第31話 お迎えが

文字数 2,320文字

 ツルマサキさんが亡くなった。84歳女性。施設がオープンした時からいらした方だ。嘔吐を繰り返し救急搬送された。
 嘔吐することが多かった。食事はソフト食が半量に、高栄養のドリンク。
 息子さんからプリンやヤクルトやリンゴジュースの差し入れがあるが、食べさせるのは怖かった。食事以外はベッド上。臥床、離床はふたり介助。食事は箸で召し上がる。器用だが、空腹は感じないようだった。混ぜて遊んでいた。

 毎日面会に来ていた息子さんがいる。コロナ禍で面会は禁止になり、最近はようやく下のロビーで15分間、アクリル板越しに会えただけ。亡くなる1週間前には面会に来ていたが。

 4話から抜粋。

 ツルマサキさんの息子さんは日に3度いらっしゃる。朝に昼に夕に。仕事の合間に作業着で。嫁や孫を見たことはないが。
 この息子は恐れられていた。モンスターだ。クレイマーだ。トイレ介助をじっと見ている。重箱の隅をつつくように文句を言う。ツルマサキさんは入居当時は車椅子から立ち上がり、何度か転倒した。それでもベルトをすると拘束になる。だから立ち上がり転ぶ人は多い。
 しかし、いかにモンスターといえども、スタッフは変わる。めまぐるしく変わる。あなたが大声で怒鳴ったリーダーもスタッフも何人辞めていったことか? 
「なんでコロコロ変わるんだ?」
それぞれ事情が……あなたも一因かも……だから、この息子さんは、いっときほど文句を言わなくなった。それに今はコロナ禍でユニットには来られない。電話はくるが。忙しい時間に電話がくる。長い。うるさい人だから丁寧に接する。仕事が遅れる。入居者は放っておかれる。

✳︎✳︎

 まさか、ツルマサキさんにお迎えが来るとは思わなかった。女性の中では若いほうだ。ここに勤めてから、80代なんて若いと思うようになってしまった。
 嘔吐し救急搬送する時点で息子さんに電話が繋がらなかった。繋がった時点でも面会は禁止。容態が急変し会えたのだろうか? 詳しい話は伝わってこない。

 皆びっくりした。皆、心配した。心配したのは息子さんのこと。大丈夫かしらね? 母親思いの息子が……どうにかなっちゃうんじゃない?
 あの息子さんのことだ。施設の対応を責めるのでは? 怒鳴り込んで来るのでは? と、ばあさんは心配したのだ。でも、4階までは上がって来られない。施設長はそういうのには慣れているだろうし……などと、冷たいばあさん。
 しかし、荷物を取りにきたときには礼を言っていたという。6年間の施設暮らし。コロナ禍の前は、毎日会いに来ていた。下のカフェに連れて行ったり、親孝行な方だった。

 そして、1週間も経たないうちに、新しい方が入居していた。全介助の女性。お迎えが来ても感傷に浸るのはいっときだ。

 カリンさんは入院したままだ。100歳になるカリンさんは骨折し手術したが、骨が(もろ)くくっつかないらしい。食欲はあるそうだ。

 先週は何人かが熱発や嘔吐した。仕事を減らしたばあさんは知らなかった。熱を出すと24時間居室対応になる。職員は大変だった。便臭には慣れていても嘔吐の処理は自分まで催してしまいそうになると。それが何人か続いた。着替えにシーツ交換。パートのいない時間はすべてひとりでやらねばならない。
 嘔吐の原因は? 症状はうちと隣のユニットだけ。職員が持ち込んだか? 原因がわからない。
 もしかしたら、食器かも? ということになり、手で洗ってから食洗機で洗うようになった。2度洗い。
 キッチン周りは……掃除がいき届いていない。シンクや水切りカゴ、炊飯器の下。冷蔵庫。食器棚の引き出しにはスプーンがビシッと向きを揃えて並んでいるが、ケースの下にはゴミや髪の毛(!)も。皆、誰かがやると思っている。やれとは言われてないし。 

 介護職は手一杯。周辺業務さん、気が付かないの? ばあさんも手一杯。予定表には[入浴 ポプラ カイドウ]と10字以内で書いてある。
 周辺業務も書けばいいのに。[✳︎✳︎さん、備品補充]と。今日は食器洗剤を補充しようとしたら(夜のパートが補充すべき)在庫がない。ボードには補充するよう書いてあるのに、なぜ取りに行かない? 面倒くさいよね。倉庫は暑いし。在庫の記帳管理。
 掃除機のゴミは捨ててないから目一杯。書けばいいのに。[✳︎✳︎さん、掃除機()掃除]と。

 ばあさんは両ユニットの配膳、片付け、洗い物、米研ぎ、入浴ふたり。10時には上がって、選挙だからじいさんと待ち合わせ。倉庫に取りに行く時間はない。隣のユニットから少しもらったけど。
 ばあさんは言ってやりたかった。
「周辺業務の✳︎✳︎さんは、なんで取りに行かないんですかね? 時給9円しか違わないんですよ。私の倍の時間いて。なんで補充させておかないの? 床も汚いし。やることはいくらでもあるはず。
 遠慮してるの? 若い女性に辞められたら困る、と。私にはお風呂ふたりも入れさせて。感染防止に暑い風呂場で、マスクにゴーグル、長〜いエプロン。ひとり終われば、座って塩分チャージを舐める。それくらいは許されて? ついでにランキングを見る、それはだめ? 
 わかってます? 私の歳? 辞めるわけないと思っているの?」

 でも、たかだか週3日の3時間の勤務。文句言って波風立てたくないの。

 アズサさんの前髪が、目にかぶさって……あれじゃ前が見えないよ。モクレンさんのTシャツの着せかた、肩が合っていない。前にずれて下着が見えてる。
 仕事が速い職員だけど……辞めたリーダーが見たらなんと言うか? 嘆くか? 
 怖くて言えない。だからストレスが溜まって来られなくなったのか?

 もう、働かせていただいているばあさんは何も言いません。







 
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登場人物紹介

私。ときどき、自分のことをばあさんと言う。介護施設で短時間働いている。職場で感じる不条理を綴る。決して口には出さないが。

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