40. フィアラの願い
文字数 4,103文字
くすんだ青緑 色の水面を、フィアラは一人きりで見つめていた。
あの人は来るかしら。いいえ、きっともう・・・。
フィアラは手元にあった小石をつまみ上げ、沼 に投げ込んだ。
どうしてなの、どうしてこんなに悲しいの。もうすぐ願いが叶うんじゃない。そうよ、もうすぐ・・・願いが叶うわ。
フィアラは一つ、また一つと小石を沼に投げ込んでいた。
しばらくそうしていると、足音が聞こえた。
それに気付いた瞬間、急に胸が熱くなって、フィアラは思わず戸惑った。それに、どうしようもなく鼓動 が騒ぎだした。
フィアラは、本当のことを慌 てて心の奥にしまい込むと、それから無理に落ち着こうとした。
その気配は、忍び寄るように静かだ。おどおどと遠慮がちに近づいてくるような。
フィアラは、ゆっくりと肩越しに振り返った。
そこに、思った通りの姿があった。今日の彼は笑顔も見せず、困ったような気弱な表情で立っている。
フィアラは呆れた、というようにまた視線を沼に戻して、わざと不愛想 な態度で言った。
「あなた・・・また来たの。どうして私に構うの。」
「それは・・・。」
フィアラは、しどろもどろに答える彼の声を、背中で聞いた。再度振り向く気はなかった。
彼は言葉を詰まらせたきり、何も言えないでいる。
それでフィアラは水面を見つめたまま、「医者だからね。病人を放っておけないんでしょ。」と、そっけなく言った。
「違うよ、それだけじゃあ・・・。」
カイルは自分に腹が立った。何とか説得したくてやってきたというのに、やはり上手く伝えることができない。心に響く言葉が分からない。カイルは焦 って、つい思いついたままを口に出した。
「ねえ、僕とリサの村へ行こうよ。君に友達を紹介したいんだ。それに今日は祭りの ――」
「よして! 見せたくないわ、こんな顔。」
フィアラの肩に手をかけようとしていたカイルは、突き飛ばされたような衝撃を受けて足をすくませた。
フィアラが右目だけをカイルに向けた。
「それにね、カイル、私、この森が好きなの。離れたくないのよ。私は、この森の空気に包まれているだけで幸せ。」
「嘘だ!」
「嘘じゃないわ。カイル、私の望みはね、この森の風になることなのよ。あの暖かくて優しい風になりたいの。強く願っていればきっと神様に届いて、私を哀れんで、この身体を風に変えてくれるって信じてる。じきに叶う望みなの。だって、きっと・・・もうすぐ死ねるから。」
思わず怒鳴ったものの、カイルはまた何も言えなくなり、黙った。
彼女は心に壁を張り巡らしている。どんな言葉ならいいんだ。どんな言葉なら、彼女の心にそびえる壁を、巧 みに乗り越えられるだろう。こんな時、レッドやリューイなら、どんな言葉をかけてあげるだろう・・・。
そうして悩みながら、カイルがただそっと隣に腰を下ろすと、フィアラは悲しげな苦笑を浮かべた。
「私の病気に気付いてから、皆がもっと避けるようになったわ。あんなに親しかった近所のおじさまやおばさまは、頬にキスの挨拶をしてくれなくなった。きっと、うつると思っているのね。」
「病院には行ったの?」
「病院は遠い町まで行かないと無いの。連れて行こうとしてくれてたみたいだけど、時間もお金もかかるから、なんだか悪くて。私、こんな顔で、あの家の子じゃないから・・・。」
カイルは、フィアラに哀 れみと好感がわいた。この子は気が弱くて、自分のことより人のことを気にする、とても優しい子なんだな・・・。
「それで、勝手に出てきちゃったの?」
フィアラは小さくうなずいた。
「あ、でも、村に病気に詳 しい人がいて、普通に話したり触ったりするぶんには問題ないって。でも・・・。」
彼女の病気をまだ詳しく知っているわけではないカイルは、何とも言えずに返事をためらい、せめて腕を伸ばして彼女の手を握った。
慰 められた気がして、フィアラは切ない笑みを浮かべた。
「いいの・・・怖いのは当然だもの。最初、あなたに言わなかったのは、あなたも離れてしまうんじゃないか・・・って思ったから。あなたがここにいるのは束 の間だから、その間は ―― 」
