第3話 東京伝説研究会

文字数 10,809文字



二〇二五年六月二日 月曜日

 朝は快晴だったが、大学への道のりはつらく、何度か引き返そうという発想が鷹城令司の頭をよぎった。
 昨夜はあまり眠れていない。超能力を持つという少女との出会いが強烈だった。自宅へ連れ帰ると、彼女の傷は一瞬で回復した。その後現れた東京地検特捜部機動隊・新番組に、家まで特定され、少女は強制的に連れていかれた。普通は警察の仕事だ。令司は大企業の重役でも汚職政治家でもない、学生だ。なぜ検事が?
 あの五百旗頭という検事のまなざし。あれほど邪悪な目をした人間が存在するとは。
 これから向かう東大に、その関係者がいる。こっちが東大生であることがバレていなければいいが――と考えて、住所まで特定されているのだから、素性がバレているのではないかと思い至る。けど、特捜検事たちは自分を連れて行かなかった。不可解すぎる。
 そんなでも、無理に気持ちを奮い立たせて登校したのは、今日の一限の授業が不可欠なものだからだ。それに、いつも通りの生活を送ることで、昨夜の非日常的な不安から逃れたいという気持ちもあった。
 東都帝国大学駒場キャンパスへと到着した。朝から、マッシュヘアの量産型大学生がゾロゾロと歩いている。
 正門前でいつもと異なる賑わいができている。
 マスコミと――警察官が数名。令司は身を固くした。
 正門を避け、脇道から静かに入ると、彼らは令司に全く気付かなかった。どうやら、自分を追っている訳ではないらしい。……五百旗頭の姿もない。
 授業は本郷の植田講堂と同じ設計者で、ゴシック様式の駒場大講堂一号館で行われる。昨夜現れた男たちの居る東大医学部があるのは、本郷キャンパスだ。接点がなければありがたい。
 授業の始まりに、事務局の職員が神妙な面持ちで、教壇に立った。
「――朝から報道されています通り、昨夜、当大学の桜田権蔵総長が永田町で自家用車に乗っていて、自損事故で亡くなりました。今朝方より駒場キャンパスに警察とマスコミが来ていますが、マスコミに関しましては、取材されても質問に答える必要はありません。本郷の方がメインで記者の数が多いです――本郷に行く際は、十分ご注意ください」
 令司はテレビもスマフォも観ずに家を出た。昨日あんなことがあって、今朝、総長の死が発表された。妙な符号だ。もしかして、何か関係が――?
 授業が始まると、一限で同じクラスの藪重太郎が、ニヤ付きながら声をかけてきた。
「鷹城って、確か作家志望だったよな?」
 藪には、新入生オリエンテーションの時に、チラリと文章を書いている事や、文学の話をした事があった。だがそれっきり、ここ三ヶ月の間、話した事もない。
「あ――、うん」
 授業に集中しているのに五月蝿い奴だ。令司はペンをクルクルと回した。
「知ってるぞ。いつもさっさと帰るのは図書館で小説を書いているからなんだろ。何度か見かけたことがある。勉強してんのかと思ったらさ」
 藪はヒソヒソと会話を続けた。
「いや……まぁ」
 令司はあいまいな笑みを浮かべた。
 藪は、どんなものを書いてるんだ等々と聞いてきて、授業に集中できない。令司は適当に流した。
「――でよ、鷹城よ。実はよ、頼みがあるんだヨ。うちのサークルで、書く人間を募集してるんだ。執筆者が一人抜けちゃってさ。夏コミ用の会誌作るの協力してくれない?」
 重太郎の話では、今夏の東京ビックサイトのコミケ用の機関紙だという。
「俺は“萌え”は書けないよ」
「あぁ――、全然ぜんぜん、そういうのじゃないから大丈夫」
 藪はニヤニヤと笑った。漫画ではなく、マニアックで真面目なテーマを扱う会誌らしい。萌え要素が一切ない地味な本と知って、鷹城は少し興味を抱いた。
