第8話 ひとごとなのね

文字数 1,510文字

 娘が小学校1年生くらいの時、出かけた帰り道。
「トイレ行きたくないんだ」
「どうして?」
「痛いんだもん」
「なんで早く言わないの?」

 イチイさんが土曜の夜から腹痛を訴えた。かたくなだからスタッフは苦手だ。
 日曜日、食欲がない。腹痛。トイレが近い。パットに血が。トイレに鮮血が……スタッフはナースに申し送り。女ならわかるだろう? しかし、診てもらわないと薬は出せない。そして次のナースへ引き継ぐのを忘れたようだ。
「あら、知らないわ」
そう言われた、とイチイさんは火曜日の入浴介助の時にばあさんに訴えた。

 やりにくい方だ。プライドが高い。午前中に3人、風呂に入れなければならないのに、イチイさんはスムーズにいかない。入るまでが長い。入ってからも長い。ばあさんはその後、風呂掃除、服とパットの片付け、脱衣所の掃除。そして昼食の配膳をしなければならないのだ。
 先日はホームランダービーを観ているから遅れた。いっそ午後にまわそうと思ったら終わってくれた。それから入浴。ばあさんは帰る時間が過ぎてしまった。

 しかし、何がどうだろうと、膀胱炎を放っておくなんて……イチイさんは訴えても聞いてもらえず、家族に電話しようと思ったが、娘も仕事だし……ひたすら水を飲んで耐えたんだそう。
 ばあさんも妊娠中にあった。漢方薬しか出してもらえず治らない。辛くて3日ゴロゴロしていると夫は言った。掃除しろ、と。これは……一生忘れない。一生恨んでやる。夫は覚えてはいないが。ばあさんも忘れていたが、病名を聞くと思い出す。恨みがよみがえる。

 それほどの辛さを放っておかれた。ナースも人ごとなのね……くどくどくどくど言われた。若いO君には愚痴ったという。言いやすいのだ。しかし若い男性にはわからないだろう。あの辛さは。わかっているばあさんは、娘をすぐに病院へ連れて行った。あの痛みを味合わせたくはない。
 それを水を大量に飲んで耐えたという。さすがにたかがパートのばあさんも黙ってはいられなかった。若い女性の職員は経験がないそうで辛さがわからない。男性のリーダーも。

 これが、口うるさいコデマリさんだったら対応は違っただろう。コデマリさんはすぐ家族に電話をする。携帯を持っているから。家族は施設長に苦情を入れる。
 コデマリさんは頭痛持ちで、職員は常用を心配し薬を出さない。コデマリさんは怒り心頭。それ以来、ラムネが提供される。痛いと言えばいつでもどうぞ。
 コデマリさんはばあさんに言う。
「昨日、頭が痛かったけど、薬飲んだら治ったわ」

 働き始めた頃、上品な女性がいた。自分で歩き、食事も常食。ほとんど介助が必要ない。風呂に行くと、
「あら、ここ、初めてね」
と毎回言ったが。
 控えめな人だった。食事を持っていくと、
「私はあとでいいから、あちらの方を先にしてあげて……」

 しかし入院し、看取り介護になって戻ってきた。食事の時間にはリビングに連れてくるが、手を付けない。
「おなか、すいてないんですか?」
「ええ、今は」
当時は看取りというものがわからなかった。食べなければ死ぬ……必死で勧めたが……
 穏やかな最後だった。最後まで敬語を崩さず面倒をかけず。誰にも看取られず……
 仕方ない。夜勤はひとりで20人を見るのだ。付きっきりではいられない。逝く人がいるのに、かたや夜中にナースコールを何十回も鳴らす人がいる。入所してから5年間、ずっとだ。昼も夜も鳴らし続ける。職員が行くまで。
 待っててください。わかりました、今行きます、は理解されない。遅いと、上に言いつけてやる。金、払っているんだから……
 そう、あなたにいったいいくらの介護保険が使われていることか? 
 迎えが来るまで。




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登場人物紹介

私。ときどき、自分のことをばあさんと言う。介護施設で短時間働いている。職場で感じる不条理を綴る。決して口には出さないが。

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