11. 傷口の謎
文字数 4,133文字
やがて、カイルが戻ってきた。ぬるま湯を満たした木桶 を抱え持ち、度々辺りに飛沫 を飛び散らせながら、リューイが開けてやったドアを通って、座って待っていたレッドの前にそれをそうっと下ろした。湯の中では、手拭 いが二枚泳いでいた。
カイルはその一枚をぎゅっと絞って、まずレッドの肩の血を拭 い始めた。レッドは黙って傷を洗ってもらい、その痛みに耐えた。乾いた血を拭 き取ると、紫色をした傷口が現れた。深くて、その一周り外側から大きく腫 れ上がっている。
その傷口は、あっと驚くものだった。だが実際に口に出して、そう声を上げた者はなかった。ある感情に押しとどめられて、誰もが胸の内だけで叫んだ。
血の下から現れたものは、なんと大きな穴。恐らく、歯型・・・犬歯の痕 だ。もちろん人間のものではない。何か獣にガブリと食らい付かれたその瞬間が、見事に傷口となって残っていたのだった。
「これはひどいよ。しばらくは腕が上がらないだろうね。」
カイルは、医者としての事務的な反応しかしなかった。そして、あとはもうテキパキと手を動かして、黙々とすべきことに取りかかった。カイルが始めたことは、薬草を原料にしたペースト状のものを何種類か選んで練 り合わせ、傷に合う塗り薬を調合する作業である。
たちまち凶器は何かを悟ったレッドは、不意に夕べ・・・実際には明け方・・・の悪夢を思い出した。だが、この傷口が姿を見せた途端 にリューイの表情がひどく居辛 そうになったのを見て、その話をすることを躊躇 した。誤解を招く・・・ある者を遠回しに疑うような説明の仕方になってしまうかもしれない。この傷口では、どういう思いであれ、誰もの頭に一つ共通のものが真っ先に浮かんだのは明らかだ。そんな苦い思いが、カイルの手当てに黙って耐えているレッドの心を駆け巡っていた。
レッドは、盗み見るようにして、度々リューイの顔を窺った。リューイは一向にうつむいたままだ。あいつは、今、この俺と目が合うのを恐れている・・・と、レッドは感じた。
レッドはため息をつき、うかがい見るのを止めた。
あいつが人を襲うはずない・・・と、リューイは信じたかった。キースはいつも従順に従ってきた。言いつけを守らないことなどなかった。ただ・・・理由はどうであれ、肩の怪我だけで食い殺されていないのは、キースが必死で自制をきかせたからだとしたら・・・考えられないこともない。そう思うと信じきれなくなり、リューイはいつまでも下を向いていた。視界にちらちらとカイルの動きが見える。淡々と作業を続けているその胸中はどうなのか・・・いいようには考えられなかった。レッドもずっと黙っている。嫌なことばかりが重くのしかかってきて、リューイは、頭を上げるのがますます困難になった。
息詰まるような沈黙が続いていた。
「どうして・・・。」
リューイが何やら呟 いた。
レッドは反射的に目を向けた。
「どうして何も言わないんだ。」
リューイはうな垂れたまま、低い声で言った。
「違う。」と、レッドはあわてて否定した。
リューイが顔を上げた。ひどく動揺した、今にも取り乱しそうな顔をしている。
「だからか。だから黙ってたんだろ。」
「さっき分からないと言ったろう。目が覚めたらこうなってたんだ。」
「ドアを開けられて気配に気づかなかったっていうのか? お前が。」
「ああ、そうだ。気づいた時にはこのざまだ。この激痛のせいで、その瞬間に気絶しちまったらしい。寝てる間にこうなっちまったんだから、どう思われようが分からない、嘘じゃないとしか言いようがない。」
「そうだとしても、疑ってるだろ。あいつは・・・猛獣だもんな。」
「違う!」
レッドはもう一度、強い口調で言った。
どうしてこうなっちまうんだと、レッドは重いため息をついた。起きてからというもの、とにかくため息ばかりついている。
一方のリューイはまたうつむいて、小さくなっていた。結局のところ、レッドが、キースを疑いながらも庇 っているようにしか見えなかった。
だがふと、そこでリューイの頭に別の可能性が浮かんだ。