「今日、部室でミーティングがあるんだ。顔だけでも出してみないか?」
「う~ん」
「頼むよ。それとも他に文芸サークルとかやってる?」
「いや」
「――バイトか?」
「バイトは、今はしていない」
「ならちょっとだけ。いいだろ?」
 かなりしつこい。
「まぁ、覗くだけなら」
 実は、家に帰宅するのが少し怖かった。特捜検事たちが待ち構えているのではないか、という不安がよぎった。
 教壇に立つ吾妻真知子先生がこちらにチラチラ視線を送ってきた。令司がこの授業だけは出なくてはいけない理由の人物だった。
 授業は日本史で、「南総里見八犬伝」で有名な里見氏を講義中である。
 ショートヘアの上にサングラスをかけ、いつも黒いぴったりとしたシャツで、下はスキニージーンズ。とてもスリムで、へし折れそうなくびれなのに、はち切れんばかりのバストで東大の有名人。リアル峰不二子と呼ばれている。今朝もまぶしいボディに眼福だ。
 おそらく四十手前のはずだが、グラマーなアラフォーの吾妻教授は、「真知子先生」として男子学生に絶大な人気があった。だから一限は欠かせない。しかし単位取得はかなり難しく、難易度「鬼」を誇る。
「サンキュー。よっしゃ、これからが東大デビューだ。あっやばい」
 真知子教授が二人に静かにするようにと、唇に人差し指を当て、合図をした。
 藪はすぐさま目線を教科書に落とし、令司は小さく頭を下げた。
「――馬琴が生きた江戸時代の浄瑠璃や歌舞伎では、幕府批判が数多く取り上げられていました。『忠臣蔵』もそうです。けど時の権力、徳川幕府をそのまま批判することはできません。取り締まりの対象になってしまうからです。そこで戯作者たちは時代設定を鎌倉などにずらして、当時の『時代劇』として上演したのです。『八犬伝』では、鎌倉幕府を滅ぼした新田義貞と里見氏は同じ家紋です。つまり、馬琴はこの『八犬伝』が打倒徳川幕府の物語であることを暗に示したのです」
 真知子教授によれば、「八犬伝」は為政者と抵抗者の物語から、ずっと以前から続くこの国の二つの勢力の長い戦いの歴史を示しているのだという。
 天津神と国津神の「国譲り」から、源平から南北朝から、関が原から、さらには幕末、大戦にまで、その暗示は予言的に及んでいると持論を述べた。
 この日の授業は話がやや脱線気味だった。

 その日の授業が終わった午後三時三十分、話を聞くだけという約束で、鷹城令司は部に参加してみることにした。
 二人は駒場キャンパスプラザ前で待ち合わせた。学生会館と共に、数多くの部室が入っている、比較的新しい建物だ。
「こっちこっち! ……ここがウチの部室だぜ」
 藪という男は、いつもひそひそと周囲を気にした話し方をする。授業中だけではなかった。なんだか気味が悪い。
 当の部の名称は、「東京伝説研究会」といった。東京に関する謎や、都市伝説を真面目に研究し、会誌にまとめるというサークルらしい。全く聞いた事もない。
 ガランとした部室には、東京の地理の本や、都市伝説、ムーなどの雑誌や書籍がずらりと古びた本棚に置かれていた。
 中には数人のメンバーが令司を待っていた。あまり流行っている感じの部ではない。
 女性が二人いた。華奢できれいなのと、小柄でムチムチしたド派手な子。このオタサーは、姫が、二人もいる。華奢な方は、背が高く、黒一色だがパンクっぽい女の子だ。部のカラーが統一されていない。
 残りは男が二人。そのうちの一人は、武道かスポーツでもやっていそうな、文芸サークルには場違いなイカツい大男だ。喧嘩でもしたのか、額に絆創膏を張っている。
「都市伝説って、世界を支配する陰謀とか、宇宙人とか、バミューダ・トライアングルとか?」
 令司は勧められるまま席に座ると、隣の藪に訊いた。
「ま、そういうのも都市伝説だが、我々が扱っているのは主に東京に関するものなんだ」
