第21話 上野流動電流 上級都民に夜露死苦

文字数 14,293文字



二〇二五年七月五日 土曜日

 目を覚まして、時計を見ると九時十五分。
 前日、久世リカ子との試合の後フラフラで、令司は夕方帰宅してから飯も食わずに、いつの間にか眠ってしまったらしい。爆睡した。夢の中でリカ子が古語調で、何事か語っていたような気がした。
 リカ子は、不意打ちは通用しないと言いながら、実は令司の剣の鋭さに、ヌ?と思ったのではないか。だからPMでトリックを使った……もっとも、剣の実力は、久世の方が上だと分かったから、決闘なら令司は斬られていただろうが。
 もう大学へ行く時間をとっくに過ぎていた。結局、大学を休んだ。
 令司はベッドに寝そべって、手のひらで、古い肥後守を転がしている。父の柴咲教授のマンションの金庫から出てきた形見だ。時々、形状が変化して鍵の形になる。セピア色のキョウコの写真とともに。
 小夜王(さよきみ)純子からメールが来ていた。
 朝から三通も届いていたことに気づいた。眠っていたせいか、スマホが着信音で知らせてくれた記憶はない。
 そういえば人狼ゲームの別れ際に、純子とアドレス交換していたんだっけ。何の用だろう?
 彼女も三輪彌千香とともに、東京で血で血を洗う果し合いをする決闘当事者だ。十連歌にハマっていることも、令司に返信することをためらわせている。
 だが、最初は人に誘われたこととはいえ、一度は自分でやると決めたことだ。彌千香に続いて、純子にも話を聞きたい気持ちもある。地球フォーラムの大斗会が、刻々と近づいてきている。ズシンと胸につかえた重たいものを感じながら、純子から何かのヒントを得たい。
 近くまで来ているというので、重い腰を上げて、夕方会うことにした。

 上野公園。
 幕末、彰義隊の戦いでも有名なこの地が、待ち合わせ場所だった。
「チャオ、鷹城」
 西郷像の前に、スゲー派手な大道芸人が――いや、小夜王純子だ。
 純子は、バブル期のようなでかい金色のグルグルイヤリングをつけ、赤い小さなシルクハットを斜めにかぶり、真っ赤なワンピースを着て、黒いレーススカートで、今日はもう完全武装という感じ。アシメヘアの一部に、青いメッシュが入っている。
「なぁーんかさぁ、鷹城つれないじゃーん?」
 昭和初期のプロマイドから抜け出したようなレトロなファンションがベースの和製パンクロッカーだが、令司より一つ上の二十一歳に過ぎない。
「返信ないから今日駒場行ったんだよ。人を捕まえて訊いたら、君が休んでるって言うからさ。『ふざけやがって、休みだとぉ!? 東大生が授業休むな! ……あいや、あたし誰だっけ。ここはどこだ!? ……東大? 辞めたんだった。さっさと帰らなきゃ』――ってなことがあってさぁ。アッハッハッハッ!」
 結果的に、小夜王純子は海老川の人狼ゲーム直後、ブチ切れて大学を自主退学した。それが本郷での彌千香との大斗会の始末だった。
 純子は追いつめられていたのかと思いきや、一見して明るかった。
「疲れて寝ていたんだ。気づかなくてすまん」
「あ、あれかな――。あたしのメール、特殊なんだよなー。強力な暗号鍵をかけちゃってて、5Gの監視を外してる。そのせいで、まれにまとめて届いちゃう現象が起こるんだ」
 何のために純子は、そんな匿名性を必要としているのだろう。
「助けてくれてありがとう。負けたのにあたしがまだ生きてるのは君のおかげだよ。十連歌の革命のためなら、彌千香に斬られて死んでもよかったんだ……」
 純子は呟いた。リカ子のいう武士の「死の覚悟」を思い出す。
「大斗会のこと、教えてくれないか?」
「大学構内の人狼ゲームでは言えなかった。海老川たちもな。あの時、なんで東京地検新番組に止められたのか。君たち東伝会が入ってきたからだ。あたしが不利の中、第三者が割り込んで立会人の新番組が中止させた。あたしは東京決闘管理委員会の沙汰で死ぬ代わりに、海老川の人狼ゲームに招集されたけど、そこでも君は言ってくれた。命の大切さっていう奴をね。でも、その結果君にはすごく……迷惑をかけている。あたしのせいなんだ」
「……」