リューイはのろのろと顔を上げて、レッドを見た。
「あいつ・・・俺とお前の部屋を間違えたんじゃあ。」
「は?」
「お前、あいつとは知らずに斬りつけようとしたなんてこと・・・。」
「つまり、キースが、お前と俺を間違えて俺のそばまでやってきたところ、俺がキースと分からず、とっさに剣を向けたから噛まれたと?」
「お前と知り合ってまだ間もないし、信頼してなけりゃあ・・・あいつも思わずやっちまうかも。」
「イオで攻撃されて、やり返す気まんまんだったもんねえ・・・。」
レッドの肩を縛 りながら、カイルもそう口を挟んだ。
「あのな、暗闇で、俺がキースとほかの獣を見間違 えるのは分かるが、キースは、俺の間近 まで来ないと、俺とお前を区別できないのか?」
「いや・・・部屋に入る前に分かるな。」
訓練された犬並の嗅覚 を持つキース。臭いを嗅ぎ分けるなど容易 いこと。
「しかも、お前の部屋の方が手前にあるんだぞ。それに、剣は二本ともきっちりと鞘 に収まっていた。俺が剣を向けて噛まれたなら、それはおかしいだろ。俺は本当に、何をする間もなかった。」
「そうか・・・。じゃあ、あいつ何で・・・。」
「お前はあいつを信じきれないのか? 俺は、あいつのことは保証すると言った、お前を信じてたんだがな。」
「けど、お前・・・食い殺されてないだろ? キースが我慢したんじゃないかって・・・思っちまって。」
「なるほど、そうだな。」
確かに、キースが最も可能性としては考えられた。キースの寝床は、昨夜は一階の居間だったからだ。それに、いくら利口 でリューイに従順であるとはいえ、本来野生の猛獣。何か本能が働いて我を忘れることもあるかもしれない。だが、レッドには絶対に違うという確信があった。なぜなら、例えば、理由はどうであれ、仮にキースが人を襲いだしたのだとしたら、真っ先にやられているのは、同じ居間で眠っていたエミリオとギルの二人であるはず。だが、そのギルとシャナイアの楽しそうな声が下から聞こえていたので、エミリオも無事だと推測できる。
では、ほかの獣ならどうかと考えてみると・・・やはり有り得ない。部屋のドアは押し開けることができるが、玄関にも窓にも鍵がかかっていた。そもそも、レッドが眠っていたアトリエは二階の奥にある。居間には番犬ならぬ番ヒョウのキースと屈強の戦士が二人。そこを通過して、わざわざレッドを襲いに来るのもおかしければ、それがやってくるまでに誰も気付かないのもおかしく、リューイの思う通り中途半端に食らい付いただけ・・・つまり、ほかの肉食獣なら、食い殺されていないのもおかしい。とにかく、外部からの侵入というのは、レッドにとってニワトリが空を飛ぶのと同じくらい考えられないことだった。
「だが、リューイ・・・キースじゃないことは確かだ。それは確かだが、それしか言えない。ただ、一つだけ心当たりがある。真面目 に話すぞ。さっき思い出したことだが、俺は真夜中に妙なものを見た。何かに体を押さえつけられて、その時ひどい痛みを感じたんだ。だが束 の間だった。暗くてほとんど何も分からなかったが、その中ではっきりと覚えているのは、二つの真っ赤な目玉だ。キースの眼光は赤くはないだろう。それに、獣の臭いもしなかった。だから、俺は心から違うと言っている。お前が信じてやらなくて、どうするんだ。」
「けど・・・その傷口があるのも確かだ。それは牙の跡だぞ。」
「ああ、疑問は山ほどある。」
「うーん・・・手掛かりがたったのそれだけじゃあ、犯人ってゆうか、犯獣を捕まえない限りは、ほんとに分からないね。まあ・・・とにかく、あとでゆっくり会議しようよ。とりあえず、今夜は別々に寝ない方がいいんじゃないかな。」
掠 り傷の手当も済ませていたカイルだったが、そうしながら話の内容はしっかりと聞いていて、治療道具を片付けたあとで言った。
思った以上に事態は深刻である。確かに注意をうながす必要もあり、こうなれば仕方がないな・・・という思いで、レッドはまた大きなため息をついた。
「それじゃあ、僕は森へ行ってくるから。」
そう言いながら立ち上がったカイルは、さっさとドアへ向かった。
