第1話 炊いたらごはんという

文字数 2,003文字

 最近の若い子は、ごはんのことを『コメ』と言う。仕事場の二十歳のO君。素直で優しいが、 
「コメ、よそって」
 何度も気になっていた。ずっと黙っていたが、ついにばあさんは言った。
「炊いたらごはんという」
 隣のユニットの、30代の子供のいる男性さえ、焼肉屋に皆でいくと聞くそうだ。
「最後にコメ食べる?」
 これは、ネットで調べたら結構あった。ごはんとは、食事のことを指す……とか。

 昨日はイチイさんの食が進まなかった。確かにおいしくはないだろうが……
 ごはんはユニットで炊く。コメを炊く、か。10人分。それを若い子は中高に盛る、ということを知らない。不味そうに盛る。
 前にいた女性の職員は、30代でバツイチだとふれ回っていたが……茶碗も汁椀も箸もおかずも、右も左も前後もおかまいなし。たかだか短時間のパートのばあさんは、なるべく黙っていようと思い、黙り通した。
 配られた認知症の年配者は無意識にだろうが位置を直す。

 イチイさんは最初5階にいた。そこでは話せる相手もいないので、よかれと思ってうちのユニットに変更したのだ。ここには元気な口達者な、しっかりしたコデマリさんがいる。コデマリさんならイチイさんの話し相手になれるだろう。
 それが間違いだったのだ。
 間違いだった。イチイさんはコデマリさんがいるからと、リビングに出て来なくなった。食事も自分の部屋で取る。ばあさんはふたりの入浴の担当だ。このふたりは相手への不満をこのばあさんにぶちまける。
 が、(つい)棲家(すみか)をそうそう変えられはしない。
 イチイさんは80歳前で、部屋にはいろいろな本がある。頭の体操、呆けないためのパズルの本、新聞も取っている。置いてある写真は何年か前の品の良い夫婦。豊かな生活をしていたのだろう。

「ジャンピングさせた紅茶が飲みたい」
 テレビでやっていたらしいがここでは無理だ。ここではティーバックのぬるい紅茶。プラスチックの味気ないカップで。イチイさんは不満を言う。
「ごはんが柔らかすぎる」
(10人分炊くからね。ほとんどの人が義歯だから硬いのはダメなのだ)
「おかずが歯応えがない」
(茹ですぎだ。ほうれん草、ブロッコリー。トマトまでさっと湯通しし、皮をむいてある)
しまいには、
「バナナちょうだい」
 預かり金で買ってあるバナナ。ごはんとおかずは残菜に。

 イチイさんは花が好きだ。祭りの時に買ってきたシクラメンを2年目も咲かせた。黒いポット植えのままの、百円足らずで買った小さなシクラメン。肥料ももらえず水だけで、それは健気な花を咲かせた。イチイさんが手入れしたからではない。イチイさんの部屋は東向き。ガラス戸越しの窓辺の花にはちょうど良い条件だったのだ。イチイさんは喜んだ。その花に気づいた者がいただろうか? 万年人手不足で仕事に追われている職場で。

 イチイさんはますますかたくなに。人と接しないから認知が進む。扱いにくいと思われる。プライドが高いと……。
 コデマリさんは聞こえるように言う。
「お高い奥様。愛想のない人」
 職員は陰口を言う。別の施設に移ればいい。もっと金のかかるところに入れてやればいい。

 歳を取ればひとりでは生きられない。イチイさんはひとりで立ちあがろうとし、膝折れしうずくまった。職員は慌てた。バイタルチェックをしナースに報告する。
「自分が弱ってるのを自覚してほしい」
 職員は嘆く。残り9人の食事はあとまわしに。
 イチイさんの部屋には新聞紙の山が。自分で片付けるから、できるから、と強情だから山が増えて崩れる。車椅子の下に新聞紙が。
 娘さんが送ってくれた花が枯れる。初めは素晴らしかったが枯れて臭気を放つ。

 プライドを傷つけないように入浴させる。ばあさんは園芸が好きだから話が合う。イチイさんは詳しい。話が弾む。携帯の寄せ植えの写真を見せると褒めてくれる。
「いいわねえ、私もベランダで……」
と長話になる。褒めればいいのに。褒めれば暮らしやすくなるのに、苦手だとおっしゃる。
 イチイさんはテレビでクラシックの番組を観るのが楽しみだ。娘さんがピアノを習っていた。ばあさんも観ている。ベートーベンのベストテンの話をした。1位はやっぱり、あれよね……。でも……ばあさんは、携帯で聴かせた。イチイさんが好きなブラームス。

 イチイさんは、母の日に素敵なパープルのカーネーションを送ってきた娘さんに、不平は言えないだろう。心配させないように、耐えているのだ。娘のために。
 この施設に入るまでに娘はどれほど苦労しただろう? 大勢の者が順番を待っている。ようやく入居できたのだ。ホッとしているはずだ。よそを探してくれ、とは言えない。イチイさんの1番の願いは、いくつになっても娘の幸せなのだ。娘に金輪際迷惑をかけることはできない。

 学生時代ならばクラス替えもある。これから学生時代以上の年月が……
 いや、コデマリさんはイチイさんより10歳上だった。


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登場人物紹介

私。ときどき、自分のことをばあさんと言う。介護施設で短時間働いている。職場で感じる不条理を綴る。決して口には出さないが。

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