第9話 本郷大斗会<東京デュエリスト伝説> 純子対彌千香
文字数 17,632文字
草薙ノ剣
ヤマトタケルは駿河国で、敵の放った野火に囲まれ、死を覚悟した。
剣で草を薙ぎ払い、向い火を点けると、風向きが変わった。
タケルは難を逃れ、その剣に草薙剣と名付けた。
日本書紀
二〇二五年六月二十三日 月曜日
最初の動画の再生回数は、一週間で一気に三十万回を数えた。
十連歌のゲリラライブの撮影に成功したことが主な原因で、タグにも十連歌の文字を入れてある。当の十連歌チャンネルが、U-Tubeから削除されていることも大きい。視聴者は十連歌の情報に飢えていた。同時に令司は「東京伝説白書」の原稿執筆も開始した。
「東伝砲炸裂だな。天馬の語る人狼伝説もよかったし、ラストシーンのプロジェクション・マッピングは圧巻だった! まさか渋谷にこんな面白い現象が待ってたなんて、第一回としては予想以上の収穫だ。今後に期待するとしよう」
マックス先輩は、深々とうなづいた。
メンバーは大好評で、初めてとしては大成功だろう。天馬雅を主役に据えたことで、再生回数が伸びたというのが、メンバーの一致した意見だった。
「で、結局天馬はどこに行ったんだ?」
マックス先輩がみんなに訊いた。
「あれから連絡は?」
「俺もない」
藪が答え、他のメンバーも首を横に振った。
一週間、天馬には誰も会っていないらしい。結局、その日、バイトに行ったのだろうか?
「家系カレーの店って、『二十四時間、死ぬ気で働けば不可能はない』のフレーズで有名な、ブラック企業四天王の一つだったよな。彼、授業中でも急に会社に呼び出されるんだ。ブラック企業の経営者は、多くが東大などの高学歴だが、人の痛みがわからねーっつーか、なんつーか」
マックス先輩は窓を見ながらつぶやいた。荒木部長と同じだ。
「それも、学生時代に『革命』に打ち込んでたはずの連中が、ブラック企業の社主をやっている」
「どうなってんだろうね奴らの思考回路は」
「さぁな」
「雅は授業出てんのかな」
「灯台下暗し! 近くにいるのかも」
里実が令司に目配せした。
「東大下暗し。それなら、次はいよいよ東大の伝説を追わなくちゃ」
令司は何気を装って言った。
あの夜来た医学部の連中への不安はあったが、同時に確かめたいという気持ちもあった。
「じゃ、東大首席の海老川雅弓さんを追う? うちらの大学、上級都民の巣窟だよね」
副部長が「人の痛みが分からない」と口にした伝説の勢力について、里実は切り込もうとしている。
「イヤイヤ、そこはちょっとまだ早すぎだろ。海老川グループのご令嬢だ。この東大にもタブーってもんがある。彼女は駒場を仕切ってるんだぜ」
藪がますます声を潜めていった。学生が駒場を仕切るってどういう事だ?
「え~!! でもこの視聴回数なんですよ? 今なら勢いでイケるかも!」
里実は、東大に革命を超すなどと、無責任な中二病を発症し始めた。十連歌のゲリラライブにかぶれているのではないか。
「ちょ、声が大きい。急にイキったみたいで、学生自治会に目を付けられないほうがオカシイ」
藪が焦ったようにいうと、マックス先輩が同意した。
「そうそう、駒場は、もう少し実績を積み重ねてからでも遅くない」
「ですよねー、チャンネル消されてからじゃ遅い」
藪が深々とうなずく。
「マサカね」
里実は肩をすくめた。
「新田君、今日も本郷へ?」
マックスは黙っている大男に視線を送った。
「あぁ……」
新田は本郷へ何か用があって、毎日出掛けているらしい。
「じゃ、令司君の言ってた本郷キャンパスの伝説なんかどうだろう?」
上級都民伝説を提唱したのは、そもそもマックス先輩だ。
「なるほど、本郷は駒場じゃない。うん……なら大丈夫か?」
藪もあっさり同意した。そういうものか? そんなに駒場キャンパスを恐れる理由が、令司には理解できなかった。
「雅君がウケたから、次は新田君を映して、でまた令司君がインタビューという形式で。順番にメンバー紹介ということで出して。どうだ?」
毎回、アシスタントをゲストとして主演させていくスタイルだ。
「あぁーイイっすよ別に。ひょっとすると俺の趣味動画になっちまうかもしれねーけど」
新田は腕の筋肉を見せつけた。
「いいんじゃない? 毎回、ハードな内容を視聴者に見せつけなくても」
藪がそう言うと、新田はムッとしてにらんだ。
「さっそく行ってもらおうかな、令司君。一週間時間が空いたが、残りの伝説取材を消化するのに、今後は週何回か、詰めてやる必要も出てくる」
「はい」
次のアシスタントは、中性的な天馬雅と真逆の新田真実(まこと)と決まった。自称空手・柔道・剣道、併せて十段の猛者だ。たとえ前回のようなことがあったとしても、心強い。
駒場から本郷へは、電車で三十分、車でも三十分の距離だ。
新田は令司をマイカーのランドクルーザーに乗せ、駒場キャンパスから、本郷キャンパスへと移動した。生産終了したメガクルーザーで、自衛隊にも搬入されているという。艶消しグリーンで、どう見ても軍用車っぽい。自動運転でも行けるのだが、新田は自分でハンドルを握るのが好きらしい。運転中ずっと目覚ましガムを噛み、静かなEDMを流している。
「タバコは、二十歳になって禁煙した」
トップがつんつんに逆立った頭の新田は言った。