昨夜二人で過ごした場面がよみがえってきて、レッドはあっと口を開ける。
レッドは、ドアノブに手をかけたカイルを呼び止めた。
「しっかりやれよ。ああ、手当てありがとな。楽になった。」
笑顔で応えて、カイルは部屋を出て行った。
そのまま心の中で応援していたレッドは、視線を感じて向き直った。無言のまま見つめてくるリューイのその目と、目が合った。リューイはまだ困惑している様子。
レッドは、「非常におかしなことが起こっているんだ。ひとまずカイルの言う通りにしよう。」と言い聞かせた。
その時、廊下が軋 む音がして、ドア越しに気配を感じた二人。
まもなく現れた男は、レッドを見るなり稀 な青紫の目を丸くした。
「どんな無茶をしでかしたんだ。」
「ああその・・・あとで説明する。皆のいる前で。」
レッドは苦い表情で答えた。
ギルは顔をしかめたが、レッドがそう言うので追求しなかった。その肩の包帯を見れば、なぜカイルの部屋 ―― 階段を上がって最も手前の部屋 ―― にいるかは理解できたが、そのカイルの姿がない。
「坊やはどこだ。」
「森へ行ったぜ。」と、リューイが教えた。
「下りて行かなかったか。」と、レッド。
「ああ、ちょっと外へ出てたからな。」ギルは親指を背後へ向けた。「来てみろよ。畑がひどいことになってるぜ。」
カイルはその一枚をぎゅっと絞って、まずレッドの肩の血を
その傷口は、あっと驚くものだった。だが実際に口に出して、そう声を上げた者はなかった。ある感情に押しとどめられて、誰もが胸の内だけで叫んだ。
血の下から現れたものは、なんと大きな穴。恐らく、歯型・・・犬歯の
「これはひどいよ。しばらくは腕が上がらないだろうね。」
カイルは、医者としての事務的な反応しかしなかった。そして、あとはもうテキパキと手を動かして、黙々とすべきことに取りかかった。カイルが始めたことは、薬草を原料にしたペースト状のものを何種類か選んで
たちまち凶器は何かを悟ったレッドは、不意に夕べ・・・実際には明け方・・・の悪夢を思い出した。だが、この傷口が姿を見せた
レッドは、盗み見るようにして、度々リューイの顔を窺った。リューイは一向にうつむいたままだ。あいつは、今、この俺と目が合うのを恐れている・・・と、レッドは感じた。
レッドはため息をつき、うかがい見るのを止めた。
あいつが人を襲うはずない・・・と、リューイは信じたかった。キースはいつも従順に従ってきた。言いつけを守らないことなどなかった。ただ・・・理由はどうであれ、肩の怪我だけで食い殺されていないのは、キースが必死で自制をきかせたからだとしたら・・・考えられないこともない。そう思うと信じきれなくなり、リューイはいつまでも下を向いていた。視界にちらちらとカイルの動きが見える。淡々と作業を続けているその胸中はどうなのか・・・いいようには考えられなかった。レッドもずっと黙っている。嫌なことばかりが重くのしかかってきて、リューイは、頭を上げるのがますます困難になった。
息詰まるような沈黙が続いていた。
「どうして・・・。」
リューイが何やら
レッドは反射的に目を向けた。
「どうして何も言わないんだ。」
リューイはうな垂れたまま、低い声で言った。
「違う。」と、レッドはあわてて否定した。
リューイが顔を上げた。ひどく動揺した、今にも取り乱しそうな顔をしている。
「だからか。だから黙ってたんだろ。」
「さっき分からないと言ったろう。目が覚めたらこうなってたんだ。」
「ドアを開けられて気配に気づかなかったっていうのか? お前が。」
「ああ、そうだ。気づいた時にはこのざまだ。この激痛のせいで、その瞬間に気絶しちまったらしい。寝てる間にこうなっちまったんだから、どう思われようが分からない、嘘じゃないとしか言いようがない。」
「そうだとしても、疑ってるだろ。あいつは・・・猛獣だもんな。」
「違う!」
レッドはもう一度、強い口調で言った。
どうしてこうなっちまうんだと、レッドは重いため息をついた。起きてからというもの、とにかくため息ばかりついている。
