第34話 すごいことに

文字数 2,666文字

 ここ1週間、ユニットが大変なことになっていた。出勤したらドアに鍵がかかっていた。解錠して入ったら、中から閉めるよう張り紙が。
 同じ階のスタッフに感染者が出た。下の階にも。上の階はようやく解除されたばかり。隣のユニットにもコロナの疑いのあるスタッフが……? 情報は詳しくは知らされない。

 そこらじゅうにグローブが置いてある。メガネの上にゴーグルをかけ、消毒薬を入れたウエストポーチを巻き、一工程ごとに消毒。手が荒れて皮がむける。こんなことをしていると、すべてが汚れて見えてくる。

 ヒイラギさんが入院していた。スタッフに感染者の疑いがあるので、入居者も健康観察。酸素濃度が低かったそうだ。入院はユニットで4人目。まだ誰も帰ってこない。ヒイラギさんは95歳。
 ここ最近はリビングでも食事の時以外はほとんど居眠りをしていた。お風呂の時はスッと立つ。しっかりした方だ。掛け布団をきちんとたたむ。部屋の鍵を閉める。ベッドのコンセントを抜く。ナースコールの線を抜く。いくら言っても張り紙をしても不安なようだ。バッグを食事の時でも膝の上から離さない。中身は古い写真やメモや靴下が片方だけ、とか。ときどきメモや写真を出して見ているが、白内障で片目を失明している。
 なんの訴えもなかったから誰も気付かなかった。目やにが多く、眼科医に連れて行った時には遅かった。
 バッグは入院の際には持っていっていないが大丈夫だろうか?

 日曜日は入浴予定だったが前日に入れてくれたようだ。人数が減ったので余裕が出たらしい。しかしその日は2ユニットの職員、ふたりとも超勤だ。朝から夜までひとりずつしかいない。同じ階のパートも感染予防のため出入り禁止だから、手伝いに来られない。超勤の職員は
「休憩が取れない」
と怒っていた。相変わらず、出勤人数にかたよりがある。

 夜勤の女性も朝9時まで超勤だった。朝食の配膳を手伝った時に少し話した。この独身の30代の女性は春に異動になってきたが夜勤が多い気がする。気になって聞いてみた。プライベートなことは、あまり聞かないようにしているのだが。独身とかはコデマリさんからの情報。
「夜勤、希望してるんです。ローンがあるので。きつくて」
 30代の職員はマンションを購入済み。家賃くらいのローンだが管理費等がある。それも値上がりした。車は一括で買ったが駐車場代が……
 マンションのローンの審査は簡単に通ってしまったという。
「今なら高く売れるかしら?」
給料が上がっていく時代ではない。目いっぱい夜勤をしてもきつい……それがあと何十年? 体力は落ちていく。脂肪は増えていく。結婚は? 

 50代の独身女性もそうだ。賃貸は高齢になると更新してくれなくなるから、とマンションを買ったそうだ。実家は遠い離島。最近になって母親が認知症になり苦労している。すぐに行ける距離ではない。離島でも、介護施設は数百人待ちだとか。マンションを買ってあるので帰るに帰れない……

 うちの施設のそばに施設を立てている。入居希望者はたくさんいれども、働く職員が足りない。2025年問題は間近に迫ってきている。コロナで失業者が多くても介護士のなり手はないのだ。

 ユニットのスタッフは風邪だった。施錠は解除された。もうひとつ辛いことがある。省エネのためキッチンのエアコンが切られている。省エネとはいえ……暑くてぶっ倒れたらどうしてくれる? 入居者さんの部屋は涼しい。誰もいなくても切らない。介護する方はますます大変だ。虐げられてるような気になる。
 入浴時は感染予防に長いビニールのエプロンをする。ゴーグルは曇る。暑い。知らない間に脱水症状を起こした人がいる。怖いから水筒の茶をしょっちゅう飲む。

 その日の入浴はコデマリさんとカイドウさん。このふたりはなんというか、すったもんだがある。コデマリさんはふくよかでカイドウさんは痩せている。コデマリさんは車椅子だが頭はまあ、しっかりしている。カイドウさんは、見た目は品が良く、オシャレで自分で歩く、が認知が……
 コデマリさんはずっと前から愚痴をこぼしていた。カイドウさんに「太ってるね」と言われるのだと。カイドウさんに悪気はないのだろう。見てそのままのことを言う。
「太ってるね」
それを会うたび言うそうだ。3度の食事と10時と3時。隣のユニットだから現場を見たことはない。
 愚痴るたびに、コデマリさんは
「病気なんだから仕方ないね」
と自分に言い聞かすが血圧は上がる。

 8時半から10時までにふたりを入浴させる。入浴させて掃除して洗濯物を片付けて記録をする。いつの間にかそれが当たり前になってしまった。文句を言っても「ふーん」で終わる。まあ、忙しく終わるほうが暇よりいい。こんなばあさんを雇っていただいているのだから。

 1番はコデマリさんの予定。カイドウさんは血圧が170近いし、先日は入浴後歩けなくなってナースに診てもらった。
 ところがコデマリさんがいらついて血圧が高い。またカイドウさんに「太ってるね」と言われ、一悶着あったらしい。言った方は覚えていない。コデマリさんの血圧は間を置いて測っても下がらない。
 もう時間がない。コデマリさんは自分で「大丈夫だよ」と言うが、入れるわけにはいかない。順番を逆にしろと指示され、コデマリさんの部屋に行くと、着替えのバッグを膝の上に乗せ、1番に入る気満々。
 ついには怒り出した。
「他の人が測ると低いのに、あなたが測ると高い……」
なにそれ? ばあさんも頭に来て、9時過ぎに来ます、とドアをバタンと閉めてしまった。

 カイドウさんはカイドウさんで品が良いが……立ったまま靴下を脱ぐくらい元気だが……自分で体を洗いながら言った。品よく、かわいく。
「便が出ちゃったかも」
……やめてよ。あなた、90歳過ぎててもパットなしでしょ? 
 椅子を見たらまだ大丈夫だった。トイレに行きましょう、と言えば大丈夫だと。湯船の中でやられたら……10時までには終わらない。
 風呂から上がって、体を拭いてる最中にまた催して、急いで隣のトイレに駆け込んだ。バスタオルを巻いただけで。
 瞬間、水溶便。危機一髪。

 コデマリさんはベッドに横になっていた。再度血圧を測ると上が137。
「だから大丈夫だって言ったでしょ」
いつもは温厚なばあさんがムッとしたのに気付いたのか、それきり文句は言わなかった。コデマリさんは以前若い職員と揉めたことがある。その職員は辞めるの辞めないの、上を巻き込んでの大騒動。一応コデマリさんに謝り、やがて辞めていった。

 
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登場人物紹介

私。ときどき、自分のことをばあさんと言う。介護施設で短時間働いている。職場で感じる不条理を綴る。決して口には出さないが。

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