思わず本音が出そうになって、フィアラはハッと息を止めた。それに続く言葉は、〝友達でいて欲しくて。〟だった。
フィアラはその言葉を呑み込んだ。
「怖かったのよ。もう見たくないの。脅 えられるのはもう・・・。」
フィアラの唇は次第に震えだし、声は涙でくぐもっていった。
カイルの瞳も、やり切れなさで潤 んでいた。
やっぱり・・・寂しいんだ。そうだよね、僕だって耐えられない。人は一人きりじゃあ、絶対生きてなんていけないよ。だからきっと、彼女は孤独から逃れたくて、でも自分では認めまいとして、それで必死に闘っていいように考えて、命が消えるまでを、そうして心を宥 めながら生きていくつもりなんだ。もうほとんどそれに徹 してしまった心は、壁は、悲しみで塗り固められていて、僕には・・・高すぎる。
「ねえ・・・村へ行こう。やっぱり、このままはいけないよ。僕が、村の人たちにちゃんと分かってもらえるように説明するから。みんな、僕のことを優れた医者だって認めてくれてるんだ。だから大丈夫。君の病気もよくしてみせるよ。だから・・・だからお願い、僕に診 せて。」
そう提案されても、フィアラはまた悲しそうにほほ笑んでみせただけだった。
「カイル・・・私の村の人たちはね、私がこんな顔になってからは、まともに目を見て話してくれなくなったのよ。視線を逸 らすの。顔を見ないようにするのよ。こんな顔で、恐ろしい病気持ってて、そんな人と誰が親しくなりたいなんて思う? あなたのお友達だって、きっと嫌がるわ。」
「そんな人達じゃないよ!」
この時ばかりは、カイルもついカッとなった。
カイルは慌てて口を閉じ、一呼吸おいてから穏やかな声で言った。
「ごめん・・・でも、僕の仲間は皆ほんとに優しくて、正義感が強くて・・・僕の自慢なんだ。君に会ってもらいたい。」
これに続く沈黙は、ずしりと重かった。
やがて、フィアラは済まなさそうにため息をつくと、それから言った。
「そうね・・・。あなたのお友達は、きっとあなたのような人ばかりなんでしょうね。私こそごめんなさい、カイル。でも、私 ―― っ。」
カイルは驚いて目をみはった。
急に声を詰まらせたかと思うと、フィアラは胸に手を当てて、前のめりに屈 みこんだのである。
「フィアラッ⁉」
その顔はみるみる青ざめ、苦しそうに歪 んだ。
「僕に診せて!」
「ダ・・・ダメ、触らないで・・・。」
カイルはフィアラの肩に手を回して体を支えたが、彼女は無理に体をよじらせ、かたくなに拒 もうとする。
「でもっ。」
「気にしないで、いつもの・・・発作よ。す、すぐに治まるわ。」
フィアラはそう言うものの、声はひどく力無く、顔には脂汗 が滲みだしている。
ズボンのポケットに手を突っ込んだカイルは、三角に折った薬包紙 をつかんだ。
「無理しないで! 僕なら楽にしてあげられる。もっと生きられるよ!」
「それじゃあ・・・ダメなのよ。」
「嫌だよ、君を放っておけない! フィアラ、言うこと聞いて!」
「カイル、止めて・・・もう優しくしないで。」
フィアラの頬を、ふと零 れた涙が濡らした。
「もういいの・・・お願いだから。」
喘 ぎ喘ぎそう言うと、フィアラはそのまま倒れこんで動かなくなった。
一瞬、カイルは焦 った。魂は・・・大丈夫、抜け出さなかったことにホッとしつつ、カイルはフィアラの体を横たえて、脈や呼吸を確かめた。それから、勝手に触診しようと、彼女の上着を少し捲 り上げてみた。
とたんに、愕然 として固まった。脇腹のあたりを見つめるその表情は、みるみる深刻になっていく・・・。
その部位は、所々変色していた。それに、いびつな形の黒紫 色をした痣 ができていた。だが初めは小さな斑点 だったのだろう。それがいくつも広がりながら繋 がり、ついには大きな痣になった・・・。
カイルは耐え切れなくなり、目を閉じた。だが少しして、そろそろと手を動かし、触診を始めた。一見でもおおよそ診断できたが、まずはその部位に触れ、そのまま肺の辺りへと移していき・・・唇を噛んで手を引っ込めた。