「とにかく君には、凄く感謝してる。それ、直接伝えたくて」
「そうか」
「近くにあたしの憧れだった藝大もあって、よくここ来るんだよ。展覧会もね。この上野にもさ、開かずの戸の伝説ってあるらしーじゃん? 上野のお山はかつて、丸々天台宗の本山の一つで有名だ」
「そうなのか」
「東京にはあちこちに開かずの戸、開けてはならない戸の伝説があるもんだと思う。なぁ鷹城。これまでの伝説で、その戸を開ける鍵とか見つけてない?」
 令司のポケットには、父の形見の肥後守が潜んでいる。この近く、上野のマンションから持ってきたのだ。今は鍵の形をしていないが、形状記憶合金で鍵になる。ギョッとした。
「なんか、鍵とか持ってないかなー?」
 純子の顔が間近にあった。
「それは――」
 令司の身体に、純子の柔らかい身体がぴったりくっついた。
「あのー純子さん? 近いんですけど」
「あぁ……ハハハゴメン。ウブなんだねェ? ひょっとして、開かずの戸のマスターキーがあるんじゃないかとか思ったことないかい? そんな鍵さえあれば、開けることができるんだけどなー」
 そんなものがあるとは――思えない。
「どう? これから付き合わない?」
「あぁ。……じゃあ、あの日の大斗会について話してくれないか」
「OK。じゃ、デートしよう。人狼呼ばわりされた者同士、情報交換といこうぜ。あたしも東京伝説一つ知ってるから、教えてあげる。どっか、お店に入ろう」
「そりゃ助かる」
 と応えたものの、これまで東京伝説を追う度に、事件が起こっていて頭が整理しきれていない。令司は疲弊していた。あれほど、何があっても辞めないとみんなに突っ張っていたのに。
 純子は、上野で何かを感じるようにチラチラと周りを気にした。
「ここは三輪教の土地との境界だからな。令司、あいつらを信用するな。東大で三輪教系の工学部長が総長に選ばれて以来、三輪教は上級都民に急接近しているという噂だ」
 彌千香が花音に双方の「協定」について語っていた際は、そんなに穏やかな雰囲気じゃなかったはずだが。その後、両者の関係に変化があったのか。
 選挙カーが走っている。都知事選が近づいていた。
「ンー、あたしが一番好きなのは浅草の神谷バーだけど――、浅草は昼間から飲んでるオッサンがいるステキな街なんだが君には合わないかな? 甘い物は大丈夫? パンケーキなんかどぅ?」

 東京ユグドラシルがそびえたつ、墨田区までアウディを走らせ、純子の行き着けだというカフェ、「ブルー・レボリューション」にたどり着く。きっと、彼女自身が食べたいのだろう。店内に入ると、純子が派手で人の視線を集めてしまって、令司は気まずかった。
 立派なステージまで完備された店内。
 墨田区がリスペクトする葛飾北斎は、ジャポニスムが大流行した欧米で「ブルー・レボリューション」と称されたが、それが店の基本コンセプトになっている。十連歌もブルー・レボリューションを謳っていたはずだが、何か関係があるのだろうか。
 ショーケースの中で、パンケーキにクリームが山と積まれている。クリームの山の半分は白く、半分はキレイな青色をしている。他のパフェ類も同様に、日の光でキラキラと青く輝いていた。
「頭を使う東大生は甘いものを補給しないと」
 よく考えたら令司は今日、食事を摂っていなかった。日中に甘いものというのも普通ではないけれど、純子のおごりなので文句は言えない。
 純子は、店の店長と思しき三十代の人物と何やら話している。どうやら二人は知り合いらしい。純子は口紅を取り出し、北斎の「神奈川沖浪裏」の巨大なモザイク壁画へ近づくと、下の空白にシュッシュッと口紅でサインを書いた。色っぽい――。だが、勝手に落書きを? 店長を見ると微笑んでいる。
「……」
 純子の右腕に、紫色の刺青があった。
「あ、これ? 違う違う、蝶のタトゥシールだよ」
 戸惑いつつ、令司はパフェの「ブルー・マウンテン」を注文した。
「あたしってば通い都民なんだ」
 ブルーハワイと三段パンケーキを選んだ純子は、千葉県の西船橋に住んでいると言った。
「西船橋市?」
「いや、船橋の隣は市川市だよ。船橋市内に西船橋があるの」
「実家は、確か病院だよな?」
