第48話

文字数 1,806文字

 我が家のリビングテーブルには、母の作ったレース編みのテーブルセンターが飾られている。直径七十センチほどあるその大作を、父は掃除のたびにテーブルの中央にきっちりと置き直し、その上にビニールクロスを乗せる。それはもう、優に十年は続いている父の日課だ。
 テレビ脇のローチェストの上にも、四角モチーフをつないだレース編みのクロスが敷かれており、今はそこに母の写真が並んでいる。母の供物台に置いている花瓶の下にも母が作ったレース編みのコースターを敷いているし、キッチンには母が作った鍋掴みがあるし、洗面所の棚には母が作った小さな目隠しカーテンが掛けられている。
 私のタンスの中に至っては、母が編んでくれたレースのプルオーバー、毛糸のストール・帽子・付け襟・手袋、手縫いのブラウス、ミシンで縫製したもんぺなど、母が作ってくれた品々で溢れ返っている。
 私は特にニットの付け襟を重宝しており、寒くなってくると毎年コートの下にそれを着用していた。首周りに高さのあるタイプなので、ハイネックのニットを着ているふうに首元を温められるし、ストールのように嵩張らないから取り外してもバックにしまうことができるので、冬の外出には欠かせなくなっていた。毎年、冬先に私がそれを付け始めると、「あら、らーちゃん可愛いのしてるね」とは母は嬉しそうに笑うのだった。年明けに、この冬初めてそれを着けたとき、私は母の遺影の前に立って「今年も使わせてもらってるよ」と報告した。
 もんぺに関しては、たまたま目についたチラシを母に見せて「私、もんぺ似合いそうじゃない?」と何気なく言ったところ、裁縫の得意な友人に教わりながら作ってくれたのだった。丁寧に裏地まで付けてあるそれは、作ってくれたばかりの頃こそ冬場の部屋着として愛用していたが、洗濯で傷んでしまうのがもったいなくて、近年はタンスにしまったままだった。この先も、私はそれを大切にしまい続けるだろう。
 母が作ってくれた品々を手に取るたびに、母が私に注いでくれた愛の大きさを痛感した。そして、母のことを想うのなら、母が何よりも大切にしてくれた私自身を大切にしなければならないと強く思った。
 五月の終わりには、父と二人で駅前にある仏具店へ向かった。初盆の準備のためだ。
 我が家が引き継いだ、日本人の多くがそうであると言われているその宗派では、本来はお盆飾りなどは不要らしい。だが、特別なことをしてはいけないというわけではないだろうから、私たちは一般的な盆用品を用意することにした。八月盆までまだ二ヶ月半もあるので、父が仏具店に行くと言ったときには早過ぎやしないかと思ったが、母が主役となる行事のために入念な準備をしたい気持ちはわかったので、私は黙ってついて行った。
 まだ時期も早いので特設コーナーなどはないだろうと思っていたが、広々とした店内の一角には、盆棚や提灯が立ち並ぶエリアが設けられていた。考えてみれば、そもそも仏具店における「季節の行事」と言ったら盆くらいしかないのだから、そのコーナーは常設されたものなのかもしれない。
 私たちは女性店員に相談しながら、白い下げ提灯とそのスタンド、盆棚、造花の盆花や花瓶などの一式を調達した。提灯は、故人が家に帰る際の目印になるのだと店員から説明を受けたとき、私は「お母さんは毎日帰ってきてるから、別に必要ないな」と心の中で思った。
 私は、母は「あちら」と「こちら」を自由に行き来しているだろうと考えて毎日を過ごしていた。そうでないと、やっていけなかった。母の供物台にご飯を並べるのはすっかり日常となっていたし、父と二人で出掛けていて十五時を過ぎると、「お母さん、『三時のお茶はまだ?』って言ってるよね」などと言いながら家路を急ぐこともあった。父も私も、買い物に行くたびに母のおやつの果物や菓子類を買って帰るので、お供え物の在庫は増えるばかりだった。
 いつまでも故人に囚われるのはよくないと思う人もいるだろう。また、ままごとのような行いをいつまでも続ける私たちを見て、哀れで滑稽だと感じる人もいるだろう。だが、ずっと母中心の生活を送ってきた私たちは、その暮らしを簡単には変えられなかった。
 私は仏具店でついでに甘い香りの線香をいくつか購入し、帰宅するとすぐにそのうちの一本に火を点けた。
 甘くて煙たい香りが、和室とリビングに充満した。
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