第16話 昨今の状況

文字数 3,217文字

 3か月前に入ってきたパートの女性、Jさん。娘より若い30歳のフィリピンの方、結婚している。
 以前、フィリピン人の派遣の方がいたときは大変だった。年配のベテランの派遣さんは若い女性のリーダーの言うことを聞かなかった。
 だから、いい人ならいいなあ、と思っていたのだ。Jさんはマスクをしていても目を引く。色が白い。半袖のシャツから出た腕の白さ……

 パートのおばちゃんたちは話す。スペイン系? スタイルいいよね。

 フィリピンは昔、スペインの植民地だったから、その血筋を持つ人には、美しい人が多いのだとか。

 ばあさんが働き始めた5年前は若い女性が多かった。20代のかわいい人、きれいな人が多くて驚いた。男性は喜んで言った。
「レベルが高いですよね」

 その方たちはどんどん辞めていった。リーダーの女性も辞めていった。今では平均年齢はいくつ? 若い人の割合は少なくなってしまった。

 Jさんは以前はスーパーで肉を切っていた。バイトは切ってはいけないのに切っていた。日本人ではないので時給も安かった。Jさんは週4日の1日7時間勤務。あとの2日はおじいさんの介護をしに行く。
 日本語に不自由はないが漢字は読めない。しかし、iPadの漢字は位置で覚えた。記録することは多くはない。打つのは早い。
 シーツ交換もきれいにできる。入居者の男性にバカヤローと言われても全然平気だそうだ。

 Jさんに入浴介助を教えた。
 介助しやすい服に着替える。見てびっくり。濃いピンクのシャツに、体の線がそのまま出るレギンス。それも派手なボーダー柄。
「それでやるの?」
思わず言ってしまった。
「まずいですか?」
「……私もピンクだし、ね」

 かつて、お尻と腿は別なのよ、と言った人がいた。こういうことなのね。羨ましい体型。しかし、我がユニットの入居者たちに関心はない。若い男性のスタッフもいない時間。見たらどんな反応をするだろう?

 彼女は、米は玄米、パンはときどき、野菜に魚を少し、菓子は食べない。ジュース、コーラは飲まないで水を飲む。毎日体操とジョギングは欠かさない……
 なるほどね。その体型を保つためならね。先にその体型にしてくれるなら、ばあさんも努力します。

 仕事も続いてくれたらね。根性はありそう。ストイックな人は好き。反省しよう。ばあさんも……

 しかし、そんな努力を吹っ飛ばすようなことを彼女は言った。
「毎日飲みます。赤ワインを1本」

(以上『材料集め67話』と、重複します)

 Jさんがユニットに来て3ヶ月。若くてやる気があるので覚えるのが早い。すでに、リフト浴も寝浴もひとりで任されている。ばあさんは立位の取れる方の個浴だけだ。資格はなかったし、歳だったので大変なのはやりたくなかった。
 Jさんも資格はないが、正社員になりたがっている。新婚で、夜勤があるのに旦那様は構わないのか?
 覚えは速いが、正社員になるには記録ができないとダメだ。それは難しいらしい。
 Jさんがいるとばあさんは隣のユニットの手伝いに行くのだが、昨日は休みだったので久々に本来のユニットにいた。隣よりも認知が進んでいる方が多く、にぎやかだ。バカヤローが口癖のネコヤナギさん、わめいているアズサさん。

 ネコヤナギさんのシーツ交換をしているとき、彼はトイレで頑張っていた。食後の排泄と口腔ケア。職員がひとりひとり順番に。だから、ナースコールを押してもなかなか来てはくれない。ばあさんは以前は彼の排泄をやっていたが、しっかり立位が取れなくなってからはやめた。体重があるので怖い。

 なかなか現れない職員にネコヤナギさんはトイレの中で、バカヤローを連発した。こういう時に話しかけると、ろくなことにはならないから放っておく。ようやく現れた男性職員にバカヤロー。下の世話をしてくれる職員にバカヤロー……か。説教してやりたくなるが、職員は慣れたものだ。未熟なばあさんがいらいらしたときには、深呼吸しなさい、と助言してくれる。

