第6話

文字数 1,938文字

 十一月十九日。
 母は相変わらず口から呼吸のためのチューブを挿れられていたが、その先は人工呼吸器には繋がっておらず、ベッドの頭側にあるプラグのようなものに繋がっていた。様子を見に来た看護師さんに聞くと、人工呼吸器での管理が不要なほどに自発呼吸が安定しているので、今はただ酸素を送っているだけだと教えてくれた。
 母は絶対に目を覚ます。私の中でその希望は膨らんだ。だって実際に母は、人工呼吸器を外せるほどに回復しているのだ。首から挿れられていたカテーテルも抜かれていたし、きっと身体の状態は良くなってきているのだろうと思った。はっきりとは覚えていないが、このカテーテルを抜いた代わりに母の鼻からチューブが入れられ、母は経鼻で流動食を入れるようになっていたかと思う。
 母にはパーキンソン病も認知症もあるのだから、きっと脳の働き方は普通の人とは違うはずだ。起きるのに時間が掛かっても仕方があるまい。今までと同じとはいかなくとも、ほんのわずかでもコミュニケーションが取れるようになる可能性はあるはずだ。
 私は自分に言い聞かせるように、そう考えていた。

 十一月二十日は、母が入院してから初めて面会に行かなかった。十一月九日からずっと休みをもらって母に会いに行っていたが、さすがにいつまでも仕事を休むわけにはいかないし、兄からも少しでも日常に戻ったほうがいいよと助言を受けていた。私はこれまで通り、自宅で仕事させてもらうことにした。
 コロナ禍以降ほぼリモートワークとなって早三年。最近は母がトイレに行こうとしたら介助し、「お茶を淹れる」と言い出したら先回りしてお湯を沸かし、何か危ないことをしそうだったら言い聞かせて止める、といったことをしながらのデスクワークだった。仕事をする私のすぐ側で母が失禁し、父と二人でその対処に追われるようなこともあった。母は日中もオムツを履いていたが、最近はトイレまで行くのすら億劫だったのか、同じオムツに何度も排尿してあふれさせてしまうことがあったのだ。
 だが、この日は私の手を止めるものは何もなかった。十三時頃に父が病院に向かってからは家の中が静か過ぎて、興味のないワイドショーをバックミュージックに仕事をしたが、激しい虚無感に襲われて涙が止まらなくなった。
 私は毎日面会に行くことを贖罪の一つとし、時間と心の隙間を埋めていたのだ。一人で家にいると懺悔の気持ちだけが降り積もってゆき、仕事の手を動かしながらも、「お母さんごめんなさい」と声に出して泣いていた。こんなにどこから出てくるのだろうと思うほどの涙が流れ出たが、不思議とパソコンを打つ手は止まらなかった。また、自分が二つに分裂したような気分だった。
 十六時半頃に父が帰ってきてからは少し落ち着いたが、夕食を食べながらまた涙が止まらなくなった。いつも私の隣でご飯を食べていた母がいないことがひどく悲しく、また、食事を取ることもできない母のことを思うと胸が苦しく、食事が喉を通らなかった。私が泣けば泣くほど父も辛くなることは重々分かっていたが、悲しくて寂しくて母に申し訳なくて、どうしても涙が出てしまう。
 どうしてもっと母の食事量に気を付けなかったのだろう。いつも半分以上は食べているように思っていたが、毎回食べこぼしも多かったので、実際に口にしていた量は思った以上に少なかったのかもしれない。
 どうしてあの朝、もっと早くに声を掛けなかったのだろう。朝ご飯を一緒に食べるかどうか、どうして母に確認しなかったのだろう。その時点で母の意識がないことに気付いていれば、きっと母は助かったはずだ。
 搬送前夜、「おやすみ」と言っていつも通り眠った母に、いつも通りの翌日を迎えさせたあげられなかったのは全部私の責任だ。
 病院から帰宅した父に、母の様子を尋ねることはしなかった。いい変化などないであろうことは分かっているから。
 母の手を握ると、「生きていてくれるだけでありがたい」と心の底から思うし、「いつかは目を覚ましてくれないだろうか」と微かな希望も生まれてくる。だがそれと同時に、「ただベッドで眠るだけの毎日を母はどう思っているのだろう」、「本当は早く楽にしてほしいと思っているのではないだろうか」という考えが頭を過ぎる。こうして母に生きてもらっているのは、私たちのエゴでしかないのではないか。そう思うと、また新たな罪の意識が芽生えた。
 搬送される四日前、母は新しい靴を買った。私に帽子を編んであげると言って毛糸も買った。雑貨屋のクリスマスツリーを見て、購入を迷っていた。
 母はまだ生きたいはずだ。
 そう自分に言い聞かせて母に生きてもらい、それを拠り所にして私は生きていた。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み