 オールバックのソフトリーゼントで、茶色いサングラスに端正な顔立ちの、やや小柄な人物が口を開いた。長袖シャツをまくって、腕を組んでいる。
「どうも、法学部三年の四元律(しげんりつ)、副部長です」
 二十一歳にして妙な落ち着き。クールだがとぼけた味わいがある男だ。
「じゃあ――天馬君、何か教えてあげて」
「はい。たとえば、近頃ツブヤイターで話題になっているのが、渋谷の空飛ぶ鉄球の伝説です。目撃者が多数居て、写真が撮られています。ま、そういうのを収集するグループですよ」
 天馬と呼ばれたのは、ずっと女性だと思っていた人物だった。口を開くと柔らかい口調ながら男性であると分かる。大男と対極的な中性的な男子学生。
「初めまして、文1の天馬雅(てんまみやび)です」
 髪は少し長いくらいだが、顔立ちがとても女性っぽい。身長は令司とそんなに変わらないが、ミディアム・レイヤーウルフ・カットで、原宿系パンクロック風の服装をスリムで女性的な骨格で着こなしている。初見で女性と見間違えたのも仕方ない。青髭なんかまったくないのが不思議だ。
「里美じゃない! 里実だっつーのに」
 レポート用紙で高峰日子太郎教授に字を間違えられたのを、憤慨している。
「あ、理Ⅲの里実萌都で~す」
 一五〇センチないくらい小柄な女性。
 サークル内に、東大学内に二割しかいない東大女子がいる。サークルによっては、他校の女学生と出会う目的で「東大女子お断り」などとして、問題になっているのに、そのような差別意識とは無関係らしい。
「文3の鷹城令司です」
「よろしく」
 天馬はにこっと笑った。
「あくまで都内限定ですか?」
「そういうことだ、ネ?」
 副部長が返事をした。
 同人誌の名は「東京回遊魚」と、一風変わっている。「東京の都市伝説」を扱う会誌で、東京に関するミステリーや都市伝説を追いかけている。
 部長が不在で、気にしていると四元が言った。
「部長はある伝説を追いかけて、謎に近づきすぎたために、そのまま失踪したんだよ」
 唐突に芝居がかった言い方になるも、誰も笑わなかった。
 結局、本気なのか冗談かよく分からないが、部長は学校に来ず、連絡も取れないのは事実らしい。
「一説ではブラックバイトで来れなくなったっていう――」
 新田と名乗った大男は、眉を片方だけ上げて、何となく凄んだような顔つきで言った。おでこに絆創膏が貼ってある。スーパーサイヤ人みたいにワックスで怒髪に固めた、ややリーゼント。まことしやかにそんな事を言うこの部の連中の態度が、令司には全く奇妙に感じられた。
「桜田総長も何があったんだろうなぁ? 本当に事故死なんだろうか?」
 四元が言った。
 桜田総長の事故は、帰宅ルートとは正反対なので、労災が降りていない。
「総長といえば『一緒にみんなで貧しくなろう』ってな論説を新聞に書いて、自分はタワマン・別荘・高級車の三点セットだろ、誰かの恨みを買ったんじゃ?」
「ヤバいんじゃない、今その話題は――」
 里実が藪を制した。
 にしても、誰も彼も、なぜか藪と同じように、ひそひそとした話し方だった。
 消えた部長に代わってリーダーを務めているのが、三年生の副部長氏だ。ただ、誰も副部長と呼ばない。「マックス先輩」と呼んでいる。
 ―――なるほど。
 映画「バッド・マックス」の主演俳優に似ているから着いたあだ名らしいのだ。推定一七〇センチほどの身長で、確かに小柄なバッド・マックスに見えなくもない。東大生らしい、至って穏やかな人物だ。
 平凡なのは藪くらいだろう。この部屋の中でも新田が最も異彩を放っている。
「実は君をスカウトした理由なんだけど、この部室も、活動実績がないと取り上げられるんでねー」