「タバコは筋トレに悪いんだ。悩んでたトコに値段がひと箱千円に上がったし、月三万じゃ代金がかかりすぎる」
「二十歳で?」
「あぁ……」
「――それ、普通逆じゃないのか?」
いつから吸ってたんだか。新田は正確にはヤンキーではない。だが、マイルドヤンキーには違いない。
新田は煙草の代用に、缶コーヒーを飲んだ。一日三本飲んでいるという。安くても一本百円で、一日三百円。一か月で九千円。結局、金使っているじゃないか。
「俺も小説を読むことがあるんだぜ」
そう言って新田が列挙したタイトルは、藪二来未(やぶにらみ)の「野人に死を」・「目覚めの青狼」、新井正仁の「ウルフガウ・シリーズ」。すべてハードボイルドだ。実に新田らしいと言える。
令司は五月祭に行ったきり、表面的な部分しか本郷キャンパスを見学したことがない。
「新田君、東大下暗しといいながら、なぜ最初に本郷を? まず駒場から伝説を調べた方が早いんじゃない」
「駒場? まだ早すぎる。マックス先輩はああ云いながら、やりたそうな感じだったけど。まぁ、そのうち分かるよ」
だが令司にとっては、本郷こそ東大伝説の本丸のような感じがした。二十年前の無人化事件、工学部の爆発。さっきから、奇妙な武者震いと格闘している。駒場の方が気楽なくらいだ。
「こないだは、雅君と歩いてたらやたらとスカウトされてたよ」
「あぁそりゃそうだろう。俺は歩くと職質される。ガハハハ!」
今日は大学内の取材でよかった。
「俺だってスカウトされたことくらいあるんだぜ。自衛隊だけどよ」
「ハロウィンで五人倒したんだって?」
「雅から聴いたのか? 全員で一分もかからなかった。まぁ……俺にとってはウォーミングアップっつーか、カスにも相手にならん連中だった。その後のサツの方がずっとやっかいだったがな。暴動に無関係だと分かった後も、今度は過剰防衛だっていうんだ。結局不問で帰されたが、まったく後味の悪いハロウィンだったぜ。――スマフォに十連歌の曲が入ってたんだ。熱烈なファンって訳じゃないし、デモにも行ってないのに……あいつら目ェつけてきやがったんだ」
新田は人間凶器だ。ヤンキー以上だ。雅の言ったことは本当だったらしい。
「十連歌との関係を厳しく追及された。皆には言ってないこともあるんだが、実は俺が倒した人狼コスは、デモ隊の扇動じゃなくて覆面警官だったんじゃないかと思う」
「――えぇ?」
「そいつらが追ってたのは、同じ人狼コスの本物の十連歌の連歌師たちだった。俺は彼らを逃がしてやったんだ」
そのせいで、新田はグレーな対象として、目をつけられた。そりゃそうだ。本当なら、デモに加担したも同然だ。にしても警官五人を伸してしまうとか。どちらかというと、天馬雅の方が十連歌のファンらしい。
話してるうちに本郷に到着した。
「ここが俺の聖地だ」
本郷キャンパスにある御殿上(おでんうえ)記念館は、学生のためにトレーニング・ジムとして開放されている。体力づくりを目的とした学生で溢れていることで有名だ。だが、今日はガランとしている。
「ははぁ……なるほど」
「よし、じゃ俺の華麗なる筋肉を映してくれるか? 伝説探求の前に、体力づくりだ。筋肉は、一日休めば取り戻すのに三日かかるからな」
新田も、一年で必須科目の単位をほぼ消化していた。持て余した二年生の時間を筋トレに費やしていた。
新田は、「御殿上真実」を自称するほどのジムマニアだった。
まずベンチプレスを十回、三セット。続けてスクワット、デッドリフト、クランチを十回、三セット。さらにランニングマシンでジョギング三十分。黙々とこなしていく。
これじゃただの新田のトレーニング動画になってしまう。東京伝説を取材に来たはずなのに、一体俺は何を撮っているのだろう……。肝心の伝説の原稿も書けやしない。令司は焦りを感じた。
「今夜も月はまだ丸い。丸いうちじゃないとできないんだよ。鍛えておかないと」
「へぇ……そうなんだ」
六月十五日の今日の月齢など、令司は意識していなかった。
「天馬君から聞いたところでは、新田君は満月になると筋力が増すっていうんだけど、そんなことあるの?」
令司は撮影しながら質問を始めた。なんとか東京伝説に戻さないとと、焦りを感じながら。
「あぁ……本当」
「それで、天馬は君が人狼だと本気で疑っていた」
リアル・ウルフガウ。それは新田だ。
「え? 俺が人狼? ハハハ、なんだそれ。干潮・満潮はもちろん、自然界は月の重力の影響を受けているじゃないか、生物全般にも影響がある。人間だってそうだろ。女性の月経もそうだし。――ま、そういう話」
「まぁ、たしかに」
「筋肉も月の影響下にある。そいつは事実だよ。だからその月のバイオリズムみたいなものに合わせてトレーニングすると、いい結果が出るんだ」
なぜこんなに脳みそも無駄にマッチョなヤツが、東伝会に属しているんだろう? 真空空手もやっているらしい。
「こんな日は外をウロウロしてるだけで、職質されちまう。ハロウィンだけじゃなく、俺は日ごろから多いからね。きっと満月の日には犯罪者が増えるって、警察も知ってるんだな」
「それ、天馬君も言ってた」
「他の奴らが女々しいんだよ。マッシュヘアの量産型東大生は特に女々しい、もう少し男らしい髪型にしてくれ」
「雅君は?」