「うん。別に、親への反骨精神で医者になりたくないんじゃない。コロナ・パンデミックの時、うちの病院は激務だった。社会のエッセンシャルワーカーの医者にはリスペクトしかない。私には無理だって、単純にそう思っただけ」
「そうか」
「あ、八幡の藪知らず、うちの近所だよ。船橋には海老川っていう、ちーっちゃい川が流れてるよ(笑)。とか言いながら、ヤマトタケル伝説の『船橋』の地名の由来でもあるから、チョット複雑――。ま、桜がきれいなジョギングコースなんだけどね。デルタフォースの水友も、船橋だ確か。海老川が『名誉都民』の称号をあげてるらしい。あたしはごめんだけどな」
「今日は千葉の都市伝説か……? 千葉っていうと、東京のフリをするとか……」
 失礼なことを令司は口走っている自覚はあった。
「千葉が東京を騙っているってよく言われる。そうじゃない。北部は千葉都民、南部は昔ながらのおおらかな房総人。千葉の北部はもう東京と同化している。東京で働き、生活費の安い千葉に住む。東京のベッドタウンだ。『東京出銭ニー・ランド』の命名も、別に県民が望んだわけじゃない」
「まぁ、そうだろうな」
「最初は江戸川区にできる予定だったけど、地元民が反対したらしい。東京に適当な空き地がなかったからアメ公は千葉に来た。都が事実上、千葉北西部を飲み込んでる結果よ」
 浦安は東京に入りたがっているらしい。千葉からすれば裏切り者だろう。だが、純子の表情からは千葉県民は東京と張り合おうなんて思ってないらしい。今の身分で満足している感じだ。
「確か、『東京ドイツ村』ってあったよな。千葉って東京とドイツの植民地だったのか?」
「え、それ言うか……ダメージが」
 純子は胸元を抑えた。
 ドイツ村のイルミネーションは必見のデートスポットだ、と純子はフォローした。習志野市が日本のドイツ文化発祥地である。千葉県の「なんちゃって東京伝説」。今日の東京伝説は穏やかでありがたい。
「―東大の第二工学部も、戦時中千葉に存在していたからね。東大大学院のある柏は千葉の渋谷って呼ばれてるけど、現役の千葉植民地だ」
「そういえば」
「東京府だった時代から、東京は今までスラローム都市で、アメーバみたいに拡大し、周辺県の『領土』を飲み込んでいった。現在の東京都は、言っちゃなんだけど『ここ東京?』みたいな場所も含まれてるでしょ」
「確かにな」
「東京都の帝国主義の結果だ。あまり世間には知られていないけど、玉川上水と奥多摩を手に入れるために神奈川と争ってるし、山梨との間に水源戦争も起こしている。県境がはっきり定まってない場所が何か所かある。江戸川区と市川市なんて、同日にそれぞれ別名の花火大会を対岸で行っている。あれはいまだに、張り合ってる証拠だな」
「強烈だな……」
「なんだか表情が暗いな。何か悩んでるの? 相談に乗ろうか? お酒は? 歳いくつなの?」
 答えに窮してると、マシンガンの様に質問が飛んでくる。
 ホントは、数日後に地球フォーラムの大斗会を控えていることを純子に言うべきなのかもしれない。だが、令司は言えなかった。
「つい先日、二十歳になった」
 令司はボソッと答えた。
「え? ハタチなの? なぁーんだぁ。じゃ」
 純子は令司を未成年だと思って、「ブルー・レボリューション」に連れてきたらしい。メニューを見るとお酒も置いてあって、純子はすでにブルーハワイを飲み干していた。
「OK!! 誕生祝いだ! おごるよ。お姐さぁーん、氷爆二つ。どう? 飲まない?」
 頼んでから聞くか、普通? 令司はまだ人生でアルコールを口にしたことがない。まぁいいや。
「なぁ、動画観てるよ。あんたら彌千香と平家蟹の話してたね。平家蟹って、……五百旗頭の顔にそっくりだね!」
「ヤメロ(笑)」
 少し笑って、純子は真顔になった。
 沈黙が流れる。
「とうとう、新田が捕まった」
「聞いたよ」
「新田を……何とか助け出さないと……」
「フーンそっかぁ……」
「じゃあ、本郷大斗会のことを」
 令司はカメラを回した。
「飲みながら話す? 話しながら飲む? あ、おねえさ~ん、もう一杯!」
 純子はあの時、本郷で何をして居たのだろうか?