 マックス先輩によると、夏コミの出店には通過したが、主筆が居ないので、どうしようか困っていたのだという。取材ノートは全部、部長が持っていってしまったらしい。
 マックス副部長・四元律におちゃらけ担当・藪重太郎、鬼武者・新田真実、現実離れした美少年・天馬雅、それに里実萌都(さとみめい)という、小柄で胸が大きい、本名かどうかも不明のコスプレ娘という部員たちの中で、誰も原稿を書かないらしいのだ。それならなぜ、皆この研究会にいるのだろうか? そんなことを考えていると、
「君、作家を目指しているんだろ?」
 マックス先輩が指をパチンと鳴らして、切り込んできた。
「まだ賞に出すとか、人に見せたことがないんです」
「あっそうなんだ。フ~ン、いや、絶好のチャンスじゃないか? もし踏ん切りがつかないなら俺たちが背中を押してやろう。才能があっても、それがいつ開花するかは分からないもんだよ。しかし、ひょっとしたらウチの会誌で書いたことで、どこかで縁がつながって、大きな実を結ぶかもしれない!!」
 マックス先輩は静かながら抑揚をつけた口調で、令司の肩をドカッと掴んだ。
「コミケっていったら大舞台だ! 僕たちはこれを見過ごす訳にはいかないんだよ」
 みんな微笑んでいたが、真剣な目つきでうなずいている。
「よくさ、うちの東大なんかトイレ行ったら難問が書いてあった、なんてことがあるの見たことないかい? それを見たら君の頭の中は、解きたくて仕方がない……東大生の性(さが)だよな?」
「あ……あります」
「ま、主に俺が書いてたんだけども!」
 ――ハメられた。
「答えを書いてくれる人物が現れるのをずっと張って待っていた。それがさ、実はほとんど君だったんだよ! その時点で内定。――だから俺は、君に目をつけてたんだ。で、同じ授業の藪君に内偵させてさ、呼んでもらったって訳」
 好奇心に負けて、便所の落書き問題なんぞに付き合うべきじゃなかった。問題があると解きたくなる。四元が目をつけ、藪を部のエージェントとして令司の下へ送り込んできた。バッド・マックスというより、「マトリクス」の巨漢か?
「君がやらねば誰がやる!?」
 藪をジロッと見ると、ヘラヘラと笑っている。
「東京伝説を解かなければならないというのも、一種の東大生の性(さが)だ。人に推される立場になるタイミングというのは、人生で訪れる。その時に逃げちゃいけない。そうして君の人生は前後裁断され、新たな展開が始まる。それまでと全く違った人や物事……そして今がその時なんだ、鷹城令司君」
「――はい」
 令司は小声で答えた。
「もしも世の中に訴えたいモノがまとまってるんなら、自分の中に押しとどめていちゃいけない。蓄えられたエネルギーを、社会へ循環させろ。そうすることで何倍にも膨れ上がって、自分に跳ね返ってくる。世に出る、成功するとはそういうことだ」
 令司と二歳しか違わないはずなのにずいぶんと老成した人だ。東大生に割と多いタイプではある。
「書きたいように書きゃいいんだよ。マックス先輩の言う通り、将来いいことがあるかもしんねーぜ? 先輩のお眼鏡に適ったんだ。有望な若手はどこでも欲しがる。争奪戦さ!」
「青田刈り?」
 部員達は全員、令司が入部を決めたと思い込んでいる感じで、もはや逃げ道は絶たれていた。
「仮タイトルは一応、『東京伝説白書』と決まってる。硬いかね? 元は『東京回遊魚』だけど。まー、無理に、とはいわないけども。一応考えといてくれていい? 夏コミの締め切りがあるから、できれば来週までに」
「――はい」
 マックス先輩に言ったことは本当だった。
 令司はこれまで同人誌に参加した事もなく、小説の公募に応募した事もなかった。ネットに自作を発表したことすらない。一行の文章も他人に見せた事がないのに、何故彼らは自信たっぷりに自分の才能を保障するのだろう?