 シーツ交換をして、吸いこみの悪い掃除機をかける。他の方は感じないのだろうか? あまり言うと、うるさがれるのではと思い我慢する。

 そのあとは足浴の準備。冬場、水が温かくなるまでには相当の時間を要する。コデマリさんは、足浴の時のおしゃべりが気晴らしになると言う。入浴の時の係がばあさんだと、よかったあ、と言ってくださる。愚痴を聞き、自慢を聞く。
「あの職員が、ああ言った、こう言った。娘が、孫が、ひ孫が……電話をくれたの、いろいろ送ってくれたの」
 職員のプライベートなことは喋ってはいけない。しかし、よくご存知だ。誰は離婚している。誰は彼氏がいる。彼女がいない。時々は聞き出そうとする。

 隣のユニットのイチイさんがおかしい。誰とも接しないからかたくなで、食事について無理難題を吹っかけてくる。食べるのは皆が終わってからだ。たまにリビングに出てくるが、ほとんど自分の部屋だ。皆の食事の時間から1時間半は過ぎている。だから、冷蔵庫に入れていたものを温める。
 それをおいしくないという。入浴介助の時も延々と言っていた。
「おいしくない。厨房の人たちは工夫しないでバカなんじゃない?」
辛辣だ。魚は工夫してチーズや明太子やソースがかかっている。それがお気に召さない。この間の夜は、ばあさんが出したら言われたので、スプーンで、ソースをこすり取ってあげた。
 リーダーも文句を言われた。サイボーズに載っていた。お茶がおいしくない。入れる人によって温度も味も違う……延々と。
『なるべくご希望に沿うように頑張りましょう』

 施設の茶は、ばあさんも何度も試したがおいしくはない。茶葉が全然ふやけない。パックの麦茶のがおいしい。
 リーダーは頑張っていた。どこからか、蓋付きの湯飲み茶碗を手に入れてきて、それに注いで出していた。魚はレンジだと硬くなるので、魚焼きグリルで温めていた。気を遣っていた。
 それでも、残菜がたっぷり。ごはんもお茶も残っていた。部屋にはお菓子があるし。
 強気の女性の職員はイチイさんに言ったそうだ。
「食費1日1500円なんですよ。わかります? 1食1500円じゃないんですよ」
よそへ行けばいいのに。お金があるなら……職員の不満も溜まる。

 コロナ禍で行事もなくなる。面会も外出もできない。しっかりした方もネガティブになる。ポプラさんに脳トレをやらせようか? などと話していた。え? あのストイックなポプラさんがネガティブに? ネコヤナギさんにバカヤローと言われながら何度も話しかけていた。善良な方は弱いのか? ネコヤナギさんは元気だ。他人のことなどどうでもいいから。自分の言葉がどれほどイライラさせているのかわからないのか? 楽しみは食べることだけ。糖尿だから糖分も水分も制限されているが痩せはしない。そのうちひとり介助ではできなくなるのでは? ひとりが支え、ひとりが排泄処理を。その間言うのだろう。
「はやくしてれくれよ。バカヤロー」
介護される身なのだから痩せてほしい。負担が大変なのだ。それで腰を悪くして辞めていくのよ……

 だが、面白いことも。最初は、わめくアズサさんに
「うるせーな、バカヤロー」
と言っていたのだが、時々そばに来ている。ティッシュを持って。渡したいのか? ティッシュをアズサさんに。そういえばすでに亡くなった女性に優しかった。懐いていたというか……そばに来ていたな。
 アズサさんもようやく言っていることが少し理解できるようになってきた。落ち着いている時は、
「足洗いに行きましょうか」
と聞くと、ありがとうございます、と言っているような気がする。お願いします、とも。素直だと、肩を抱きたくなる。
 足もおとなしく洗わせる。片足には装具が付いていて、その上にひと回り大きな靴を履いている。足の指は小さい。部屋にはお孫さんとの幸せそうな写真が。

 一寸先は……なにがあるかわからない。他人事ではないかも……

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登場人物紹介

私。ときどき、自分のことをばあさんと言う。介護施設で短時間働いている。職場で感じる不条理を綴る。決して口には出さないが。

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