雅はマッシュではないが。
「いや、あいつは特別」
新田はみっちり二時間のトレーニングを終えた。
「お待たせ。さて、本郷の伝説取材を始めようぜ」
本郷無人化
時計は六時三〇分を回った。そこからようやく取材が始まった。
「妙だな……」
二人は薄暗いキャンパスを見回した。
「なぁ、ここへ来て、誰かとすれ違ったか?」
「いや……」
令司はよく考えてみたが、誰とも会ってない。さっきの御殿上トレーニング場も無人だった。
「なんかおかしいぞ」
「ホントに誰もいない」
人を探してうろつく。白昼突然に、人が消えた。
「ロックダウンを思い出すな……」
新田は呟いた。
「……あの頃から高校でもリモート授業が始まった。今は減ったけど。俺たちだって自粛してたのに、年寄りやマスコミは若者ばっかりバッシングした」
「應援團だった時、うちの高校は吹奏楽部が盛大で、毎年毎年コンクールで優勝していたんだ。それがすべて定期公演を含めて中止になった」
新田は話しながら、植田講堂を凝視している。
一九六〇年代末の、「植田講堂事件」であまりにも有名なゴシック建築物。学生運動家がバリケードを築いて「解放区」を宣言。二日間にわたって機動隊との攻城戦を繰り広げ、テレビを通じて全国に報道された。
「……植田講堂の正面入口を、例のあさま山荘を破壊したモンケンで突破するっていう作戦が立案されたんだ」
「植田講堂を?」
「あれ、前もってあった作戦なんだよ。最終的に、有形文化財第一号だからってコトで却下されたんだけど」
その植田講堂前の芝生に、黒檀製のテーブルが置かれている。
「祭壇」といった方がいいかもしれない。最初に通りかかったときにはなかったはずだ。その上に、二本の刀が置かれている。
「おい、これは一体なんだ? 本物?」
「まさか……銃刀法違反だ」
令司は、刀を間近で撮影しながら、さっきと異なる空気の変化をひりひりと感じていた。
新田は、刀の一本を手にすると半分抜いてギョッとし、ゆっくり令司に渡した。
「オイ本物だぜ。……見ろよ」
「いや―――これは居合刀だ。真剣じゃない」
「そうなのか?」
「あぁ。模造刀よりは鋼が丈夫だが、厳密にはこの刃では切れない」
令司は静かに元に戻した。
「だが……何かおかしいな……俺の直感だが」
「何がおかしい?」
「刀には霊気が宿るんだ。魂だ。それが、この刀には入っている」
辺りを見回すと、無人になった代わりに、突如この刀だけが出現したことが分かる。空気の正体が分かった気がした。
「どういうコト? 本郷キャンパスが……」
二人は「刀」付近を離れて、撮影しながら回った。
「完全に無人だ」
建物はそれぞれ灯りが着いて入るが、人の気配がない。
「これって……二十年前、本郷が無人になったっていう――」
東京のある街が一瞬にして無人化するという伝説を思い出した。
「第二回にしてまた本物の伝説に直面しちまったか? ――やれやれ、今日は大当たりだったみたいだ。何かあると思ったんだ。さすが満月で、俺のカンがぴたりと当ったゼ」
「ちょっと待った! ――音が聴こえる。医学部の方向だ」
黄褐色の医科学研究所の正門前に、今時の若者とは思えないファッションの、アシメのおかっぱの女の子が歌っていた。昭和歌謡のような真っ赤なドレス姿でギターを奏で、かなりの腕前だった。
スマフォを向けても止める様子がない。「撮ってよ」といわんばかりに平気な顔で歌い続けていたが、問題の歌詞の内容がやばかった。堂々と総長選挙の候補者批判をしていたのである。
「十連歌っぽいな、あの髪なんか」
ギターを弾く昭和モダンガール。青いメッシュこそ入ってないが、古風でパンクで凄く歌が上手い。それにセクシーだ。東大生とは思えないほど艶っぽい。
「ファンじゃないのか? うーん、あいつ経済の科目で一緒だ」
「……知ってるのか?」
「あまり話さないが、クラス・RINE(グループ)が活発で、確か、ちょっと変わった名前で――そうだ、小夜王(さよきみ)純子だ」
一曲撮ると、純子は演奏をぴたりと辞めた。
「新田じゃん。――こんなトコで何してんの?」
純子は両腕をブランとさせて、頭を傾けている。
「俺たち東京伝説研究会の活動中だ。目下、本郷の伝説を取材中」
「へぇ――」
興味なさそうに返事をして、ギターのチューニングをしている。
「そっちはわざわざ本郷まで来て練習か?」
「もうすぐオーディションだからさ。今日みたいな日は静かでいいナ」
純子はあたりをグルリと見回した。
そうじゃない。静かすぎる、誰もいないのだ。その代わりに、妙なものが植田講堂前の芝生に置かれていたが。
「医学部の前で? 進振りでは経済学部志望じゃなかったっけ?」
「うちが医者の家系だから、行きたくないっていったら、経済学部ならいいっていうから。ま、仕方なく」
「企業勤めか、歌手になるのか? で、何回受けた?」
「ざっと二百九十回以上受けてきた――。でも、何回落ちてもめげない」
純子はさっと髪をかき上げた。
プロを目指して色んなオーディションを受けているらしい。こんなに歌がうまくて個性が強くて、美人なのに一回も受からないとは摩訶不思議なのだが、現実はそんなものだろう。
「ははぁそっちが本命か」
「でも、近頃十連歌の話をすると必ず落とされるんだよねー」
「バカ、止めりゃーいいじゃんか」