 ―――まぁ、でも悪い気もしないか。
 本来なら勉強が忙しいとか、自分の執筆が忙しいなどといって断ればいいのだろうが、「東京伝説」と聞いて、令司の中でピンとくるものがあった。
 昨夜の京子との出会い。彼女が語ったこと。何かが引っかかっていた。
 昨日の出来事の続きを取材してみれば面白いか? いや、それは危険か。でも、「仲間」が居るというのは心強い。ここで引き受けておけば、もし今後何があってもきっと相談に乗ってくれるだろう。見たところ、鬼武者みたいな奴もいるし。彼なら虎を素手で殴り殺しそうだ。
 つまり、東伝会の要請は「東京」に関した都市伝説の記事を書けばよいという話である。副部長のマックス先輩の言うとおり、もしかしたら小説のネタになるかもしれない。
「今、どういうの書いてるの?」
 マックス先輩が身を乗り出した。
「ミステリーであり、社会派でもあり、」
「増本清澄みたいな?」
「いえ、ミステリーやSFやファンタジーの枠も超えた長編――です」
「ふ~ん、何か凄そうだ。じゃーミステリー三大奇書みたいなものを目指してると?」
「いや、どちらかというと中国の四大奇書『三国志演義』・『水滸伝』・『西遊記』・『金瓶梅』の方ですね。それを現代の日本にアレンジしたような感じです」
 令司には国内で奇書として持ってくるなら「源氏物語」、「南総里見八犬伝」、手塚治虫の「火の鳥」だという感覚がある。
 元の中国語の「奇書」は面白くすぐれた本という意味である。源氏が「金瓶梅」、八犬伝が「水滸伝」、火の鳥が「西遊記」……。しかしながらどうしても四つ目が思いつかない。だから、それに続く第四番目を自分が制作する。
「おほぉ、志はあくまで高くか! いつか読ませてもらいたいネ!」
「はい」
 今書いている小説は、「魔天楼ブルース」というタイトルである。令司はそこで、「社会派スペクタクル・ロマン」という新ジャンルを打ちたてたいという野心があった。「三国志」や「水滸伝」のような壮大なスケールの作品を世に出すこと。都市伝説ならテーマとして決して遠くなく、いい材料になるだろう。
 ひょっとしたら、伝説の宇宙開発系陰謀論「第三の謀略」のように、ライターがドキュメンタリー風のフィクションを追いかけているうちに、いつの間にやら世界的な大陰謀の真相に迫っていたなどという可能性も出てくるかもしれない。そんな芯のある、迫力に満ちた作品を書きたいと普段から考えていたのだ。
 それらの考えが徐々に令司の頭の中で形成されていくと、自分の中で決意めいた感覚が固まっていくのを覚えた。
 夏コミは八月九日から十二日の四日間だ。
 しばらく沈黙した後、令司はごく軽い口調で、今書いているものを一時中断して、夏まで会誌作りに協力してもいいと返事した。
「やった」
 彼らは小さな声で盛り上がった。

マイッチング・吾妻真知子

「じゃさっそくだけど、もうちょっと付き合ってもらえる? 時間がないから、今後の方針について、顧問の先生に相談しに行こうぜ」
 お調子者の重太郎につられて、鷹城令司は部顧問の研究室へと向かった。
「ここって――」
「な? 役得だろ?」
 顧問は吾妻真知子・教養学部教授だった。
「ワオ、マイッチングゥ~~♪」
 藪はいきなり小声でつぶやいた。
 元ネタは言わずと知れた、ナカシマ・コウの「晴れのち学園」とともに、昭和期に全国のPTAから大絶賛された「まいっちんぐマツコ教諭」。今だったらセクハラ的内容で完全にアウトな漫画だ。
「おまっ、やめろよ」
 初めて訪れた研究室は、資料が山と積まれ、その中に和製バービー人形のような教授が埋もれている。壁に、観葉植物のエスキナンサス、リプサリスが居心地悪そうにぶら下がっている。