そして、ただ呆然 と彼女の顔を見つめる・・・。
カイルはそのまま、しばらく無気力になっていた。
だが、どうにか気を取り直した。カイルはフィアラの頭をそっと抱 え上げると、口移しで薬を飲ませた。それをされてもフィアラの意識は戻らないままだったが、上手く飲み下したのを認めたあと、また静かにその体を草地に横たえた。
病状をまだ把握していなかったので、カイルは、とりあえず無難な成分だけで調合した発作止めを用意していた。これで、ひとまず今夜のところは苦しまずに済むはずだ。
やがてカイルは弱々しく手を動かして、彼女の額をなでるように汗を拭 った。そうしているとたまらなく切なくなってきて、やるせなくて嗚咽 が漏れた。
フィアラのそばにへたり込んだカイルは、涙に濡れた瞳を沼へ向けた。涼しい風が吹きぬけていき、そのせいで揺れる水面 を、カイルはただただ呆然と見つめた。それは涙の膜 の向こうでチラチラと輝いていた。
ある時、カイルはふと彼女を見下ろし、そしてまた沼のある風景を眺める。
カイルは、フィアラの顔に血の気が戻るまでそうしていた。
あの人は来るかしら。いいえ、きっともう・・・。
フィアラは手元にあった小石をつまみ上げ、
どうしてなの、どうしてこんなに悲しいの。もうすぐ願いが叶うんじゃない。そうよ、もうすぐ・・・願いが叶うわ。
フィアラは一つ、また一つと小石を沼に投げ込んでいた。
しばらくそうしていると、足音が聞こえた。
それに気付いた瞬間、急に胸が熱くなって、フィアラは思わず戸惑った。それに、どうしようもなく
フィアラは、本当のことを
その気配は、忍び寄るように静かだ。おどおどと遠慮がちに近づいてくるような。
フィアラは、ゆっくりと肩越しに振り返った。
そこに、思った通りの姿があった。今日の彼は笑顔も見せず、困ったような気弱な表情で立っている。
フィアラは呆れた、というようにまた視線を沼に戻して、わざと
「あなた・・・また来たの。どうして私に構うの。」
「それは・・・。」
フィアラは、しどろもどろに答える彼の声を、背中で聞いた。再度振り向く気はなかった。
彼は言葉を詰まらせたきり、何も言えないでいる。
それでフィアラは水面を見つめたまま、「医者だからね。病人を放っておけないんでしょ。」と、そっけなく言った。
「違うよ、それだけじゃあ・・・。」
カイルは自分に腹が立った。何とか説得したくてやってきたというのに、やはり上手く伝えることができない。心に響く言葉が分からない。カイルは
「ねえ、僕とリサの村へ行こうよ。君に友達を紹介したいんだ。それに今日は祭りの ――」
「よして! 見せたくないわ、こんな顔。」
フィアラの肩に手をかけようとしていたカイルは、突き飛ばされたような衝撃を受けて足をすくませた。
フィアラが右目だけをカイルに向けた。
「それにね、カイル、私、この森が好きなの。離れたくないのよ。私は、この森の空気に包まれているだけで幸せ。」
「嘘だ!」
「嘘じゃないわ。カイル、私の望みはね、この森の風になることなのよ。あの暖かくて優しい風になりたいの。強く願っていればきっと神様に届いて、私を哀れんで、この身体を風に変えてくれるって信じてる。じきに叶う望みなの。だって、きっと・・・もうすぐ死ねるから。」
思わず怒鳴ったものの、カイルはまた何も言えなくなり、黙った。
彼女は心に壁を張り巡らしている。どんな言葉ならいいんだ。どんな言葉なら、彼女の心にそびえる壁を、
そうして悩みながら、カイルがただそっと隣に腰を下ろすと、フィアラは悲しげな苦笑を浮かべた。
「私の病気に気付いてから、皆がもっと避けるようになったわ。あんなに親しかった近所のおじさまやおばさまは、頬にキスの挨拶をしてくれなくなった。きっと、うつると思っているのね。」
「病院には行ったの?」
「病院は遠い町まで行かないと無いの。連れて行こうとしてくれてたみたいだけど、時間もお金もかかるから、なんだか悪くて。私、こんな顔で、あの家の子じゃないから・・・。」