「ヤダ。あたしのこと理解してくれるトコじゃなきゃ意味がない」
「そうやって、いつまで突っ張ていられるんだか――十連歌だって芸能界追放されてるのに」
親はさぞかし大変だろう。けど「仕方なく」でも何でも、東大に通えるのだから頭がいい。まったく、東大生らしくはないが。
「さっき本郷キャンパスを回ったんだが、誰もいないんだ、今日。――純子はいたけど」
「まぁ静かだとは思ったけど、ホント? 確かに珍しい日だわね」
「おかしいと思わん? 何か変わったことは?」
「変わったことと言えば、五十六(いそろく)池で、魚釣ってる女なら見かけた―――けど」
「人がいたのか。まだ池の方には行ってなかったな」
「池での撮影が終わったら―――あんたら、さっさと帰りな」
純子は、完成までに何時間もかかりそうなばっちり化粧で睨んでいた。
「なぜ?」
「あたぃを撮れりゃそれでもうバッチリ十分だろぅ。……ン」
純子は、研究所をじっと見ている。
警備員がまっすぐこちらに歩いてきた。
三十代くらいで身長が百八十センチ以上ある。新田よりは少し背が低いが、厚みのある体躯をしている。
「警備員もいたわけか」
純子はつまみ出されそうになって、警備員とモメはじめた。
「チョッ――何だっつんだヨ!! 誰もいねーんだからいいダロ!」
警備員は純子の細い生腕をつかんだ。
「離せバッキャロォ! あたしに触んなッッ! 気持ち悪ぅ――、セクハラすんなッ訴えるゾッ」
純子は立ち去る瞬間、こちらに流し目の視線をじっと送ってきた。
「あれは――ま、医科学の前じゃ、しょうがねェよな」
純子は大学病院にどロックを響かせていたのだ。
窪地のような地形の坂道をテクテク下り、二人はジャングルのようにそこだけ木々が生い茂った三十メートル四方のひょうたん型の池へとたどり着いた。
東大出身の文学者・八ツ目漱石の文学作品「五十六」の舞台となったことで知られている。もともとはこの辺は武家屋敷の庭園だった。
夕暮れ時で辺りは暗い。
虫の音とウシガエルの鳴き声が響き、不気味な雰囲気が漂っている。池のほとりに、黄色いぼんぼりの光がポツンと観えてきた。
「あれか―――」
二人は恐る恐る近づいた。
「あっ、いたいた。彼女だ。こんなところで何してんだ?」
小柄な女性が和竿で、前かがみに釣り糸を垂らしていた。
よく見ると、袴姿だった。赤い上着に黒い袴で、少し変わった形をしていた。ポニー・テールにして濡れたような黒髪は、腰まである。まるで「五十六」の作中に出てきそうな女性であることに、二人は気づいた。両手に、レザーの指ぬき手袋をはめている。
「何か御用?」
二人が黙っているので、女学生は誰何した。
どこか浮世離れしたお嬢様。常に空想して夢見ているような眼をしている。袴を着た、おしゃれな和風美人だ。
「……」
「俺たち東京伝説研究会だ。今、本郷を取材中なんだが、良ければ協力してくれないか」
「そのスマホ、カメラのレンズを向けるの、止めていただけます?」
「何が釣れるんだ? ここって」
池には錦鯉の姿が圧倒的に多くみられる。
「釣りではありません。これは神事です」
彼女は奥ゆかしげに顔をそらした。
「あぁ――そうなの?」
「そろそろ総長選ですので、釣果で占っています」
「そういや、純子もさっき歌ってたな」
女学生が指差した先の水面に、金色の錦鯉が顔を出していた。令司がスマホを向けると、各色の錦鯉にまぎれて、人面模様の大型の鯉が口をパクパクさせていた。
「見ろ、あれ! 人面魚だ―――」
「東大に人面魚が?」
ほんとに居た。
「よく見りゃ、人の顔というよりも猫面魚に近いかな!」
「意外と全国にいるのか――。こうしてみると、平家蟹みたいなものだ」
「そうかな」
「平家蟹って、甲羅の顔が呪いだと恐れられていて、猟師が見つけるたびに離してやってたら繁殖したらしいぜ」
新田が令司のスマホに向かって、得意げに語る。
「ガセ情報ですね。平家蟹は食用には向いてませんよ。アジア全域で発見されています。そもそも数十万年前の化石で見つかってる時点で、顔の形をしているんです」
女学生が答えた。
「え、そうなの?」
「はい」
新田のうんちくは、天馬雅のようにはいかなかったようだ。「だぜ?」とかいっていちいちバカっぽい。ここはカット必至だ。
「釣りで総裁選を占う……か。面白いな。で――どこが優勢なの」
「もっぱら、今年は工学部と経済学部の直接対決っていわれてます。おそらくそうなる」
「ふ~ん、弥生門と石門か」
弥生門は、工学部五号館前にある木製の門である。経済学部は石門前にあるのでそう呼ばれる。
「で――占いでは、どっちが勝つって出てるんだ?」
女学生の釣り糸を、二匹の大きな金色の鯉がつついていた。もう一匹は人面魚ではなかった。どちらが先に餌を食うか。彼女は糸の波紋を黒い瞳でじっと見つめていた。
人面魚の錦鯉が糸に食いついた。そこに、横から無印の魚もがっつく。
「経済学部が強いですが、今回は工学部も負けてはいません」
通常、総長選は法学部・工学部が強いといわれている。
「なるほど」
令司には彼女が、終始無印の魚を熱心に目で追っているように見えた。結局、人面魚が餌を奪い、パシャッと水音を立てて水の中に去っていった。