 間近で見る吾妻教授は、グラマラスで、アラフォー女性ながら肉体年齢が二十五で止まっている驚愕の美魔女、その迫力は半端なものではない。研究会の里実も胸が大きいが、もっと小柄でトランジスタ・グラマータイプだ。一方天馬はスリムで、いや、あれは男だった。
 教授は、美人すぎる東大教授として雑誌RX25に御登場。美にこだわった食事や生活、エクササイズを紹介していた。
 ショートボブ、折れそうなほど細くくびれ、引き締まったボディにふっくらとしたバスト。ただ大きいだけじゃない。人間とは思えないほど、ウエストの細さがすごい。そのトップとアンダーの差こそが、リアル・マイッチング・真知子先生だ。それでいてどこか古風で、漂う気品(エレガンス)――。
「アラ、新入部員ね?」
 吾妻は、緑のバカでかいエメラルドの指輪を右手の中指にはめた手で、封筒の書類を取り出していたが、ピタリと手を止めた。
「……鷹城令司です。いつもお世話になっています」
「授業出てるわね。よろしく。けど、授業中は私語禁止よ」
 真知子はニコッと笑った。――めっちゃかわいい。
「すみません」
 白魚のような手で金属製の円筒形に、シリンダーを装着する。製品名ソーダストリーム。カーボネーター、炭酸製造機という代物。
「辛っ」
 吾妻は笑った。
「でもおいしいです」
 事前にマックス先輩からは「名目だけの顧問」と聴いていたが、吾妻教授は、部長の失踪を気にかけているらしい。
 「部長」としか聞かされていなかった人物の名は、荒木英子といった。
 教養学部日本史学専攻(近現代史)の荒木部長は卒論そっちのけで大作論文に取り組み、吾妻を呆れさせたという。
「部活動の再開は応援するけど、彼女の場合は極端だった」
「先生、彼が新しい執筆者です! 何を隠そう、小説書いてるんですよッ」
 藪は声を押し殺したようなトーンで力説した。変な奴。
「へぇ……それでその話をしてたのね、授業中」
「いや、あの……」
 藪はしどろもどろになっている。
「よかったじゃないの」
 藪の肩を、教授は細い手でポンとたたいた。
 真知子教授は、鷹城の入部を歓迎し、これからは全面的にバックアップするといった。吾妻も、英子の情熱に少し興味を抱いていたという。ただ、忙しくて、原稿を見せてもらったことはないらしい。
「勉強に支障をきたさない程度なら、応援するわよ」
 東都帝国大学は、二〇〇四年に独立行政法人になってから、国からの補助金が年々削られている。部費の補充、取材費や印刷代の相談を彼らは以前からしていた。教授から出された条件が、新しい執筆者を決める事だった。
「総長が突然事故で亡くなって、今大学の中は大騒ぎしている最中だけど、もしも夏コミというだけでなく、学問的に有意義な活動であると何か証明できれば、部費へのハードルは低くなる。むろん、東大も文化活動に対して色々ケチを着けるほど野暮ではないし。まー、一種の方便よね」
 吾妻は、都市伝説といってもフィールドワークの一環だと思えば、部活動としても大義名分も十分に立つと言った。実際、東京伝説研究会はもともとフィールドワーク部だったらしい。
「一見バカバカしそうに見えるテーマの中にも、学問的研究に値するものは数多くあるものよね。世の中には、『ドーナッツの穴をどうやって食べるか?』っていうテーマをまじめに研究してる人もいる。でも、それくらい真剣に取り組んでほしいものだわ。もしかすると、学者が見落としがちなものの中にこそ、凄い新発見があるかもしれないわ」
「くだらないことを真剣に――、ハイッ、それなら得意でェす、先生!」
 藪がバッと手を挙げた。
「みんな、苦学生なんでしょう? 荒木さんもそうだったし――」
 教授は、部費もアップすると確約した。
「あざすっ」
 これは大きいと、重太郎は喜んでいる。
 部費が増えるのは、確かにありがたい。