カイルは、フィアラに
「それで、勝手に出てきちゃったの?」
フィアラは小さくうなずいた。
「あ、でも、村に病気に
彼女の病気をまだ詳しく知っているわけではないカイルは、何とも言えずに返事をためらい、せめて腕を伸ばして彼女の手を握った。
「いいの・・・怖いのは当然だもの。最初、あなたに言わなかったのは、あなたも離れてしまうんじゃないか・・・って思ったから。あなたがここにいるのは
思わず本音が出そうになって、フィアラはハッと息を止めた。それに続く言葉は、〝友達でいて欲しくて。〟だった。
フィアラはその言葉を呑み込んだ。
「怖かったのよ。もう見たくないの。
フィアラの唇は次第に震えだし、声は涙でくぐもっていった。
カイルの瞳も、やり切れなさで
やっぱり・・・寂しいんだ。そうだよね、僕だって耐えられない。人は一人きりじゃあ、絶対生きてなんていけないよ。だからきっと、彼女は孤独から逃れたくて、でも自分では認めまいとして、それで必死に闘っていいように考えて、命が消えるまでを、そうして心を
「ねえ・・・村へ行こう。やっぱり、このままはいけないよ。僕が、村の人たちにちゃんと分かってもらえるように説明するから。みんな、僕のことを優れた医者だって認めてくれてるんだ。だから大丈夫。君の病気もよくしてみせるよ。だから・・・だからお願い、僕に
そう提案されても、フィアラはまた悲しそうにほほ笑んでみせただけだった。
「カイル・・・私の村の人たちはね、私がこんな顔になってからは、まともに目を見て話してくれなくなったのよ。視線を
「そんな人達じゃないよ!」
この時ばかりは、カイルもついカッとなった。
カイルは慌てて口を閉じ、一呼吸おいてから穏やかな声で言った。
「ごめん・・・でも、僕の仲間は皆ほんとに優しくて、正義感が強くて・・・僕の自慢なんだ。君に会ってもらいたい。」
これに続く沈黙は、ずしりと重かった。
やがて、フィアラは済まなさそうにため息をつくと、それから言った。
「そうね・・・。あなたのお友達は、きっとあなたのような人ばかりなんでしょうね。私こそごめんなさい、カイル。でも、私 ―― っ。」
カイルは驚いて目をみはった。
急に声を詰まらせたかと思うと、フィアラは胸に手を当てて、前のめりに
「フィアラッ⁉」
その顔はみるみる青ざめ、苦しそうに
「僕に診せて!」
「ダ・・・ダメ、触らないで・・・。」
カイルはフィアラの肩に手を回して体を支えたが、彼女は無理に体をよじらせ、かたくなに
「でもっ。」
「気にしないで、いつもの・・・発作よ。す、すぐに治まるわ。」
フィアラはそう言うものの、声はひどく力無く、顔には
ズボンのポケットに手を突っ込んだカイルは、三角に折った
「無理しないで! 僕なら楽にしてあげられる。もっと生きられるよ!」
「それじゃあ・・・ダメなのよ。」
「嫌だよ、君を放っておけない! フィアラ、言うこと聞いて!」
「カイル、止めて・・・もう優しくしないで。」
フィアラの頬を、ふと
「もういいの・・・お願いだから。」
一瞬、カイルは
とたんに、
その部位は、所々変色していた。それに、いびつな形の
カイルは耐え切れなくなり、目を閉じた。だが少しして、そろそろと手を動かし、触診を始めた。一見でもおおよそ診断できたが、まずはその部位に触れ、そのまま肺の辺りへと移していき・・・唇を噛んで手を引っ込めた。
そして、ただ
カイルはそのまま、しばらく無気力になっていた。
だが、どうにか気を取り直した。カイルはフィアラの頭をそっと
病状をまだ把握していなかったので、カイルは、とりあえず無難な成分だけで調合した発作止めを用意していた。これで、ひとまず今夜のところは苦しまずに済むはずだ。
やがてカイルは弱々しく手を動かして、彼女の額をなでるように汗を
フィアラのそばにへたり込んだカイルは、涙に濡れた瞳を沼へ向けた。涼しい風が吹きぬけていき、そのせいで揺れる
ある時、カイルはふと彼女を見下ろし、そしてまた沼のある風景を眺める。
カイルは、フィアラの顔に血の気が戻るまでそうしていた。