「―――もう、お引き取りください。本郷を、離れた方がよろしいかと」
それっきり彼女は沈黙した。純子と同じことを言う。
元来た坂を上ると、地平線に巨大な黄色い満月が出ていた。
令司には、隣を歩く男がさっきより一回り大きくなったように見えた。
「今日は、やけに変わったやつを見かけるな」
「さっきの純子も歌ってたが、今回の総長選といやあ、候補者の選考に問題があるって学内からいろいろな教授陣が異を唱えているよな」
一次候補から二次候補が三~五人に絞られるが、有力は実質二名である。
「不透明な裏側で、何やってんだか」
令司はほとんど情報を持っていない。
「いっそのこと、殴り合いでもして決めたらどーなんだ。御殿上に道場だってあるし」
「ダメだろう普通に。でも、実際やってたりして」
再度、本郷無人化の伝説に思いをめぐらしつつ、人気のないキャンパスに、何か嫌な気配を感じた。
「さっきの刀、やっぱしちょっと普通と変わってた」
唐突に、金属同士が激しくぶつかり合うような音がした。
「なんだろう」
「植田講堂前で、何かが起こってるみてェーだぜ!」
「あっ」
黒光りする「祭壇」から二本の刀が消え、二人の目の前で女たちが切り結んでいた。
「あれは―――」
「小夜王純子!? それに、さっきの女」
「キャンパスを離れてくださいと言ったはずですッ」
袴の和風美人が、令司に叫んだ。
純子が距離を取ると、袴姿は草の上を疾走して、飛び込んで斬りつける。純子は刀で受けると、前転して立ち上がりざまに斬りつけた。
相手は蹴って高く飛び上がった。
「あんなに高く飛べるのかよッ?」
新田は怪訝な顔でうなった。
クルクルクル……と宙で回転し、地面に倒れ込むと、袴少女は右手でバシッと地面を叩き、受け身を取った。
そのまま刀を振ると、駐車してあった車のガラスが砕け散り、木々が大きく揺れた。
「久々に、日本刀最強説を思い出したゼ……」
新田は相変わらずガムを噛んでいて、全然余裕そうだ。
(そんな場合か?)
そう思いつつ、令司は斬鉄剣伝説のことを思い出していた。
純子が気勢を上げて、剣を振ると車がすっ飛んでいった。
講堂にもたれかかった和風美人に斬りかかった勢いで、剣先がコンクリートを破壊する。破片がぶっ飛んでいく。純子の方がパワーがある。
「あの刀は―――さっきの居合刀じゃない。すり替わったのか?」
コンクリートや金属にガチンとぶつかる度、火花が飛び散った。あれは、本物。いや、あるいはそれ以上の――何か。
「いや、よく見ると、刀が物体に触れてない。にも拘わらず、空間を隔てて何かの圧力を発している――」
破片も奇妙な動きをしていた。物体が浮いているのだ。
「何!? お前見えてんのか? スゲェ動体視力してンな」
「観察したままに言っただけだ」
「なぁ令司……さてはお前も何かやってたろ?」
「まぁ。高校時代、居合術をやっていた」
「フン、だと思ったぜ。さっき刀を持った時に」
新田も令司が刀を持っただけで、居合をしていることを見抜いた。
二転三転しつつ、猛スピードで剣と剣がぶつかり合い、走っていく。
「あれは本気だ。気・剣・体が一致している」
二人ともすごい目つきで、殺気に満ちている。
「普通の日本刀はそんなに多くは切れない。でもアレは車を斬ったり木をなぎ倒したり、普通の日本刀とは到底考えられん」
和風美人は下からの袈裟切りでがら空きになった純子の胴を捕まえて、投げつけた。その上で飛び上がり、跳び蹴りをくらわせた。顎を狙ったキックは純子の胸にヒットした。
純子はフッ飛ばされて、自転車やバイクが次々なぎ倒されていったが、すぐに立ち上がった。純子は蹴られた衝撃で口を切って血をにじませる。
二人ともワイヤーアクションさながら。しかも、どっかから釣ってるわけではない。
こんな華奢な身体なのに……二人とも信じられないパワーだ。
「新田よりも――」
「そりゃオレどころじゃねェ。まさに修羅の化身……だぜ」
「スゲェ」
スゲェなんてものじゃない。
だが新田は戦いを観て眉を顰めるだけだ。明らかに動揺が大きいのは令司の方だった。
車が真っ二つになると、他の車が大きく揺れた。一斉にライトが点灯し、防犯ブザーが鳴り始めた。
それを合図に和風美人は回し蹴りを食らわせ、走り去った。すぐ起き上がった純子が後を追った。
走りながらの壮絶な斬り合い。
二人とも、ものすごい勢いで走り去っていった。
令司たちも後を追う。
ジャンプ、またジャンプ。
「鉄門の方向だ」
白い巨塔――実際には黄褐色の医科学部に向かっている。
何処を見渡しても誰も居ないキャンパスの中、二人は医科学研究所へと走った。
和風美人は何かを視線で追って屋上を見上げると、腰だめして助走をし、一気にジャンプして屋上へ飛び上がっていった。それを純子が追って飛び上がり、屋上へと消えた。
ライトアップされた医科学研究所の頭上から、再度、激しい剣戟の金属音だけが鳴り響いている。
巨大な満月が研究棟の上に見え、まもなく日が沈もうとしている。
「前に、『追跡中』っていうテレビ番組があった。渋谷でもどこでも無人化させて、舞台になるというゲームだ。その空間が番組によって閉鎖されると、主演者が自由にバトルゲームを繰り広げるんだ」
今がまさにその状況だ。
医科学研究所の戸が勝手に開いたように見えた。