「なぜ決闘したのかってことだけど、林経済学部長は、十連歌の主張をバックアップする論文を書いて、桜田総長から思想弾圧を受けていた」
 純子は、元経済学部志望の二年生である。
「あぁ……」
「桜田総長は、日本は長期不況で今後衰退する一方だから、ともに貧しくなろうっていう論理だ。それで林学部長と対立した。教授陣の論文に権力のチェックが入って、このままでは経済学部はつぶされる。その矢先に桜田権蔵が事故で死んだ……。その後の総長選で、あたしは大斗会に打って出た」
「そんなことが、二十一世紀の現代でも起こっていたなんてな」
 戦前には、学問への権力のチェックは結構あったらしいが。
「何でも起こるさ」
 経済学部は、十連歌デモとつながりを持つ派閥が最大勢力だった。
 経済学部三年の純子は、学部の代表者として決闘に立てば、十連歌のオーディションで優位に立てると誘われた。つまり純子は、十連歌にメンバー入りするために、決闘を買って出たのだ。
「決闘に負けて、元の木阿弥さ――。あんな白い巨塔の中で革命するなんて、大斗会以外では無理だった。その大切な決闘に、あたしは負けた」
 純子はうなだれた。
「生きてるだけ、マシかもしれない」
 純子は今、いったい何をしてるのだろう? 相変わらずオーディションに精を出しているのだろうか。その割には晴れ晴れとした表情のような気がする。
「君も、海老川たちのシケプリから追い出されて、東大で苦労してんだろ? 経済学部系の単位なら、任せといて」
 今日の純子はやけに優しい。前には罵倒された記憶が。
「林学部長は、どんな論文を書いていたんだ?」
「少し教えてやろう」

アンダークラス ~格差の固定化~

「あたしたちを攻撃してきた海老川の権力の背景……表の法なんかより自分たちの方が上だという感覚の、上級都民たち。それを林学部長は、真っ向から批判した」
 そういうと純子の目が光った。
「その忖度には、裏の法律が! 存在する!」
「ちょっと待った。カメラ、撮ってもいいかな」
「いいわよ。この国はもう格差社会じゃない。すでに、階級社会だって君も分かってるはずだよね。格差は固定化されて、下の階層から上の階層に行くことは極端に困難になっている――」
「うん」
「ま、マスコミは上級都民の一部だからその事実を報道しない。言ってもいつも形だけだし」
 純子は二杯目を飲み干すと、すらっと右手を上げて、三杯目を注文した。
「話はあたし達が生まれる前から始まるんだ。一九九九年、ノストラダムスの予言が世間をにぎわせていた。……らしい」
「そうらしいな。けど、何も起こらなかった」
「一見するとね。その世紀末、国内に目をやると派遣法が改正された」
「あぁ――うん」
 ずいぶんと、スケールが異なる気がするが。
「日本は平成大不況の真っただ中だ。『痛みを伴う構造改革』って奴――。二〇〇四年に再び派遣法は改正され、日本の格差社会は完全な階級社会へと完成した」
 バブリーな外見の純子が、まるで見てきたように言う。不思議な感覚だ。
「いいかい? 桜田が言う『日本は大不況で衰退する一方だから、ともに貧しくなろう』ってのは大嘘だ。平成大不況は表向きの姿なんだ。日本の個人金融資産は千五百兆。景気が冷え込む一方で、実は『失われた三十年間』で1.5倍に膨れ上がっている。超富裕層が資産を増やしていたんだ。これを観てみな」
 純子はスマホを見せた。

 2004年 134万人
 2011年 182万人

「日本の超富裕者層は、人口の割合でアメリカより多いんだよ。サラリーマン以外でも、個人事業者の年収五千万超が――」

 1999年 574人
 2008年 7589人

「開業医も特権があるので、守られている。日本最強の圧力団体、日本医師会の開業医の会は、いろいろ税を免除されているからな。うちの病院も。バブル崩壊以後、富裕層の大減税が行われてきた。相続税減税、高額所得者の減税。ピーク時に比べて、四十%も減税されている!」

 所得税 80年=75%、10年=40%
 住民税 ピーク時=18%、今=10%

「日本の金持ちが、世界一高い税金(所得税)を払っている話はデマだ。日本にはいろいろな抜け道があって、実質わずか7.2%しか払っていない。アメリカの所得税収入は日本の七十倍だ。アメリカの金持ちは税も払い、寄付もしている。アメリカには年二十兆円の寄付文化がある。日本は税収半減で、ほぼ貯蓄に回った。金持ちは収入が増えても容易に消費に回さない。己のお金が減ることを何より恐れるからな。だから景気が悪い。経済は金が循環することで回る。一方で日本の貧乏人は、アメリカの貧乏人よりも多く税負担している」
