
 聞こえている。
 私はそう確信した。相変わらず焦点が合っているのか合っていないのかわからない瞳だったが、私はその目に確かに、家にいた頃の母の面影を感じ取った。あの頃の母と、現在の母がようやく結び付いた気がした。
 私は母の浮腫んだ右手をマッサージしながら、母の帽子が編み上がったこと、昨日のサッカーの結果、メジャーリーガーの去就など、母にはあまり興味がないかもしれないこともとにかく話し掛け続けた。帽子を顔の前にやると、ちゃんと見てくれているような気がした。「よくなったら何食べたい?アイス?」などと声を掛けたときに母のお腹が鳴り、「今は食べられないから食べ物の話はかわいそうだね」と父と小声で話した。
 父は、ずっと母の脚をマッサージし続けていた。私が先日「脚などあまり使わない部位をマッサージして刺激するといい」という嘘か本当かわからないネット上の情報を伝えたので、父はそれを実践してくれていたのだ。ベッドは膝ほどの高さなので母の体をマッサージするには中腰になるしかなく、それは腰痛持ちの父にはつらい姿勢のはずだったが、父はベッドの両サイドを行き来しながら、母の両脚を交互にマッサージし続けていた。
 母は以前、「お父さんは優しいときもあるけど優しくないときもある」と不服そうに言うことがあり、「それはお母さんがお父さんを怒らせるようなことをするからだよ」と言い聞かせていたが、自分の何が父を怒らせているのかわからない母は納得がいかない様子だった。
 懸命に母の脚を揉み続ける父の姿を、母に見せてやりたいと強く思った。
 しばらくは目を開けていてくれた母だったが、徐々にうつらうつらしていき、やがてまた寝入ってしまった。それでも、少しでも私の話を聞いてくれたと思えたことが嬉しかった。
 以前までは気管から入れた管から酸素を送られていたが、この日はそれもなく、母は大気を吸って自発呼吸していた。シュゴーシュゴーという大仰な音もなくなり、普通のいびきのような呼吸音しか聞こえなかった。途中、母がゲホゲホと咽せ出したので看護師さんを呼んで痰の吸引をしてもらったが、首元にあるプラスチックの部分に細い管を入れるだけでできるようになっていて、これなら私たちでもできそうだと思えた。母が家に帰ってこられる日は遠くはないはずだと確信した。
 面会を終える頃には母は完全に寝入っていたが、父と私は「また来るね」と声を掛けて病室を後にした。
 あの日から止まっていた時間が、ほんの少しだけ動き出したような気がした。
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