「しかし、これは明らかにおかしい! 確かめんと――。レベル4の研究所だぞ? セキュリティレベルがとんでもなく高いはずだ。いや、そもそも本郷に人っ子一人居ないなんて、屋上で何かとんでもないことが起こっているに違いない!」
新田は研究所の入り口を見つめる。
「令司、覚悟はできているか?」
新田は思わせぶりなことを言った。
「何がだ?」
「ひょっとするとだが、こいつは……令司、俺たちは二つ目の伝説に直面している」
「……」
「大斗会、東京デュエリスト伝説だよ!」
令司の脳裏に、無人地帯で決闘する二人の侍のイメージが浮かび上がった。
「決闘? さすがにそんなことが――現実に、この日本で」
しかし二人は、それを目の当たりにした。
「いや……俺もずっとそう思ってた。藪がくだらねー伝説を引っ下げてきたな、とな。だが今も響いてる、日本刀以上の刀が斬りあうあの音――。俺たちが目撃したものは幻覚なんかじゃない。さっきの女が言ったのは本当だった。東大といやあ赤門と鉄門が有名だが、赤門は法学部、鉄門は医学部だ。それ以外にも『門』がある。門がつく学部は、それぞれにヤバイ伝説がある」
「―――うん」
「門っていうのは、『開かずの戸』のこと。つまり、すべての門に伏魔殿がある」
新田はゆっくりと近づいた。
「中でも鉄門だ」
医学部は、東大の中で特別な地位を誇っている。普段なら開かずの戸の際たるものだ。
「鉄門は伏魔殿とか言われてるハナシ――ホルマリン漬けの死体を沈めるバイト、イヤイヤそんなレベルじゃねエ。DNA研。戦時中にはここで強化兵を作ってたという伝説。お前が言ったの、あれは本当だぜ」
「不死の兵士が?」
それは、令司が紹介した東大の伝説だった。
「奴らに比べたら、特殊部隊なんて弱いぜ」
強化兵! 二人が目の当たりにした光景は、超人同士の果し合いだ。彼女たちこそ強化兵の伝説を地で行く存在ではないか。
東山京子は、ここと何か関係があるのだろうか。
二週間前、東山京子をかくまったあの夜、令司の自宅を訪問した研究者は、医学部DNA研の連中だった。特捜検事の訪問は分かるとして、あの男たちの謎はまだ解明できていない。五百旗頭検事とともに現れた彼らは、何かよからぬ研究をこの東大でやっているのだ。
「なら、俺たちはポケ門とか?」
「令司、こいつは『AR-GOGO』の話じゃないんだぜ」
令司はあえてくだらないことを言って、新田の気をそらそうとしたが無駄だった。
「位置情報ゲームアプリは、とっくに大学で禁止になってる――それに、」
相変わらず新田は、屋上から響く金属音を気にしている。
「二人の眼を見ただろう。あれは本物の決闘だ。『戦争論』の中でクラウゼヴィッツは云っている。戦争は最終的に個人間の『決闘』と比較して定義される、と。戦争とは決闘の拡大版に他ならないんだ。決闘は、対立する両者が暴力を使って、自分の意思を相手に強要しようとする。敵を打倒し、その後の抵抗を不可能にすることで目的は達成する。これが拡大したものが組織や国家間の『戦争』だ。戦争といえど、決闘と同じくルールに従ってるんだよ。つまり――」
「東大のキャンパスで、一体何の戦いがあるんだ!」
「鈍い奴だな、総長選に決まってるだろ! 純子は経済学部を、もう一方の女学生は工学部を代表しているってことなんじゃねーのか!」
新田の話はさすがに、飛躍しすぎだと思った。いくら大学に派閥争いがあるからといって、「果し合い」なんかしてたら、明らかな犯罪行為だし、東都帝国大学全体の信頼を落としてしまうではないか。
「伝説を確かめるなら、今しかない」
「でも二人に会ったし、警備員だって居た。完全に無人な訳じゃない」
「忘れんなよ、お前が紹介した伝説だろ!」
「まぁ、そうだけど。でも、中にもきっと人が」
「さっきのヤツ、ずいぶんでかい男だったな。普段は年寄りしか見かけないのに」
本当に東大の警備員だったのだろうか。令司は、警官が警備員のコスプレでもしているような違和感を覚えたのは事実だ。
「たとえ奴が強化兵でも中に入る。目の前に真実がある限り、この屋上にきっとその答えがあるッ!」
新田は勢いよく玄関ホールに駆け込むと、階段で階を上がっていった。
「おい、新田、危ないって! 新田!! 新田!!」
やむをえず令司は、スマホを掲げながら後を追った。廊下に微風が吹いている。階段は途中で終わっていた。
「こっちだ!」
今度は令司が先導して、屋上へ上がる階段を見つけた。なぜか道が分かった。
屋上のドアを開けると、二人の姿が見えた。
絶叫とともに純子は和風美人に斬りかかった。相手の剣が伸びて受け止めた。
「観たか? 今の。剣が一瞬で野太刀みたいに巨大化したぞ」
大正時代風女学生が反撃した。純子はすっ転んだ。
そこで令司は躍り出た。
「やめろオマエラ!! ―――やめるんだッ」
令司は自分の行動に驚いた。
純和風美人はそのリーチ分で勝り、純子は絶体絶命のピンチに陥っていた。ここで令司が止めなければ、純子は死んでいたはずだ。令司は無我夢中だった。
「二人とも!! もうよせ!! 殺す気か!」
「あんた何して――こんなトコまで」
純子は唖然としている。
「邪魔するな、危ないよ!」
純子は刀を構えたまま言った。
「なぜここまで―――。キャンパスを離れたのでは、な、なかったのですか?」