「ほぉ――」
 それが事実なら理不尽だ。
「大企業に目をやるとバブル崩壊以後、巨額の資産をため込んできている。毎年十兆円の貿易黒字を、二〇一〇年までため込んでいた。二〇一一年の東日本大震災で赤字に逆転したけど、そん時だけだ。内部保留金は二十年間で倍になった。でも、設備投資や従業員の給料に使わないんだ。全体で三百兆円以上。アメリカの1.5倍だ!」
 純子は腕を組んで斜めに座った。令司はいつ足をテーブルの上にあげるかと、ヒヤヒヤしている。
「失われた三十年というのは貧乏人だけのこと。派遣労働者の増加、人件費削減、企業のプール金、金持ちの貯蓄がデフレ不況の真の正体だよ。痛みしか残らなかった改革。お金を使えない人々が倍増で、貧乏人はますます貧乏に、金持ちはますます金持ちになった」
 つまり、二つに分岐する「K字回復」だ。
 金持ちが金を使わないから景気が悪くなる。金は少しは使うべきだ。
「二〇〇八年のリーマン・ショックで、世界大恐慌が追い討ちをかけると、年の瀬の日比谷公園に派遣村が出現。下級たちは組み敷かれた。貧困の波は一番弱いところに押し寄せ、日本の子どもの貧困は先進国の中で一位、女性達の多くは非正規雇用で同じく貧困が進んでいる。事故や事件で逮捕されない上級都民の伝説、マスコミが報道しない上級都民と下級都民の階級差は、もはや公然の秘密なんだ――」
「――薄々は感じていたよ」
「労働派遣法改正、建築基準法改正、郵政民営化。これらは、アメリカから毎年日本へ出される『年次改革要望書』に全部書かれていた」
 年次改革要望書は、一九九四年、バブル崩壊後に始まった。
 アメリカ側からの要望は次々実現させられる一方、日本側からアメリカへの要望は実現したことはない。そしてこれらは、大手メディアは一切報道することがなく、時の政府の「構造改革」の美名のもとに行われた。国民は何も知らされずに踊らされた。
 二〇〇九年に新政権が追及すると、旧・対米追従政権の当事者たちは「聞いたこともない」とスッとぼけたが、「年次改革要望書」は、高級官僚とアメリカが手を組んで、日本を植民地として扱っていたことを物語っていた。
 その後、年次改革要望書は廃止され、ブラックボックスの事業仕分けが進んだ。しかし、独自路線の政権はつぶれた。
「一九八五年、ジョージ・オーウェルの予言書『1984年』の翌年に、丸の内大斗会が行われた。日本の階級社会の完成へ向けたプラザ合意で日本は空前のバブル経済、その後のバブル崩壊、大不況下の法改正で金がアメリカに流出。植民地としての搾取が、ますます露骨化する社会へと変化した。それがノストラダムスの恐怖の大予言、日本版―――って訳」
「一九八四年に、何が起こったんだ?」
「アメリカで世界支配システムが誕生。あの小説のビックブラザーの出現は、連中のロードマップだった。フリッツ・ラングの映画『メトロポリス』もね」
 純子はまたお替りした。どうでもいいが、終始姿勢が悪い。カメラに写っているのに。
「この世の1パーセントが99パーセントの富を支配している。アメリカはかつてヨーロッパの貴族と平民、いやそれ以上だ。国際金融資本、つまり世界帝国に」
「新自由主義経済で、IT長者っていわれる世界的企業の経営者が百兆円持ってて、今日の飯が食えない人が十億人いて、こんな世の中でいいのかなっていう疑問は、凄くある……」
「いい訳ない。それまでの時代は大企業が自動車などを製造し、労働者の賃金も上がって、生活のクオリティ・オブ・ライフはどんどん向上するって考えられていた。アダム・スミスもそういう理念だった。けど、二十一世紀のグローバル資本主義の時代に入ると、ごく一部の億万長者が誕生する一方で、派遣労働や非正規雇用が大量に生まれ、格差は絶望的な差になって、その差は決して埋まることがなくなったんだ」
 令司は、久世リカ子が言っていたことを思い出した。
「従来、格差問題は、経済成長によって解決すると思われてたけど、そうじゃない。経済成長を期待して、グローバル資本主義を放置すれば、ますます格差が拡大する。――極論すれば、いくら労働者が働いて高収入を得ても、資本家が土地や株などに投資して不労所得を得る方が、断然儲かるんだ」
 純子は首をクイッと上げて、首筋を人差し指でなぞった。
