第32話 皆、愛しい

文字数 2,066文字

 3時間勤務なのに相変わらず、入浴介助がふたり。
 施設は近い。家から5分もかからない。(だから続いている)
 10分前にスタッフルームに入って記録を読む。7時から2ユニットの配膳、片付け、洗い物、米研ぎ。
 入浴ひとり目は8時半。血圧の低いポプラさんから。ポプラさんはいつもねぎらいの言葉をくださる。こちらの都合で朝早々に入浴させているのに、何時でも大丈夫だと言ってくださる。パーキンソン病で不安だろうに。
 ……よかった。何事もなく終わった。6年間、何事もなく済んできたのだ。それが当たり前だと思っている。 

 次はカイドウさん、血圧は上が159。170以下なら短浴で、とOKが出る。カイドウさんは歩くのが速い。ばあさんの手を握りスイスイ歩く。立ったまま服を脱ぐ。靴下も片足立ちで脱ぐ。怖いから座って……
 自分で洗う。湯船に入る。肩まで入る。長湯は怖い。「上がりましょう」と言えば「体、洗うの?」と聞いてくる。すでに体を洗ったことを忘れている。

 湯がぬるいと言う。熱いのは怖い。だいたい入浴させるのさえ怖い。入ったら出ようとしない。3度急かせて出ていただいた。
「血圧が高いのでお医者様に短めにって言われてます」
お医者様を出せば納得するのだが、補聴器をはずしているので聞こえない。
 なんとか出ていただいたが、脱衣所までの足取りがおぼつかない。
「頭がぼーっとする」
えーっ? 拭きながら様子を見る。血圧を測る。104。入浴の後は下がるだろう。うちのユニットの職員には報告したが、たいした事だとは思っていない。カイドウさんは隣のユニットの方だし。

 急いで服を着せた。歩けるというが、一歩が出ない。もう1度職員に声かけしたが、反応はない。この職員は、耳が悪いのか、と思うくらい反応がない。(だから入ってきたパートも、口を利いてくれないと、施設長に言って早々に異動していった)
 隣のユニットも職員が足りないので、パートが早番をしているが、いない。見当たらない。

 オリーブさんの車椅子を借りて部屋まで戻る。ベッドに横にして、もう1度血圧を測ったら114。ちょうどナースが来たのでその旨伝えた。「あとで診てみます」だって。こっちは、義兄が風呂上がりに倒れたことがあるので怖い。あれは、軽い心筋梗塞だった。

 心配で、10時過ぎても帰るに帰れず。ナースに「どうでしたか?」と聞けば、「これからです」と。そしてカイドウさんの部屋からすぐに出てきて、行ってしまった。ばあさんに報告はなしですか?
 そして、前述の反応のない職員と話している。このふたりは気が合うようだ。

 親しいパートさんにメールして、翌日の様子を教えてくれるようお願いした。結局、何事もなく元気に歩いていたと言うので安心した。

 何事もなくてよかったけど……また、カイドウさんを入浴させるのは怖い。
 歳だから勤務時間を短縮したのに「風呂ふたりはきつい」と女性職員に愚痴れば「ふーん、そう?」と受け流された。

 ばあさんの歳になって、やってみな! すぐだから。ばあさんだって、ついこの間は二十歳だった。

 ツルマサキさんが亡くなりすぐにプラタナスさんが入ってきた。早すぎると思ったら階下のユニットからの移動だった。ツルマサキさんは食事は介助なしだったが、プラタナスさんは全介助。楽な方がよかったのに……
 しかし、楽な方とは? 介護士にとって楽な方とは? 特養は介護度3からではないと入居できない。介護士にとっては介護度が高いほうが楽な場合がある。胃瘻で寝たきりのツゲさんより、立ち歩き転んでしまうオリーブさんのが大変だ。なおかつ体格がいいから、支えるのが大変だ。

 プラタナスさんはふたりで車椅子に移乗する。ばあさんは足の方を持つ。痩せているから軽い。今日初めてじっくり見た。
 ……
 口を開けている。大きく縦に口を開け、舌を出している。長い舌を。

 舌を出している。気になって何度も見てしまった。褥瘡(じょくそう)があるので、食事は長い時間座らせておけない。
 
 舌を出している人は初めて見た……

 調べた。当てはまるかはわからないが。ジスキネジアと言われる症状の一部……

 残酷な症状だ。女が、いかに年を取っても、認知症になっても……

 前述のカイドウさんは90歳を過ぎているがおしゃれだ。下着も色っぽい。ブラを付ける女性は初めてだ。中に収めるために自分で持ち上げている。ネックレスを入浴時も外さない。そしてスカートを穿いている。
 上品だ。子供のことを聞いた。
「息子より、娘のがいいわ。息子はだめ……暴力を振るうの」
 長い人生。今はなにを思うのか? 

 以前、皆を幸せな気分にする方がいた。小柄で目が小さくて、よく叫んでいた。
「かーちゃん、かーちゃん」
「かーちゃん、どこ行ったの?」
「かーちゃん、ごめんなさい」
「かーちゃん、貧乏だっていいじゃないの」

 職員の癒しになっていた。異動した職員が、疲れるとわざわざ顔を見に来て、手を握っていた。かわいい人。ばあさんも今でも思い出せる。小さな目と表情。声の調子。認知症でも愛しい人がいる。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

私。ときどき、自分のことをばあさんと言う。介護施設で短時間働いている。職場で感じる不条理を綴る。決して口には出さないが。

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み