もう一人の大正ロマン風女学生は大きく目を見開いて、令司の顔を見つめている。
小夜王、その名が本名とは信じられない昭和モダンガール風パンク少女は令司を睨んで叫んだ。
「近づくな、今すぐ本郷を立ち去れ! お前たちまで巻き込みたくない。邪魔するつもりなら斬るぞ!」
「お前らが完全にやめるまで俺は――」
「令司――、こいつらの腕は本物だ。俺も素手なんかじゃ勝てない! 逃げるぞ」
遠くからサイレンの音が集まってくる。
女たちを見守っていると、令司たちの後ろから大勢の足音が響いてきた。
剣を構えたままの二人に、警官隊が押し寄せてきた。さっきの警備員が通報したのだろう。
劣勢の純子が命を取られそうになったところで、数十人の警官がアッという間に二人を取り押さえた。
大正風女学生は剣を奪われ、地面に組み敷かれた。
なしくずし的に果し合いは中止になった。残された純子は剣を鞘に納め、おとなしく連れていかれた。
屋上は五百人規模の警官で埋まった。さすがに二人は警官に切りかかることをしなかった。
「しまった、俺たちも関係があると思われるッ」
指揮を取るのは、五百旗頭、あの男だ。渋面で新田の顔を睨みつけ、うなずいている。確か特捜検事らしいが、なぜかこんな事件で警官と共に行動していた。
「東大本郷キャンパス内で事件発生。こちら特捜検事・五百旗頭藤吉――」
五百旗頭がパトカー無線で報告したのち、二人は逮捕された。
巨大な満月だけが、冴え冴えと光を放っている。
東京地方検察庁。
令司と新田はそれぞれ別の取調室に入れられ、事情聴取を受けた。
「マサカあの時の東大生・鷹城令司君だったとはね」
五百旗頭藤吉は、正面から令司を見据えて座っている。
「質問していいか? なぜ俺たちが本郷に居ると?」
「――町の防犯カメラは数十万台、移動する容疑者をカメラリレーで追跡できる。前にそう言ったよな?」
嗄れ声が部屋に鳴り響く。やはり都民は監視されているようだ。
「すべての録画は永久保存されている。その気になれば過去、お前が何をしていたのか全部追いかけることもできる。我々の捜査網から逃れられる犯罪者は都内にはもう存在しない。下町区はまだモザイクだがな。居るとすりゃあ、あえて泳がしている容疑者だけだ。分かるか、あぁ?」
五百旗頭は、センスのない抹茶色の扇子をあおった。
この特捜検事は、令司をビビらせているのだ。五百旗頭たちの捜査データベースに、鷹城令司の名も入っているのは間違いない。
「このところ都内で起こっている不可解な事件、一見無関係な個々のそれらが、因果関係があるんじゃないかと我々は考えている」
一つ目の疑惑は、二人が医科学研究所の屋上に侵入したこと。もう一つは、永田町で事故死した桜田総長の疑惑。どのように桜田総長は事故を起こしたのか、ということだ。
事件の真相をと問われても、令司はありのままに起こったことを説明する他になかった。
本郷で二人の女学生が決闘したこと自体は、令司はありのまま供述した。しかし、その決闘の内容はあまりに常軌を逸していた。果たして、そのまま語っていいのか。
それに、令司は確かに目撃した。もう一人、髪の長い謎の少女を。
キョウコ――そうだ。やっぱり、あの東京伝説のキョウコに違いない。二十年ごとに東京に出現し、復讐のために人を殺しているという少女。令司はあやうく、その名を言いそうになって口ごもった。
令司が見た姿は、渋谷の伝説を追っていたとき見かけた少女の面影を持っていた。ゾッとする。そして何より重要なことは、東山京子に似ているということだ。
しかし、それを警察に言ったらますます自分の立場がややこしくなる。ここは新田に合わせ、「ただ二人が決闘のまねごとをしていたらしい」の線でまとめるしかない。
「どうかしたのか?」
五百旗頭が腕を組んで睨んでいるので、令司はハッとして我に返った。
「早くここにサインしろ」
令司も取り調べを受けてはいたが、ただの参考人で、新田の行動を裏付けようとするシナリオがガチガチに固められている。新田が事故前に、桜田総長と本郷で会っていたというのだ。五百旗頭がしゃべったでっちあげの調書を作らされた上、同意を求められて、数時間が経過していた。
「認めれば今日のところは解放してやる」
五百旗頭は仁丹を呑んだ。終始しゃがれっぱなしでのどの調子が悪そうだ。
「嫌だ」
魔女だと言えば釈放するって――魔女狩りだ、まるで。
「親切にしてやってるつもりだがな? あぁ? トサカに来るぜッ!」
五百旗頭は唐突に怒鳴った。両足をテーブルの上にドンと置き、組んだ。
「オメーが認めようが認めまいが、そんなことは関係ねぇ。証拠も容疑も完全に固まってる――。ここは恐ろしいインターネッツだ。5G携帯。お前たちが日々何をウェブ検索しているか、そしてeメールやRINEのやり取り、スマホで何を撮影したか、こっちは瞬時にお見通しなんだ。それらは確実な証拠となる。送検すれば、有罪率は99.9%。俺たち特捜部が、描くシナリオはいつも万全だ!」
そういってしばらく睨んでいたが、おもむろに立ち上がり、やくざ同然の顔面凶器の特捜検事は部屋を出ていった。
しばらくしてドアの向こうに長い髪の女のシルエットが見え、令司はその顔を見てギョッとした。
東山京子!
