第29話 ショックなこと

文字数 1,613文字

 86歳のポプラさん。真面目でしっかりした方だ。食事やお茶の時間には、言われなくても車椅子を自走して来る。食事は常食。刻まなくていい。お風呂もほとんど見ているだけで済んでしまう、介護者にとっては楽な方。トイレもひとりで済ませパットも夜寝るときしか付けない。夜、何度もトイレに起きるというから、漏らすことはほとんどないのではないか?

 今日は朝ごはんの後、部屋に戻ったが、また出てきて座っていた。部屋の掃除の日ではないし、珍しい。いつもなら自分の部屋でラジオやCDをかけたり、体操したり、何か書いたりしているのに。
 ばあさんはシーツ交換に足浴。忙しくて声もかけなかったが、1時間くらい座っていたのではないか? 
 やがて職員と話していた。
「朝ごはんはさっき食べましたよ。忘れちゃったんですか?」
「……」 
 
 え? ポプラさんとの会話? まさか……
 ポプラさんは自分から催促するような方ではない。これから朝ごはんだと思い、ずっと座って待っていた?
 しょんぼりして自走して部屋に戻る。ばあさんは慰めたが、
「大丈夫ですよ。私だって、忘れますよ。サプリ飲むのや……」
 さすがに、食事したことを忘れたことはない。

 ポプラさんは田舎から出てきて国鉄に勤めた。真面目だっただろう。結婚し家も建て、息子さんとお嫁さん、お孫さんと暮らしていた。パーキンソン病になり、家族に迷惑をかけてはいけないから、と施設に入ったのだろう。

 しかし、うちのユニットにポプラさんと会話できる入居者はいない。隣の席のネコヤナギさんは10歳以上年下だが、言葉が不明瞭で怒りっぽい。何度もバカヤローと言われながら丁寧に接している。ユニット全員の名前を覚えている。スタッフの名前も覚えている。ばあさんの旦那の出身が秋田だということも、1度話しただけで覚えていた。
 ポプラさんは衰えないよう必死で体操していた。レポート用紙にいろいろ書いていた。病気のせいで、物が2重に見えるらしい。

 家で面倒をみるのは無理だったのだろうか? 会話がないと認知は進む。うちのユニットでは可哀想だ。ヘルパーさんに来てもらい、デイケアに通うことはできなかったのだろうか? 
 家族は皆働いている。誰もいない時に転んだら? そんなことを考えて決めたのだろう。いい方だ。こんなに責任感のある、誠実な方にも病気や認知症は容赦なく訪れる。

 イチイさんもそうだった。ひとり暮らしに限界を感じ、娘さんを安心させるために入居した。最初入った5階には会話できるような人がいなかった。そこで隣のユニットにやってきたのだ。コデマリさんとなら話ができるから楽しいだろう、と。
 とんでもなかった。たがいに嫌う。イチイさんは部屋から出て来なくなった。食事も部屋に運ぶ。どんどん衰えていく。そうならないように、脳トレの本がたくさんあるのに。人と接しないから驚くほど衰えていく。リフト浴は死んでも嫌だと言っていたが、トイレも人を呼ばなかったが……そうもいかなくなった。

 うちの隣のご主人もそうだ。真面目に定年まで勤め上げ、早くに奥さんを亡くしたが、ひとりで頑張っていた。ベランダで洗濯物を干していた。会えば手を挙げ挨拶をした。それが……今ではベランダに出て嬌声をあげる。朝も夜も関係ない。面倒をみるために戻ってきた娘に怒鳴られている。喧嘩になる。
 これは、聞いている方も辛い。
 ばあさんも経験してきたことだが、いつ終わるともわからない介護。親に、早く死んでくれ、と何度願ったかしれない。

 自分たちもそうなるかも……そう思えば嬌声くらい我慢しよう。自分たちは、親が死んでくれてて良かったね……なんてじいさんと話したりする。
 自分たちも早く死んであげなきゃね……

 2040年、高齢者の人数はピークに達する。介護者は今でさえ足りないのだ。どんな時代になっているのだろう? 
 ばあさんもじいさんも施設に入れず、食べ物と排泄物と虫と同居……

 


ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

私。ときどき、自分のことをばあさんと言う。介護施設で短時間働いている。職場で感じる不条理を綴る。決して口には出さないが。

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み