第38話

文字数 4,202文字

 一月八日。
 私はまた、穏やかな心で過ごしていた。悲しみが消えることはないが、「母は私の中で生き続けるのだから、それでいい」。そう自分に言い聞かせて淡々とデスクワークをこなしていた。
 だが、夕方になると私は恐怖に支配された。ついに明日、母の迎えが来るのだ。そして斎場に行ってしまったら、母は通夜と葬儀を経て骨と灰になるのだ。そう考えると恐ろしくて仕方がなかった。
 防腐処置と死化粧を施され、薄紫の着物を纏い、胸元に守刀を置かれた母が、もうすでに「空っぽ」なことは十分にわかっていた。だが、それでもその肉体は確かに母のものであり、それすらもこの世から消えて無くなってしまうのかと思うと、悲しくて寂しくて苦しくて、滝のように涙が流れ出た。定期的に処置をして、このままずっとここで眠ってくれたらいいのに。そんなことも考えたが、きっと母はそれを望まないだろう。限界を越えて生きてくれた母の肉体も、もうこの世から解放してあげなければならないのだということは、頭では十分にわかっていた。
 母は亡くなってから、普通よりもずっと長くそばにいてくれた。それは、年始で火葬場が混んでいたからに他ならないのだが、私には、母が「もう一度、この家で母と一緒に過ごしたい」という私の願いを叶えてくれたのだとしか思えなかった。 
 近年の母の老いは、本当に加速度的に進んでいた。そして、駆け抜けるように逝ってしまった。行き場のない母性を母に向け続けていた私の行いもまた、それを助長してしまったのだろう。母を甘やかし、母に甘えられることで自己満足していた私は必要以上に手を出し、その結果、母自身の「自分でやろうとする気持ち」を削いでしまっていたはずだ。もし私が、多くの人がそうするように二、三十代で家を出て母から離れていたら、互いに親離れ、子離れができていたら、母の老いはもっと緩やかだったのではないか。そうしたら、母はこんなことにならなかったのではないか。搬送前日の体調不良に気付けなかったこと、当日の朝異変に気付けなかったことに加えてそんな長いスパンの後悔まで湧き上がり、やるせなさに打ちのめされた。
 母がまだ生きられる道は、確かにあった。それがわかっているからこそ、余計に辛かった。
 いつも通り眠ったのに起きることのできなかった母は、どれほど無念だったろう。もっとやりたいことがあっただろう。行きたいところがあっただろう。食べたいものがあっただろう。会いたい人がいただろう。そして、四十を過ぎてもまだまだ幼稚な娘の行く末を、もう少し見ていたかっただろう。
 この日、父は母への手紙を書き直していた。まだまだ伝えたい言葉があったのだろう。私よりもずっと母を支えていた父の中にある喪失感もまた、計り知れなかった。父は午前中、徒歩でも十分ほどしか掛からない斎場の下見にわざわざ出掛け、午後には手持ち無沙汰だったのか、時計を見ては「まだ二時か」、「まだ三時か」と一人呟き、何度も線香に火をつけていた。「もう食べ終わったかな」などと言いながら甲斐甲斐しくお供え物を下げる父の姿は物悲しく、また、線香をあげる背中はひどく小さく見えた。
 兄は、都内の霊園を見に行ってくれたという。父と私がまだ一歩も前に進めない間に、兄はいろいろと動いてくれていた。佐賀から来る伯母の迎えも、兄夫婦が行ってくれることになった。
 兄がいてくれて本当によかったと、母が搬送されてから思わない日はなかった。父も、そして母も、兄のことを本当に頼もしく思っていることだろう。
 この家で母の肉体と過ごせる最後の夜が来ようとしていた。

 一月九日。通夜当日。
 またリビングで母の顔を見ながら眠って朝を迎えた。もう本当にこれが最後なのかと思うと、胸が張り裂けそうだった。
 母の迎えが来る前に、父と私は交互に母の隣に正座して、互いに母との写真を撮り合った。亡くなった人の写真を撮るのはよくないとうい考えもあるかもしれないが、私たちはどうしても、母との最後のツーショットを残したかったのだ。撮った写真を確認すると、安らかに眠る母とは対照的に、私たちは憔悴した表情を浮かべていた。
 午前中のうちに葬儀会社のスタッフに連れられて、母は私たちよりも一足先に斎場に向かった。また会えるとわかってはいても、車に乗せられた母を見送るときには涙がこぼれた。もう母の身体は二度と、家に帰って来ることはない。
 父と私は簡単に昼食を済ませてから、通夜に向かう準備をした。喪服を着ても、数珠をバッグにしまっても、母が私の誕生日にプレゼントしてくれたパールネックレスを着けても、あと数時間で母の通夜が始まるという実感はまったく湧かなかった。知らない人の葬式に向かうかのような、どこか他人事の感覚が抜けなかった。
搬送される数日前、母は手摺りをつたってよたよたと廊下を歩きながら、唐突に喪服の話をした。
「最近痩せたから、喪服もゆるゆるだろうな」
「そうだろうね」
「らーちゃんは?」
「私はあの喪服もともとちょっとキツめだったから、今はちょうどいいかも」
母を福岡の山奥にあるお寺まで連れて行くのは困難なため、私たちは参列を見送ったのだが、十月に母方の祖父母の法事があった。その直後だったから、母は不意にそんな話をしたのだろう。母方の祖父は九十手前、祖母は九十過ぎまで生き、老衰に近い形で亡くなった。父方の祖父は父が子供の頃に他界してしまっているが、祖母に至っては百歳を目前にしてなおも健在だ。母よりずっと年上の親戚だって、何人もいる。
だから私は、母がこんなに早く逝ってしまうなんて考えたこともなかった。病気を抱えていたので長寿を望むのは難しいと思ってはいたが、平均寿命くらいまでは当たり前に生きてくれるものだと思っていた。
母だって、まさかこんなに早く、私が母のために喪服を着ることになるとは露ほども思わなかっただろう。
もっと生きてほしかった。もっと生きさせてあげたかった。
そんな想いが薄れることはなかった。