 だが、文学部の吾妻教授の日本文学科は、学内での立場がしんどいのかもしれないと、令司は端的に推測した。学内ヒエラルキーは、たびたび感じている。
「これから君は忙しくなるだろうし、少しは単位も多めに見てあげる」
 吾妻教授は令司に言った。
「おい、やったな!」
 学生自治会が運営する温故知新社の東大講師「逆判定」ハンドブック(たった五百円で手に入る)によれば、単位取得難易度を示す大鬼・鬼・人・仏・大仏の五段階評価で、吾妻教授は「鬼」。しかし別評価で美魔女の「女神」と評され、学生の人気は極めて高い。
 その教授が、令司の執筆のために単位取得に便宜を図ってくれるという。これは、本気で頑張るしかない。
 東大生は、一年は必修科目があるため基本的に忙しい。まじめな東大生は単位を一年で詰め込むため、二年で一気に授業がなくなる。
 科目の選択肢が多くて、授業はあまり混むことがない。吾妻先生の授業以外は、だが。しかも授業を受けて、自分に合わないと判断したら試験を受けなくていいので気は楽だ。
 二年の令司は一年の時に多くを履修し、趣味のような感じでいくつかの授業に出てはいるが暇を持て余し、サークルにも参加していなかったので、ほぼニート状態で図書館で小説を書いていた。周りは勉強している人が圧倒的に多い。この図書館、少し変わっているのは、秋口になると2Fの窓から緑が見えて夏という感じだが、3Fから見ると木の上が紅葉してて秋になる。階によって季節が違うのだ。
 やるなら今しかない。
「そうねー、まずはSNSで呼びかけてみたら? 専用のホットラインを設けるのよ。U-TUBEチャンネルを開設すると面白いかも? ネットで情報収集以外にも、街に出かけてフィールドワークしないとね。ホットな情報を得るには生の声が一番だからね」
 ホットな教授の助言で、都市伝説の収集から始めることにした。
「はい」
「タイムリミットは夏コミまでのおよそ二ヶ月間。みんなで手分けして、都市伝説を収集しましょう。知人や友人、先生などに取材を申し込む。可能なら、誰かの携帯番号とメールを、ホットラインとする。ホームページを開設し、情報提供を呼び掛けるとか。部室の入口に、情報提供箱を設置するといいかもね。ただし、個人情報の取り扱いには細心の注意を払ってね」
 教授はてきぱきと指示を出した。もはや、令司は東京伝説研究会から逃れることはできない。しかし、令司は晴れ晴れとした気分だった。
「期待してるわよ、新人!」
 吾妻と直に話して、令司はある決心をした。
 東大の学生は、駒場で過ごす一・二年の前期教養学部と、駒場以外の本郷キャンパスにも散らばる三・四年の後期(各専門学部)に分けられる。
 三年からは本郷へ行く人も多く、まるで二回大学に行く感じになるのが東大生の特徴と言える。もっともマックス先輩を観ていると、忙しくなさそうな人もいるようだが……。
 八月下旬には二年生の成績発表があり、夏休み明けには、進路希望が確定する。
 「進振り」、すなわち進学振り分けは、希望をもとに一・二年の成績を成績の点数のみで決まる。文学部では、社会心理学 西洋古典学、教養学部では認知行動科学、近年ではこの辺りが人気度が高く、法学部より高い点数を求められている。
 令司は、真知子教授の居る文学部日本文学科に進むことを決めた。
 藪の言い草じゃないが、こんな幸運が舞い込むなんて、さっさと決断して本当に良かった。大学受験以来の「運命」を感じる。そう思うとがぜんやる気も出てくる。
 こんなに間近で、教授と長時間話したのは初めてだった。正直正視するのが困難なくらいの美人である。そして抗いがたい大人の女の魅力。
 もう、一生真知子先生に着いて行ってもいい。
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