一方のリューイはまたうつむいて、小さくなっていた。結局のところ、レッドが、キースを疑いながらも
だがふと、そこでリューイの頭に別の可能性が浮かんだ。
リューイはのろのろと顔を上げて、レッドを見た。
「あいつ・・・俺とお前の部屋を間違えたんじゃあ。」
「は?」
「お前、あいつとは知らずに斬りつけようとしたなんてこと・・・。」
「つまり、キースが、お前と俺を間違えて俺のそばまでやってきたところ、俺がキースと分からず、とっさに剣を向けたから噛まれたと?」
「お前と知り合ってまだ間もないし、信頼してなけりゃあ・・・あいつも思わずやっちまうかも。」
「イオで攻撃されて、やり返す気まんまんだったもんねえ・・・。」
レッドの肩を
「あのな、暗闇で、俺がキースとほかの獣を
「いや・・・部屋に入る前に分かるな。」
訓練された犬並の
「しかも、お前の部屋の方が手前にあるんだぞ。それに、剣は二本ともきっちりと
「そうか・・・。じゃあ、あいつ何で・・・。」
「お前はあいつを信じきれないのか? 俺は、あいつのことは保証すると言った、お前を信じてたんだがな。」
「けど、お前・・・食い殺されてないだろ? キースが我慢したんじゃないかって・・・思っちまって。」
「なるほど、そうだな。」
確かに、キースが最も可能性としては考えられた。キースの寝床は、昨夜は一階の居間だったからだ。それに、いくら
では、ほかの獣ならどうかと考えてみると・・・やはり有り得ない。部屋のドアは押し開けることができるが、玄関にも窓にも鍵がかかっていた。そもそも、レッドが眠っていたアトリエは二階の奥にある。居間には番犬ならぬ番ヒョウのキースと屈強の戦士が二人。そこを通過して、わざわざレッドを襲いに来るのもおかしければ、それがやってくるまでに誰も気付かないのもおかしく、リューイの思う通り中途半端に食らい付いただけ・・・つまり、ほかの肉食獣なら、食い殺されていないのもおかしい。とにかく、外部からの侵入というのは、レッドにとってニワトリが空を飛ぶのと同じくらい考えられないことだった。
「だが、リューイ・・・キースじゃないことは確かだ。それは確かだが、それしか言えない。ただ、一つだけ心当たりがある。
「けど・・・その傷口があるのも確かだ。それは牙の跡だぞ。」
「ああ、疑問は山ほどある。」
「うーん・・・手掛かりがたったのそれだけじゃあ、犯人ってゆうか、犯獣を捕まえない限りは、ほんとに分からないね。まあ・・・とにかく、あとでゆっくり会議しようよ。とりあえず、今夜は別々に寝ない方がいいんじゃないかな。」
思った以上に事態は深刻である。確かに注意をうながす必要もあり、こうなれば仕方がないな・・・という思いで、レッドはまた大きなため息をついた。
「それじゃあ、僕は森へ行ってくるから。」
そう言いながら立ち上がったカイルは、さっさとドアへ向かった。
昨夜二人で過ごした場面がよみがえってきて、レッドはあっと口を開ける。
レッドは、ドアノブに手をかけたカイルを呼び止めた。
「しっかりやれよ。ああ、手当てありがとな。楽になった。」
笑顔で応えて、カイルは部屋を出て行った。
そのまま心の中で応援していたレッドは、視線を感じて向き直った。無言のまま見つめてくるリューイのその目と、目が合った。リューイはまだ困惑している様子。
レッドは、「非常におかしなことが起こっているんだ。ひとまずカイルの言う通りにしよう。」と言い聞かせた。
その時、廊下が
まもなく現れた男は、レッドを見るなり
「どんな無茶をしでかしたんだ。」
「ああその・・・あとで説明する。皆のいる前で。」
レッドは苦い表情で答えた。
ギルは顔をしかめたが、レッドがそう言うので追求しなかった。その肩の包帯を見れば、なぜカイルの部屋 ―― 階段を上がって最も手前の部屋 ―― にいるかは理解できたが、そのカイルの姿がない。
「坊やはどこだ。」
「森へ行ったぜ。」と、リューイが教えた。
「下りて行かなかったか。」と、レッド。
「ああ、ちょっと外へ出てたからな。」ギルは親指を背後へ向けた。「来てみろよ。畑がひどいことになってるぜ。」