14. 沼地に暮らす少女 ― フィアラ

文字数 2,766文字

 岸に上がって裸足(はだし)になった二人は、そばに濡れた(くつ)を置いたあと、とりあえず横に並んで座った。かすんで見えている太陽は、時折(ときおり)厚い雲に覆われて見え隠れしていたが、気温の高さのおかげで、足の方はすぐに乾き始めた。

 二人はさらさらと流れる小川を見つめたまま、このあいだ一言も言葉を交わすことなく黙っていた。カイルは何度か声をかけようとしたが、口を上下に開いただけですぐに閉じてしまうということを繰り返し、少女の方は、(うつ)ろな眼差しで一向に水面を見つめたままでいる。

 彼女の方から声をかけてくれそうには、とうていなかった。成り行き上でも、自分の方から話さなければならないと分かっていながら、カイルがそうしようとすると、迂闊(うかつ)に浅はかな発言をして、また彼女の繊細な心を傷つけてしまうのではないか・・・という恐怖に邪魔されるのだった。

 そのせいで、ただ彼女の横顔と水面を交互に見つめていただけのカイルは、雲の切れ目から射す陽光に照らされた時になって、やっと思いきることができた。

「ねえ・・・どうしてまた逃げたの。」と、カイルはまずきいた。

 少女はわざと彼の左手に座っていた。彼に顔を向けることに、とても抵抗があった。それはもう、カイルにも察することができる。だから、意地悪な質問になるかもしれないと思いながらも、あえてそう問うた。それから、すぐにこう言葉を続けた。

「僕、戻ってきたのに。」

 すると、水面を見ているようで、また別のものを見ているようでもあった少女の目が、しばらくしてから、やっと彼の方へ向けられた・・・が、やはり片方だけ。
 少女は、彼と長く目を合わせてはいられなかった。彼は(まぶ)しすぎた。だから、すぐにまた顔を(そむ)けてしまった。

「あなたが綺麗だから。」
 彼の顔を見るのは勇気がいったので、少女はそのまま彼を見ることなく答えた。

「僕・・・男だよ。」

 カイルがそう答えると、少女はさらに首を反対側へ向けた。
「ええ・・・でも、綺麗だから。恥ずかしくて・・・こんな顔。」

 カイルは、スッと立ち上がった。そして素早く彼女の左側へ移動した。
 少女は慌ててまた首を振り、距離を置こうとして腰を浮かせた。だが、カイルがそうはさせなかった。カイルは、彼女の腕をいち早くつかまえていたのである。

「足・・・。」
「え・・・。」

 カイルは、初めて面と向かって言うことができた。唐突(とうとつ)な言葉に驚いて、彼女の方が思わず振り向いてしまったからだ。

()せて。昨日、怪我させたから。」

 少女は少し考えた。そして、躊躇(ためら)いながらも恥ずかしそうにスカートをつかむと、そろそろと引き上げた(すそ)の下から、()り剥けた傷が現れた。

 カイルは、その(ひざ)傷痕(きずあと)を診たあと、(ひじ)のあたりも気にして見てみた。どちらも少し()みが出ている。傷口の汚れをきちんと洗い流せていないと分かって、カイルは水筒のふたを開けた。
「しみるけど、ちょっと我慢して。」と言って、カイルは少女の腕と足の傷を洗い、携帯している簡単な治療道具で適切な処置をした。
「昨日は、ほんとにごめん。こんな怪我までさせて。」
 カイルはあらためて、相手の顔をしっかりと見つめながら謝った。

 そんな彼からもう逃げようとすることもない少女の目は、いやに冷静なものになっていた。
「あなた、どうして私を見ていられるの。見つめることができるの。そんな目で。」
 少女はもはや羞恥(しゅうち)も悲しみも通り越したような声で問いかけたが、これにはカイルの方が呆れてしまい、問い返した。
「君は自分を何だと思っているのさ。」

 全く(きょ)をつかれて、少女は黙り込んだ。

 カイルは静かなため息をついて、言った。
「難しいけど、闘わなきゃあ。本当の自分を知ってもらうために。自分に負けたら・・・ずっと、そのままだよ。」

 少女は何も言わなかったが、それは単に言葉を返せないだけだった。そうしているうちに、またカイルの方が一方的に話し始めた。

(えら)そうなこと言って・・・ごめん。でも僕は・・・なんて言うか、言葉が適当じゃないかもしれないけど、不運な人とは本当に多く接してきたんだ。彼らは、自分の体がそこに無くったって、声を出すことができなくたって、堂々と姿を見せてくれるから。」

 少女は意味が分からない・・・という顔で、カイルを見つめる。

「ああごめん、言い忘れた。彼らは生きてる人じゃない。死人(しびと)、いや死者の霊なんだ。」

 少女は、それ自体は特に抵抗なく受け入れることができた。霊が見えるという人の存在は、聞いたことがあったから。ただ、会うのは初めてであるし、信じ(がた)いことだった。

「あなた、それで平気なの? 普通に見ていられるの?」
「平気とか、普通にって言われると、なんか無理でもしてるように聞こえるなあ。だいいち、そんなふうに相手を見てたら、僕の役目は務まらない。」
 少女が不可解そうな目を向けてきたので、カイルは(ほこ)らしげに笑って言った。
「僕、精霊使い。信じる?」

 少女は黙って、彼の深い緑色の瞳をしばらく見ていた。

「でもあなた、初め私を見てひどく驚いたわ。」と、やがて彼女は悲しげに言った。
「でも、戻ってきただろ。」
「でも、あんなに驚いて。」
「分かった、言うよ。許してもらえないかも知れないけど。」
 カイルは、それ以上言ってくれるな、というように手を振った。
「あれは僕自身の問題なんだ。あの時、自分がひどく嫌になって。何も考えないで、つい追いかけて行った自分に呆れたっていうか・・・。とにかく、君は気にすることない。そんなふうに、自分をいじめることないんだ。どう、分かってくれた?」

 よく分からなかったが、少女は彼のその懸命さがなぜかおかしくなって、笑みを漏らした。
「いいわ。許してあげる。」
「ああ、よかった。」
 カイルは、ほっと息をついた。そして、彼女の顔に笑顔が浮かんでいるのを見て嬉しくなり、いつでもそうして笑ってるといいのに・・・と思ったが、言うと(こわ)れてしまいそうなので、心の中だけにした。

「不思議な人ね・・・あなた。」
「カイルだよ。」
「カイル・・・そう、私はフィアラよ。」
「フィアラ、よろしく。僕たち、もう友達だよね。」

 フィアラは微笑んだが、少し笑ってみせるだけがやっとだった。友達・・・という響きには、忘れかけていたものを思い出したような鋭さもあり、その鋭さは、そのまま胸に突き刺さってくるものでもあった。


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