「『21世紀の資本』では、膨大なデータを分析した結果、『資本収益率rは、常に経済成長率gより大きいという不等式が成り立つ』っていうんだ。世の中は大雑把に分けると、資本家とその他ってことになる。資本を持っていれば勝ちで、なければ負け――」
「ははぁ。その金持ちたちって――」
「上級国民よ。実際に、富が公平に再分配されないことによって、貧困が社会や経済の不安定を引き起こしている。金持ちはさまざまな金融商品に投資し、有利な資産運用ができる。インフレ対策として、資産を土地、株、貴金属などに分散投資することもできるしね」
 令司は豪奢な合コンに参加したとき、上級国民の世界をまざまざと見せつけられた。
「日本もどんどんアメリカに近づいている。アメリカと一体化した対米追従の上級都民共が、あえて近づけているんだ」
 海老川雅弓の、まっすぐな眼差しが浮かんでくる。
 金持ちはマスマス金持ちになり、貧乏人はマスマス貧乏になる。格差は広がる一方で、埋まることはない。こうして、海老川のように一生使いきれない金とモノに囲まれた一部の閨閥華族と、それ以外という構造が成り立つ。
「……てことは――、一体どうすればいいんだ?」
 改革すべき日本の政治家は二世とタレント議員ばかり。政治家になる条件、地盤(人脈)、看板(知名度)、カバン(金)は、ほぼ上級国民の持ち物だ。
「この本の著者は、『世界富裕税』を導入しろって言っている。富裕税をかけられた資本家が、外国に逃げ出しても税をかけられるようにするためなのよ」
「なるほど、そうして得られた税収で、やっぱりベーシック・インカムも導入すべきだよな」
 ベーシック・インカムとは、全国民が、一律毎月十二万円などの生活費を自動的に支給される制度である。その代わり、年金制度やさまざまな手当ての支給は無くなり、役所は面倒な事務手続きを省略できる。ドイツでは、試験運用が行われている。
「生活保護みたいになるって言ってる人がいるけど」
「生活保護は働くと、受給額が減ってしまうからね。だから労働意欲が失われ、働かずに貰おうとする人が固定化してしまう。ベーシック・インカムは、ロビンフッド税制ともいうけれど、基本需給がある一方で、働けばそれだけ収入が得られる。基本は減らない」
「なるほど……確かに月十二万でも生活はできる。しかし、自活するとか旅行に行くとか、さらに結婚するとか子育てとか、それだけじゃ絶対足りなくなる。人は必ず働こうとする」
「貧困、少子化対策、ブラック企業も減少するだろうね。ざっくり言って悲劇が減る。導入には、七十二兆から百兆くらいの財源が必要になるって言われてるけど」
「で財源は? 相当に無駄な税金を減らして、同時に増税もしなくちゃならないよな?」
「幾らでもあるよ。君は当然、徳川埋蔵金って知ってるよな?」
「まさか……」
「実は明治新政府の裏金として使われたらしい。それはもう使い切ったけど、権力者の裏金の歴史は続いていく。無駄遣い、埋蔵金探しをすれば、この社会の寄生虫・閨閥華族がかすみとってる税金がね。虎ノ門にある社団法人の群れは、天下り・癒着専用の町。官僚は、天下った後の方が儲かる。事業仕分けはまだまだ足りない。それは国民が知らないところで、ジャブジャブ湯水のように使われている。東京の地下には、核シェルターだってあるしさ」
「そんな金、一体どこから」
「日本の国家予算は年百兆円くらいよね?」
「うん」
「しかし、官僚には裏の予算、『特別会計』というのがある。毎年四百兆くらいだ」
「それが現代の埋蔵金か?」
「あぁ。特別会計は国会議員の目に触れない。官僚が自分たちだけで決めている収入源だ。国民もあまり知らない」
 平成三十年度、一般会計九十七兆七一二八億円、その一方で、特別会計三八八兆五千億円。
「特会は、そのうち一九五兆円くらい重複があるっていうんだけど、ここにトリックがあってさ、帳簿を改ざんして金を抜いている可能性がある」
「収入源は一体何なんだ?」
「年金、健康保険、それで、官僚共は米国債を買っているんだ。これが不透明なうえに、日本に戻ってこない。外国為替とか――儲けの用途は官僚共が勝手に使う。ゴミみたいな公共施設とか作って、自分らの天下り天国を作るとかね」
「税金泥棒って、ほんとに居たんだな」
 年金グリーンピアという施設を全国に作り、四千億円の赤字で破綻した。結果、外資へ売却された。しかし官僚は痛くもかゆくもない。
「いや、これほどの泥棒は世の中そうそうはいないよ。合法的に盗んで、逮捕もされないんだ。ある保守系政治家は言った、『母屋でおかゆをすすって節約しているときに、離れですき焼きを食べている』ってね。的確な表現よね」
