第15話 かわいがられたほうが得でしょ

文字数 2,310文字

 隣のユニットの30歳代の女性職員Aさん。勤続10年以上で超勤が多いから、年収は500万を超えるらしい。だから、辞めたくなっても考えちゃうの、だとか。ひとり暮らし。
「私、結婚しませんから、貯金してますから。年金当てにしてませんから。親より生きればいいんです」
 仕事は熱心。手際がいい。勉強している。出勤してくるのも早い。仕事の前には念入りにストレッチを。
「腰、悪くしたくないですから」
ごもっとも。わかっていても皆、仕事の前にやる余裕はない。社会情勢にも詳しい。ま、1日中大音量でテレビがかかっているのだ。しかし二十歳の女性はこの間の津波警報も北京オリンピックのことも知らなかった。
「何かあったんですか? オリンピックやるんですか?」

 Aさんは声が、きんきんしている。これはどうしようもない。ばあさんは以前ブティックで接客をしていた。電話に出る時、店長に
「1オクターブ高く話しなさい」
と言われた。気持ち的にね。そうすれば明るく聞こえるらしいが、高い声はどうしたものか? 入居者さんには耳障りな声らしい。その声で、厳しいことを言う。適当に、という言葉はAさんの辞書にはない。杓子定規。融通が利かない。

 口うるさいネコヤナギさんには、ばあさんは1番に食事を出して、黙らせてしまうのだけど、それはダメらしい。あの人ばかりいつも1番はダメ。食べるの速いから今では最後。だから配られるまで文句を言っている。
「はやくしてくれよ。バカヤロー。どうしようもない」

 お風呂はいつも1番のコデマリさん。お風呂だけではない。理美容も。90歳過ぎて、まだカラーをする。髪は黒いが薄い。染めなければ髪のボリュームは増えるのに。
「もう染めるのやめようかしら?」
と毎回、同じことを相談される。毎回、話を合わせるが。
 とにかくなんでも1番でなければ気がすまない。もう、それはダメらしい。でもね、午前中に3人入浴。比較的しっかりした方だ。入浴は週に2度。1番じゃないと嫌だと思う。Aさん、2番風呂に、最後のお風呂に入れますか? もしかしたら、中でちょっと漏らしたかも……
 それさえわからない人を最後にするのは間違いですか?

 コデマリさんは記憶力がいい。ばあさんが入浴介助の時、ユズ湯なのに知らないで、ユズを入れ忘れたことが過去に1度ある。その時は大変だった。周り中に聞いた。
「あなた、ユズ湯入れてもらった?」
何度謝ったことか。そして次の時に、残ったユズを全部入れてやった。
 コデマリさんは忘れない。ユズ湯のたびに言う。あのときは入れてもらえなかった、と。もう4年も経つのに。それだけではない。菖蒲湯のときにも言う。菖蒲湯に入れてもらえなかった、と。ばあさんはまた謝らねばならない。構わない。謝るのはタダ……
 しかし、いつまで言うのだろう? ばあさんが辞めても言うのだろうな。ばあさんの名は永遠に。お迎えが来るまで……か?

 Aさんは真剣だから、話してわかってもらおうとする。そして時々、入居者さんと衝突する。衝突してどうするの? 認知の入ったお年寄り、適当に褒めておだてて……その方が楽だろうに。普段は穏やかなマンサクさんが、怒って娘に携帯で電話をして文句を言った。
「早くしてくれないんだ……他を探してくれ」
電話された方も困るだろう。家族だって知っているだろう。介護施設の過酷な状況。10人をひとりで世話しているのだ。
 ナースには文句を言ってはいけないと言う。辞められたら困るから。しかし介護士は、特に男の高齢者は女の介護士を下女だとでも思っているようだ。女性職員は嘆いていた。

 ブティックで働いていた時に店長に言われた。
『かわいがられた方が得でしょう』
 店長にもお客様にもかわいがられたほうが得。褒めるのも謝るのもタダだし。
 長い接客勤務が嫌な女にした。媚びて甘える。プライドなどない。自分がない……高価なものを買っていただけるのなら下女のごとし。ブティックの客に比べたら、入居者さん達はかわいい。扱いやすい。
 入居者さんにも、かわいがられたほうが得でしょ?
 若いうちは嫌だろう。反発するだろう。お世辞を言って媚びて甘えるなんて。

 男性のリーダーが出勤してくるのはギリギリだ。それからサイボーズと日誌を確認。朝の配膳は遅くなる。急がない。慌てない。すごい人だ。インカムで挨拶する。明るい声で。
「今日も1日楽しく働きましょう!」
能天気な人に思えてきた。仕事は速い方ではない。ミスも多い。

 入居者が嘔吐した時は、マニュアルを引っ張り出して読み始めた。Aさんは換気もせずにキッチンに集まって喋っていたパートに呆れ、換気扇を回した。リーダーの、のんびり加減に呆れていた。しかしAさんはリーダーにはなれない。異動も多い。歴代のリーダーよりも、知識も行動力も1番だと思うが。

 リーダーは明るい。パートには評判がいい。
「Cさん、髪切りました?」
とか、気にしてくれている……と思わせる。前のユニットでは、しょっちゅう飲み会をやっていたそうだ。
 入居者さんもわかっている。何より必要な……なんだろう? 言葉、おべっか、お世辞……はたまた、優しさ。
 そういうものは必要なのだ。配膳は遅くてもコデマリさんは文句は言わない。優しい言葉をかけてもらった、気にしてくれている、尊重してくれている、と喜んでいる。他の職員だと嫌味を言うのに。これを人徳とは言わないだろうか……? 仕事のできるAさんには不満だらけのリーダーだが。

 Aさんがもう少し柔らかくなれたらいいのにな、と思う。時々折れてしまうのでは? と心配になる。
 別の階でコロナ感染者が出た時には、率先して手伝いに行った人だ。






 
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登場人物紹介

私。ときどき、自分のことをばあさんと言う。介護施設で短時間働いている。職場で感じる不条理を綴る。決して口には出さないが。

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