第4話 身内

文字数 2,595文字

 子供の幼い寝顔を見ながら、思ったものだ。
「絶対に死ねない」
 やがて思うのだろうか?
「早く死んであげなきゃ」

 若い女性の職員は言う。
「結婚しませんから。年金、当てにしてませんから。貯金してますから」

 夏休みも正月休みもない。パートは休むから余計大変だ。超勤あたりまえの職員の年収は女性にしては多い。いつか気が変わるような男性が現れるだろうか?

 働き始めて5年が過ぎた。ばあさんも歳をとった。週に20時間働いている。立ち仕事だ。座るのは食事介助の十数分。あとはiPadに記録する数分だけ。忙しいとトイレに行く暇もない。かつてこんなに働いたことはない。
 
 入居者の5年は激変だ。ユニット10人のうち7人が亡くなった。ハマナスさんは看取り状態と言われてから長い。高栄養のプリンのような食事と、水分代わりのゼリー。口から食べているのが奇跡と言われて数ヵ月。日に3度起こし皆と一緒に食事させる。
 ハマナスさんは裕次郎が好きで、もう長くないだろうからと、ばあさんは裕ちゃんのCDと使っていないプレイヤーを寄付した。しかし、家族は部屋の、月、数百円かかる電気代を、入居のときに契約しなかった。だから電気は使えない。CDはかけてはいけない。部屋では電池を入れたラジオを流している。
 
 ツゲさんは、胃瘻(いろう)にするために入院中だ。入居のときは胃瘻は拒否していたが……いざ、口から食べることができなくなると、家族はそのまま逝かせることを選ばない。

 食べられないから死ぬのか?
 死ぬから食べなくなるのか?

 ツゲさんがもう少し元気なときのことだ。ツゲさんは髪の量が多い。羨ましいくらいだ。前髪が伸びる。目に掛かる。目をふさぐ。素直な髪は分けても戻る。気になってしょうがない。職員に言えば、
「家族になにか持ってきてもらいましょうか」
悠長に構えている。実行されない。家族は理美容も申し込まない。
 ばあさんは家にあったプラスチックの髪留めを持っていき、食事の時だけ前髪を分けて留めた。
 普段は食事さえ人任せ、手を動かすこともないツゲさんが、翌日髪飾りを食べた。ガリガリと。ツゲさんには自歯がある。職員が手袋をして、取れるだけ取ったが、見事に粉々に噛み砕かれていた。しばらくは便の観察だ。
 休み明けに知らされて驚いた。謝った。勝手に持ってきたことを。お咎めはなかったが。職員は家族にも電話を入れてくれ、ツゲさんの髪はカットされた。
 2度と、2度と余計なことはすまい。たとえ目が塞がろうが、なにがどうしようが……

 若い女性の職員はいう。
「口から食べられなくなったら胃瘻は拒否する。ゼリー食さえいやだ、と。ましてや、他人に尻を……その前に死にたい、と」

 しかし、ばあさんは90過ぎまで生きるような気がする。入居者は95歳があたりまえになってきた。死ぬのも怖いが、死なないのも怖い。

 家族はいろいろだ。個人のタンスの中身を見るとわかる。シーズンごとに新しい衣類を買ってくる、サカキさんの娘さん。昨年のも、まだきれいなのに。入りきらないのに。ときどきは娘や孫が来てタンスを整理していく。
 比べてモクレンさんは入居して5年、靴下は劣化。カチカチだ。車椅子の高齢者は足が浮腫む。パンパンだ。その足に……この小さいカチカチに硬くなった靴下を履かせるのは至難の業だ。時間もかかる。裏糸が出ていれば爪に引っかかる。爪は脆いのだ。

 夏に入居したヒイラギさん。この方にはいつでも年末だ。
「もう今年も終わりだね。あっという間だね。今年もお世話になりました」
が口癖だ。
 冷暖房完備の施設で半袖を着る高齢者はほとんどいない。カーディガンもない。きれいな半袖はきれいなままだ。数枚の長袖はボロボロだ。電話で姪御さんに知らせる。送られてきたのは……デザインの凝った襟ぐりの開いたもの。素敵ですね。でもね、ヒイラギさんは痩せています。とてもとても細いの。鎖骨に水がたっぷり溜まる。細い首から下着が見える。

 モクレンさんの息子さんの場合。買ってきたのは流行なのか、後ろの裾が長い。流行りましたね。ばあさんも着た。お尻が隠れるから。でも、それはトイレが大変なのよ。考えてほしい。長い裾をめくり上げ、ズボンを降ろす。素直な素材はストンと落ちる。長い裾をめくり上げ座らせる。邪魔だ。切ってしまいたい。
 そして、言いたい。イメージしてよ。頭のてっぺんから足の先まで。なぜ靴下を買ってこないの? あなたのおかあさんなのよ。カチカチの靴下。そしてスタッフはなぜ言ってくれないの? 靴下も劣化していると。5年も履いているのだと。
 モクレンさんは息子さんが面会に来ても、なにも喋らない。息子さんは携帯をいじっている。ものの10分もいないが。
「じゃあ、帰るよ」
と息子の言葉に、
「気をつけて帰んなよ」
それだけは毎回言うのだ。

 中には親孝行の息子もいる。ツルマサキさんの息子さんは日に3度いらっしゃる。朝に昼に夕に。仕事の合間に作業着で。嫁や孫を見たことはないが。
 この息子は恐れられていた。モンスターだ。クレイマーだ。トイレ介助をじっと見ている。重箱の隅をつつくように文句を言う。ツルマサキさんは入居当時は車椅子から立ち上がり、何度か転倒した。それでもベルトをすると拘束になる。だから立ち上がり転ぶ人は多い。
 しかし、いかにモンスターといえども、スタッフは変わる。めまぐるしく変わる。あなたが大声で怒鳴ったリーダーもスタッフも何人辞めていったことか? 
「なんでコロコロ変わるんだ?」
それぞれ事情が……あなたも一因かも……だから、この息子さんは、いっときほど文句を言わなくなった。それに今はコロナ禍でユニットには来られない。電話はくるが。忙しい時間に電話がくる。長い。うるさい人だから丁寧に接する。仕事が遅れる。入居者は放っておかれる。
 ツルマサキさんの部屋には保湿クリームが何個ある? 体はひとつなのに。次々に買ってくる。乾燥肌だから。ちゃんと塗ってやってくれ、と。リップクリームが何本も。朝飲ませてくれ、とヤクルトが。ツルマサキさんはソフト食。高栄養の飲み物に牛乳にお茶。水分を摂らせるのは大変なのだ。そしてカップの中身を床に投げる。ぶちまけるならお茶にして。

 ああ、だけど、母親思いだ。うらやましい。我が息子は……来ないだろうな。月に1度も。責めはすまい。私も親思いではなかった。
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登場人物紹介

私。ときどき、自分のことをばあさんと言う。介護施設で短時間働いている。職場で感じる不条理を綴る。決して口には出さないが。

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