 純子はゲラゲラ笑った。
「でもね、これは単に目に見えてる分だけなんだ。GDPのうち六割は、官製企業に吸い取られている。三八八兆は、特殊法人の下の三千社のファミリー企業、特殊法人からの天下りが経営している。道路公団十八兆、住宅公団三十二兆。どんどん巧妙になってる」
「上級国民は自分たちの地位を守るために、あの手この手か」
「ウン。汚い大人たちさ! 事業仕分けや民営化で、情報が出なくなった分、帝国の見えない化が進んだ。でも民営化したって株主は国なの。どっからどう見ても、資本主義の仮面を着けた官僚制社会主義国家でしょう? 昔、共産圏のルーマニアでは、時の独裁者の事を赤い吸血鬼って呼んでたけど、官僚は特別会計の見えない錬金術で金を盗み続けている。『トワイライト』って映画があるけどさ、あたし達が夜に這い回る狼なら、奴らはさながら吸血鬼よね。この東京の吸血鬼」
「その官僚を、アメリカが支配しているって訳か?」
「そう、日本の上級都民を手先にしてね。テレビで答弁している国会議員が、ロボットみたいな面(つら)に見えたことはないか? 事実そうなんだ。彼らは官僚のロボットで、自分では何も判断できない。この国の政治家どもはいつもどこか他人事だ。責任の所在が他にある何よりの証拠――」
 純子の眼が怪しく、鋭く輝く。
「本当の意味で、政治家のような判断をしているのは後ろにいる官僚で、政治家は彼らが書いた答弁を読み上げてるだけ。だから政治家なんて、だいたい誰がなっても一緒。皆一様に、死んだ目で官僚答弁を読み上げている。議員立法が多かった田山角蔵みたいな人は、ごくわずか。もしも政治家が官僚に異を唱えようものなら、消される。特別会計を追及すると、東京地検特捜部機動隊、新番組が襲ってくる」
「あれは――、昔GHQが作ったんだと聞いたけど」
 元々はGHQが大日本帝国軍部の財産を没収するための、隠匿埋蔵物資事件捜査部だった。
「そうよ。戦後、彼らはアメリカの手先で動いた」
「何でそんなことが――国民はなぜ彼らを許している?」
「知らないからだ。別のところに気を削がれて、洗脳されてるんだ」
「別のところって? ひょっとして3S政策か何か?」
 純子の話は、久世リカ子の政治テーマに近づいていた。右派の久世リカ子と左派の小夜王純子が、同じ結論に達している……。
「そうなんだけど、戦前からだ。その名も大本営発表。今も堂々と行われているだろ。すなわちレガシー・メディアの大本営発表がね!」
 十連歌のたどった道を、純子は想起しているらしい。
「今や真実の報道をしているのは、実談砲の週刊実談だけか――」
 もっともこのところ、精彩を欠いているが。
「あんたら東伝砲の動画だってそうだろ。もっと自信を持っていいんだゾ」
「ありがとう」
「組み敷かれた社会で、みんな日々の生活に追われて、反抗する気力もなくなっている。貧困もギリギリの貧困で、命に関わるほどじゃないと、人は体制側に不満を持ちつつも、なんとなく現状維持ができてしまう。十連歌ってのは、娯楽に真実を込めて発信する。それが彼らの戦い方だ!」
「つまり、二十一世紀の現実は、江戸時代の士農工商より酷いってことだろ? 明治維新で、四民平等をかかげた理想は一体どこへ行ったんだろうな? 近代以後、そもそもなんで格差が発生したんだろ?」
「明治維新は、半分しか成功していない。そこには光と闇の歴史がある。今では失敗の部分は多くは語られず、歴史から抹殺されている」
「――え?」
「みんな、幕末志士の英傑たちの伝記に目がいって、その後のことはほとんど何も物語られないでしょ。本当は明治後に、何が起こっていたかなんて! 明治維新で前近代的な身分制度を廃止したはずなのに、また華族という制度を作り出した明治政府。変だと思わないかい? そして戦後の東京では、閨閥華族が跋扈している。それが、復活した影の幕府なのさ」
「影の幕府って?」
「東京帝国さ。この国は二重国家なんだ」
 純子は片膝を上げて姿勢悪く座っている。
「なんだそれ」
「母体は旧財閥だ。財閥解体なんて形だけ。戦後すぐ、なんちゃらグループで皆、復活している。GHQと吉村駆たち上級都民が作った東京華族共の国」
「まさかなぁ。――オーストリア・ハンガリー帝国みたいだけど」
 この国には戦後民主主義の陰の、国家社会主義(官僚支配)=東京華族=東京帝国というトリックがある。平等をうたった社会主義国が「赤い帝国主義」となったことは歴史が証明しているが、日本はもっと巧妙なだけで、実体は同じことなのだという。
