9. 一瞬の悪夢

文字数 2,619文字

 自身に割り当てられた寝室にひきとり、上着を脱いで寝床に滑りこんだレッドは、すぐに深い眠りについた。ここでは何を恐れることもなく、精神を休めることができる。山や荒野(こうや)徘徊(はいかい)するならず者、それに不意打ち狙いの敵、また、森に生息する狼などを警戒して、常に頭の一部は緊張させておかなければという心構えは無用なのだから。

 そうして、ゆっくりと安眠びたることを三日も続けたレッドは、その晩に夢を見た。

 一瞬の悪夢だ。まず、風を感じた。ふわりふわりと(あお)がれるように吹く風である。それは、まるであの日・・・恋しい女性(ひと)に優しくされた時のような心地よさだったので、ついそのまま身を(ゆだ)ねていた。

 ところが、そのそよ風が突然止んだかと思うと、今度は何かに右腕を押さえつけられた。だがそれは、つかまれたのとは違う。硬くてひだのあるものが右の肩や胸や腕、とにかく上半身の右半分にのしかかってきて、地面に押しつけられるような強い力に支配された。体が()り切れるように痛むので、おかしく思ってそれを確かめようという意識を働かせると、不意に、ぼんやりとした影が獣のような形をとって現れた。そして、真っ先に二つの赤い点が目に飛び込んできた。驚く間もなく、それが飛ぶように視界をかすめた次の瞬間、左肩が燃えるような激痛に襲われたのである。

 だが、その痛みはそれきりで、最後に糸を引いて(したた)り落ちる赤黒いものが見えた。
 レッドがそう思ったのは、ちょうど朝がきて、部屋が明るくなり始めたからだ。ただ、意識があったのは、夢とも現実ともつかないそのあいだだけだった。

 雨になるかと思われた天気は持ち直し、すっきりとした晴天とまではいかないものの、上空には薄雲(うすぐも)のかかった青空が広がっていた。

 二羽の小鳥がベランダの手すりに降り立ち、甲高(かんだか)い声でさえずり始めた頃に、レッドは目を覚ました。

 とたんに、激痛が突き上げた・・・!

 声も出せなかった。いったいぜんたい、どうしたことだ。左腕が動かない。動かそうとすると、肩が割れるように痛む。鋭い(やり)で突き刺されたかのようだ。気が動転するままに思わずそこをつかむと、右手が何かに濡れた・・・。

 驚いて戻したその手に、レッドは愕然(がくぜん)としながらも狼狽(ろうばい)した。

 血糊(ちのり)がべったりと絡み付いている。

 あまりのことに、レッドの頭の中はむしろ真っ白になった。それからハッと首を向けた。
 左肩が深紅(しんく)に染まって ―― ⁉
 それは黒ずんだ生々しい粘りのある血で、乾きかけてこびりついていた。

「なんっだ、こりゃあっ。」 

 レッドは叫びそうになったが、飛び出た言葉は呟きでしかなかった。耐え難い痛みが、起き上がろうとした拍子にまたやってきたのだ。しばらく歯を食いしばって耐えていると、その痛みはどうにか引いていった。

 機能しそうにない左腕をだらりとさせたまま、レッドは慎重に体を起こした。それから深呼吸をして、落ち着いたところで体をあらためてみる。左肩は血にまみれ、右腕や胸は細かい(かす)り傷だらけになっていることが分かった。

 レッドは寝床に座り込んで、呆然(ぼうぜん)とした。

 まったく理解できないが、いつの間にか傷を負ったことで、他人を疑うなどは考えなかった。これまで数えきれないほどの人間を斬ってきたが、恨まれる覚えのある者などこの村にはいないし、だいいち、いくら熟睡していたとはいえ、ドアや床が(きし)めば気付くはず。訳の分からない(かす)り傷も気になる。

 だから他人は疑わずに、まず自身を疑った。夢遊病の一種だろうか・・・と。眠りながら大いに活動する夢遊病者。とんでもなく危険だ。戦の夢でも見ていたのだろうか・・・なるほど、そうかもしれない。ともあれ、怪我をしたのが自身で幸いだった。

 レッドは努めて冷静になり、まず血糊(ちのり)の付いた右の手のひらを、極力余計なものまで汚さないよう、敷き毛布の血で汚れているそばにこすりつけた。それから、手元に横たえていた愛用の剣を二本とも確認してみた。血は付いてはいなかった。凶器はこれではない。レッドは、そっと立ち上がった。始め滅茶苦茶だったこのアトリエに落ちていたもので、危険と思われるものは全て片付けていた。寝床のぐるりを目を凝らして眺めても、これと思われるものは何も落ちてはいなかった。机の上に集めた彫刻刀は・・・違う、これでもない。ほかに考えられる刃物を一つ一つ見て回ったが、どれにも血など付いてはいなかった。

 いったい何を使って自分の肩を痛めつけたのか・・・。そもそも、寝ているそばにそれが無いというのは、おかしな話だった。痛みのあまり、目を覚ますどころかそのまま気絶してしまったのだろうが、それならすぐに分かる所に凶器が落ちていて当然だ。

 レッドは動揺をおさえて、とにかく、これからどうすべきかを考えた。

 あまり知られたくはないが、またこんなことが起こるようなら、その時打ち明けよう。もしそれより早くどこか町に着いたら、それについて詳しそうな医者でもあたって、相談してみよう。できれば何か分かるまで、せめてもう少し整理がつくまでは黙っていたいが・・・。

 レッドは悩み、不安になった。だが、次に傷を隠すことを考えた。降りて行って、気付かれないように傷を洗わなければならない。

 レッドは、筆の汚れを拭き取るための布切れを見て思いつき、かさばらないものを選んで傷口に乗せると、ゆったりとしたシャツを手に取った。少し力を入れただけでも肩がひどく痛んだが、先に右腕でそろそろと左腕を通してから、両腕を(そで)に通し終えた。そして右手だけで、無造作に下の方のボタンを二つだけ留めた。

 レッドはまた寝床に腰を下ろして、深く息を吸い込み、長く尾を引くため息をついた。密かにしなければならないことが、山ほどある。腕や足ならまだしも、肩がこんな有様(ありさま)では都合のよい嘘も思いつかない。それに、血で汚れた毛布はどうしようか・・・。レッドは眉間(みけん)縦皺(たてじわ)をつくって考え込み、血が広がっているその箇所を見つめた。

 不意に強い風が吹いて、窓がカタカタと音をたてた。

 反射的に背後の出窓に目を向けたレッドは、そこで妙なものに気付いた。
 小型の女性の石像である。それは、緩衝材(かんしょうざい)綿(わた)が詰められている木箱の中にあった。

 それを見つけるなり、レッドは顔をしかめて目を()らしていた。そして立ち上がって、のろのろと近寄った。ますます(けわ)しい顔になる。妙だと思ったのは、それに赤いものが付いているように見えたからだ。




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