 集合時間の三十分以上前に、父と私は斎場に到着した。入り口の脇には母の名が記された立て看板が出されており、それを目にした途端、これから母の通夜が執り行われるのだという実感が一気に湧き上がって涙に変わった。
 一日一組貸切専用の、こぢんまりとした家族葬専用ホールは、壁と床一面が白で統一されていて明るく、湿っぽい雰囲気は一切なかった。ピンクと白を基調とした祭壇にはたくさんの花が飾られ、大きなモニターに優しく微笑む母の遺影が映し出されており、その手前にある棺には、母が眠っていた。
頬骨が浮き出たその顔はやはり痛々しく、こんなに痩せ細ってしまう前に逝かせてあげるべきだったのかもしれないという思いが、頭を過ぎった。最初に肺炎を起こしたあのとき、母に再び人工呼吸器を着けることを私が望まなければ、きっとそうなっていただろう。私は母のためではなく、自分のためにそれを望んだ。機械の力でただ生きさせられることを、母はどう思っていたのか。聞くことはできないままだ。
 だが、母のことだけを想って必死に病院に通ったあの日々もまた、母との大切な思い出であることに変わりはなかった。痩せこけた肉体は、母が最後まで必死に生きた証でもあり、私はそれを誇らなければならないとも思った。
兄夫婦と佐賀の伯母、福岡の叔父、そして熊本から来てくれた父方の叔母が集まり、私が持って行った母の若い頃の写真をみなで眺めながら、穏やかな時間を過ごした。伯母は母の遺影を見て、いい顔をした写真だねと何度も褒めてくれた。
 スタッフからご住職が到着されたのでご挨拶に伺うように促され、お布施を持った父がご住職の控室に向かった。「お一人でいいですか?」とスタッフに聞かれ、兄も向かったので、私もついて行った。ご住職の対面に三人で座ると私の座布団だけやたらと豪華で、ご住職がご自身の座布団を私に貸してくださっていたのだと、あとになって気が付いた。あの部屋にはもともと、ご住職用に一枚、親族用に二枚しか座布団が用意されていなかったのだ。
柔和なお顔をされたご住職は、私たち、特に父を気遣いながら、ご自身も奥様を亡くされていること、そしてそれでも毎日奥様に話し掛けながら変わらず過ごしていることを話してくださった。そして、私たちが元気でいる姿を母に見せることが一番の供養だと、優しく教えてくださった。
通夜が始まると、私の涙腺はまた壊れた。お経を聞きながら様々な想いが駆け巡り、涙が止まらなかった。ご住職から「故人様を想う時間にしてください」と言われたが、この二ヶ月間は常に母のことしか考えていなかったので、私はこれまでと変わらない時間の中にいた。母の遺影に頭を下げて焼香をしたときに、「本当にお母さんのお通夜なんだな」という不思議な感覚が私の中に広がった。
 法要のあと、ご住職が「胸が辛くて苦しいのは、それだけ故人様とのご縁が深かったということです。お別れが苦しくなるようなご縁をいただけたことに感謝しましょう」といったお話をしてくださった。その言葉を聞いて、こんなにも辛くて悲しいのは、私が幸せだった証なのだと思えた。母が私に注いでくれた愛が多いからこそ、それだけ別れの痛みも多いのだ。こんなにも烈しい痛みを伴う別れをくれた母に、私はあらためて感謝した。
 ご住職が帰られてから、七人で会食をした。久しぶりに会う伯母、叔父、そして父方の叔母は三人とも明るくユーモアがあるので、母との思い出などを話しながら楽しい時間を過ごした。だが、母もこの席に加わりたかっただろうと思うとまた涙が落ち、叔父から「まだ泣いとっと?」と笑われた。
 ホテルに泊まる親族と自宅に帰る兄夫婦を見送ったあと、父と私も帰宅の準備をした。私たちは夜中まで斎場に残ろうと考えていたのだが、スタッフが帰ってしまったあとは翌日の九時まで斎場を出ることができないとのことで、そうなると葬儀の前に一度帰宅して準備をする時間がなくなってしまう。そのため、後ろ髪を引かれる思いではあったが、母を残して私たちも家に帰ることにしたのだ。
 私は母に「また明日ね」と声を掛け、斎場をあとにした。
 それは、母の病室に通っていた日々を思い起こさせた。
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