「日本は戦前から戦後にかけて、何も変わってない。戦前だってゾルゲ事件を機に、対米戦争回避を模索していた近衛内閣は崩壊し、アメリカとの開戦に突き進んでいった。アメリカの謀略なんだ。権力者は、終戦時に形だけの禊で裏で今でもコソコソ暗躍しているよ」
「俺たち東大生も、他人事じゃなくなってきたな―――」
「むろんよ。全国から集められた東大生は、偏差値という競争原理に勝ち抜いたかもしれない。けど、義務教育から始まる学校教育も、最初から国家社会主義的だろ。東大生は、上級国民が敷いたレールをただ進んできただけ。東大の子はほとんど親が東大。教育格差の権化だ。学歴社会では、金がある家の子弟が有利に働くって訳。多くの場合、裕福な家の子弟じゃないと、高学歴の大学へ進学できないからね。これも、上級国民が作った隠れた門閥システムだ。高等教育は豊かな親から子へと受け継がれる――。官僚は、試験の点数がその後の出世を一生左右する世界。その時の出来不出来なんて、運もあるのに。ホント科挙だわッ!」
 かつての東大全協闘も、現大学システムは教育工場だと今の純子の様に批判した。
「科挙か……。東大入っただけで、燃え尽きちゃう奴もいるよな」
「ハイあたし、もう辞めたから!」
 純子は笑った。
「義務教育時代は、学生は画一教育に組み敷かれ、そこに自由は基本的にないって訳。そっから外れるとドロップアウトとみなされる。それを自己責任論って、連中は言っている。海老川たちや東大の御用学者たちが。で、経済学部長はそれに反論する形で粉砕した。今後の教育は、もっと多様であっていいはずだって言ってね」
 東大の教授とも思えない。
「教育格差を是正しなくちゃ! 将来は東大生だって安泰じゃない。大抵の労働はAIに置き換えられる。頭脳労働も例外じゃない。詰め込み式の東大脳の何割が、生き残れると思う? だからベーシック・インカムが必要なんだって言っていた。特別会計をなくして、そいつを使えばいいんだよ。複雑な社会保障制度と、そのブラックボックスをね」
 今日の東京伝説も、結局ヘビーな内容だ。
「でもあたし達は別に社会主義を目指している訳じゃない。現在の国際富裕税もベーシック・インカムも、極端な格差や階級社会を是正するためのものであって、働きに比例した収入というやりがいは保障されるべきなのよ!」
 令司も同感である。
「社会主義、さらに共産主義国家では、それと正反対の事が行われてきた訳だからね?」
「あぁ――」
「平等を目指す一方で、国民から強引に富を取り上げるために、抵抗すれば殺す――。こうして共産圏で、合計一億人の人が殺された。平等を敷いているのは誰かというと結局、共産党が支配する。軍事政権・共産党の独裁であり、赤い貴族たちだ。彼らの政治の矛盾だ」
「『1984年』のディストピアは、先に共産圏で実現してたってことだな――」
「そして二十一世紀のグローバル資本主義も、行き着くところはなぜか全く似通ってくる。一部の支配者のためのシステムだ。今の東京は、上級都民の人間牧場だ。無気力製造工場としての学校教育も、気力を奪うありとあらゆるシステムも、若者は保守的になり、マッシュヘアの量産型大学生が街にあふれているのも――」
 下級都民は家畜として搾取され、下流は果てしない低賃金で、生かさず殺さずで中間搾取され、中流はマシでも借金を背負い、返済のために生涯ギリギリの生活を強いられる。一方で金持ちは閨閥やネットワークで相助会を作り、社会の上澄み液は全部自分たちのところへ絶対集まるように仕向け、それ以外の人間とは助け合わない。この差は絶望的だ。
「もう、搾取は許さない――」
 純子の眼が光った。
 ふと疑問がわく。純子の目的はいったい何だろう?
「君は、なぜ俺と会う? 本当に、東京伝説の取材を受けることが目的なのか?」
「ま、本当言うとな、君に会う資格はないんだ。大斗会に負けたあたしには」
「……?」
「君はね、大斗会の戦利品なんだよ。勝利者は女神にキスされる。だから皆、君に会いたくて決闘する」
「……その場合の女神って俺?」
「そうよ! だからちょっと抜け駆けした!」
 純子は笑ってキスしようとするので、令司は慌てて避けた。

参考:「『新富裕層』が日本を滅ぼす」(中公新書ラクレ)著・武田知弘、監修・森永卓郎
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