だが、女子高生の彼女にしては異様に化粧が濃かった。それ以外は京子そのものだ。
「人狼には一人ひとり罪がある。東伝会にも――。そして、あなたにも」
京子はそれだけ言って立ち去った。
ドアは鍵がかけられていたはずだが、令司がドアノブをひねると簡単に開いた。部屋を出ると、そのまま帰っていいらしかった。
令司はあっけないほど簡単に釈放された。京子が鍵を開けたのかもしれない。あるいは監視を受けながら、泳がされているのかもしれない。
「いや、それが本当だったんだって――」
新田はうすら笑いを浮かべている。
新田は翌日に無事釈放された。なんと、カツ丼食ってきやがった。
「まさか」
令司はどう返事しようか迷った。
令司の取り調べでは、カツ丼は出されなかった。が、新田のおかげでカツ丼の都市伝説は本当だと実証された訳である。
新田によると、特捜検事たちは本郷の決闘をすでにうやむやにしようとしていて、論点を桜田総長の事故死に絞っていた。
「また俺を犯人扱いだ。俺が本郷にいて桜田総長と会っていたって言って、うるさくて仕方ねぇ。いくら知らねぇと言っても、信じようとしない」
「国策捜査だな、まるで」
マックス先輩はコーヒーを飲んでいる。
「よく出てこられたものだ」
「新田は、この風貌だからなぁ。街で職質されるタイプってあるだろ、あれと同じだぜ」
藪は軽口を叩いたつもりだが、新田にはその自覚がある。
もっとも顔面凶器は五百旗頭の方である。
「だが俺は潔白だ」
新田はぎろっと睨んで、缶コーヒーの空き缶をクシャっと握った。
あれほどの事件にかかわらず、新番組の五百旗頭は、理由を一切告げず、事件の詳細をマスコミやネットに口外するなと念を押した。そうすれば釈放するという。それが、人間凶器対顔面凶器の対決の全貌だ。
「『事件のことをもし口外したら、どうなるか分かるよな? 東大生なら』って」
「それ、俺も言われた」
早い段階で。
東大当局とつながる五百旗頭は、令司と新田を口止め目的で拘束したかったらしい。
「まるで宇宙人を目撃して、口外するなと米軍に言われたニューメキシコ州のアメリカ農夫になった気分だったぜ」
総長選の代理戦争、両者を代表する者同士の決闘。それに先駆けて本郷が一瞬無人化した現象。その全ての出来事を五百旗頭は全否定した。
『―――お前らぁ、都市伝説を追ってるんだってな? 刑事(デカ)が取り調べでかつ丼を……ありゃあ嘘だ。だが俺は検事だし、幸い、美味いかつ丼屋なら近所に知っている。――ま、それでも食って、今後は二度と妙なことに首を突っ込まないことだなぁ?』
新田は最後に、五百旗頭が注文した口止め料?のかつ丼(上)を食べて出てきた。
(「妙なこと」って一体何だ?)
「なら……、張り込み中の牛乳とアンパンってどうなんだろう?」
里実がとぼけた調子で訊く。
「新田君、今度張り込まれたら確認しといてネ」
「……」
里実の軽口に、新田は不愉快そうに押し黙った。
実は、令司の中で、新田の人狼の疑いが高まっている。
「検事の言う通り、実に不思議な話なんだが、本郷の事件はマスコミで報道されていないようだ」
マックス先輩は首をかしげている。
おそらく無人化が、目撃者の存在をなくしている。永田町の事故も同様だった。もともと人がほとんど歩いていない。しかしその空間に、二人は迷い込んでしまった。桜田総長の事件は、普通の事故として報道されている。
「事件はもみ消された。あの二人もとっくに釈放されてる」
「何でだ?」
「二人とも上級都民だからなんじゃないか? あの連中は決して逮捕されない」
気が遠くなってきた。
決闘罪、どこ行った? いやこの事件、銃刀法違反、傷害罪、殺人未遂、不法侵入、器物破損、いろいろな罪状に該当するはずだ。
「で、総長選は、経済学部と争っていた工学部の有馬教授に決まった」
有馬は、歴史作家の芝井忠一によく似ている。それくらいしか知らない。
「当然、報道でも決闘との因果関係では語られてない。桜田総長の死も、単なる不幸な交通事故死として処理されているし」
何一つ事件化されなかった。
「これが、この国が上級都民に支配された世界である証拠なのか、それとも偶然か――。真実が、巨大権力の手によって覆い隠されようとしている。俺たちの目の前で」
副部長は眼鏡の奥で目をつぶった。
「アップするか?」
「いやいや、リスクしかないだろ」
藪は反対票に回る。
「令司君、君の意見を聴こう。取材したのは君なんだからな」
マックス先輩は言った。
「渋谷の十連歌騒動以上の大スクープです。僕はやりたいです。もしも、もみ消されたんだとしたら、そんなことは許されない。たとえ物議をかもしても、僕たちは、決して上級都民に忖度しない。それが、東伝会のモットーだと思います」
令司はほとんど無責任なほどの情熱によって、ごり押しした。
「で、でも――」
里実は不安げに何か言おうとして、口をつぐんだ。その気持ちはすべてのメンバーのものだった。
「無理にではありません。皆さんが反対するなら取り下げます。新田君は?」
「――あぁ、俺もこのまま何事もなかったように事件が闇に葬られるのはゴメンだぜ」
新田はムッとして答えた。
「要は、編集の仕方だ」
「じゃあ編集で固有名詞をうまく伏せつつ、出してみるか?」
マックス先輩のゴーサインで決まった。
『本郷大斗会・東京デュエリスト伝説 決闘で総長選!?』というタイトルをつけ、令司たちはU-Tubeにアップした。
個人情報は伏せた上で、冒頭に東京伝説の一般的な概要を語り、次に本郷の事件のあらましを適度にぼかしつつ、文字で流した。映像は屋上に上がっていくシーンで止まる。新田はそのままの素顔で登場した。一石を投じたいという本人の希望だ。
「こんな内容、みんな到底信じられないだろうな……」
先週の渋谷までの、どっちかというと呑気で楽しかった部活の雰囲気はどこかへと消え去った。
もう、今後どうなるか分からない――。
信じるか信じないかは、アナタ次第DEATH!