51. 君がいたから

文字数 1,931文字

「ダメだ、()っちゃダメだよっ。」

 カイルは立ち上がり、フィアラを追いかけて沼に沿って走った。見ている方には、その姿はたまらなかった。たまらなく(つら)くて、とうとう見ていられなくなった。だがエミリオは、今度は目を伏せなかった。ただ、彼はカイルではなく彼女を見ていた。彼女の魂を見ていた。

 エミリオはハッとした。少女の魂が、沼の上を漂い流れて行くからだ。やはり気付いた時には、カイルはもう沼に足を()けていた。

「カイル、止めるんだ!」

 エミリオはあわてて駆け出した。追いついてカイルの片腕に触れた時には、(ひざ)の上まで水があった。

「嫌だ、嫌だよ、戻って。」

 カイルは、エミリオの手を(こば)んだはずみで膝を折ったが、水の中からすぐに立ち上がって、どこまでも追いかけようとした。正気の沙汰ではなかった。それが、どれほど(むな)しく無意味な行為であるかを知っているのは、誰よりも彼であるはずだ。

 エミリオは、後ろからやっとカイルの両腕を取り押さえた。

「フィアラ、フィアラアッ!」

 カイルは強引(ごういん)に止めようとするエミリオの腕から、身をもぎ放そうと(もだ)えた。狂おしくもがいた。だが、かなわなかった。エミリオの腕が腰と胸の前に回り、もう一歩も身動きがとれないようにされた時、どんな言葉も言い及ばぬ途方(とほう)も無い無力感が、どっと押し寄せた。思い知った・・・。ああ、なんて無能なことか。何もかもだ。()えきれなかった。

「独りで逝かないでええっ!」
 カイルは天に向かって()えた。

「カイル!」

 エミリオは無理やりカイルを振り向かせ、正面から抱きすくめた。とたんに直面したその怒涛(どとう)の海のような悲しみは、圧倒的な威力で覆い(かぶ)さってきて、エミリオはとても受け止めきれずに、心が(くだ)けそうになった。

「もう・・・止めてくれ。」

 カイルはエミリオの胸にしがみついて、大きく肩を揺らしていた。その手はやり切れなさと衝撃で引き攣っていた。

 この少年は、かつてない悲しみの深みにはまって、途方に暮れている。そう思い、エミリオはただ黙って、カイルを抱きしめてやっていた。あるいは支えてやっていた。強く、強く・・・。そうでもしていなければ、この少年は今にも(こわ)れてしまいそうだ。

 エミリオはふと顔を上げ、少女が天高く小さくなって、空の青に飲み込まれるのを見た。彼女はあまりにも呆気なく、軽やかに風の中に溶け込んでいった。彼女は、最後まで幸せそうに笑っていた。カイルが泣き叫んだのを見ても、「悲しまないで。」と言いながらほほ笑んだのだ。

 エミリオの白いシャツの胸の部分は、血で汚れていた。それが、カイルの滂沱(ぼうだ)たる涙で(にじ)んでいる。それでもエミリオは、自分の胸に押しつけるようにして、カイルの頭をいつまでも抱いてやっていた。

 シャナイアは、少女の遺体のそばに座って、その死に顔を切ない瞳で見下ろしていた。ギルとレッドは、沼の中にいるそんな二人を見守りながら、締めつけられる胸の痛みに()えていた。

 だが、ふと気付いた。同じように肩を並べて佇んでいるリューイの双眸(そうぼう)から、涙がボタボタと(こぼ)れ落ちているのである。だがリューイは、自分が泣いているのを知らないかのように両腕を下ろしたまま、ただじっとエミリオとカイルを見つめている。

 やがてカイルは、深い喪失(そうしつ)感の冷めやらぬ声で、言った。
「助けられたのに・・・まだ生きられたのに、フィアラがそれを望まなかった。死を望んだ。」
 何度も息をしゃくり上げながら、カイルはやり場のない思いを我慢できずに吐き出していた。
「村へ行って、たくさん友達を作って、残された人生をみんなに見守られて幸せに暮らして・・・それから風になったっていいじゃないか! どうしてそんなに死に急ぐの!」

「カイル・・・。」
 エミリオは、いよいよ力を込めねばならなくなった。

 (のど)がからんで、カイルは一度ごくりと息を飲み込んだ。
「何もしてあげられなかった・・・救えなかった・・・命も心も。最後まで独りで・・・。」

「独りじゃ無かったさ、あの子は。」
 エミリオはやっと言った。
「彼女・・・笑っていたろう? 最後まで嬉しそうに笑っていた。そこに寂しさや悲しみは無かった。愛情に包まれて、幸せの中で満足して逝くことができたんだ・・・君がいたから。」
 エミリオは、カイルの頭を抱いているそのまま、耳元で優しく(ささや)いた。
「君は、あの子をちゃんと治した。」


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