第10話 東大の女王 海老川雅弓「三角摩訶論」

文字数 11,234文字



二〇二五年六月二十四日 火曜日

 昼に、鷹城令司は学内の無人購買で、棚からたまごコッペパンとチキンおにぎりを取り出した。会計しようとして、都民IDカードが読めないことに気付いた。
 商品を一度棚へ戻し、近くのATMでカードを試す。これも使用できなくなっていた。背筋が凍った。汗がドッと噴き出る。このままじゃ半自家用レンタカーも使えないし、アパートの鍵だって開けられない。昨日動画をアップロードして、今日都民IDカードが使えない。嫌な符号だった。5G管理社会が突如牙を剥き、ついにはじかれたのか、鷹城令司という男は。
 明日は京子の渋谷鹿鳴館でバイトだし、週末にバイト代が出る。徒歩で行けるので、大学に近いのは良い。しかし、京子に会うのが怖かった。
 再び店内で商品を眺めて、じっと固まった。
「おごりましょうか?」
 午前中、高峰日子太郎教授の数学の授業で一緒だった海老川雅弓が、声をかけてきた。豪奢な金髪の巻き毛の持ち主で、ブランド品に身を固めている。これまで全く接点はなかった。たしか二週くらい見てなかった気がする。
「購買部でIDカードが使えない。銀行預金が封鎖されている。何かが起こってるのよ」
 東伝会でもその名が出た、上級オブ上級都民・海老川雅弓は思案気な顔をした。彼女のことを東伝会ではひどく恐れている。
「なぜ知ってるんだ?」
 令司はキョドッて海老川の顔をまじまじと見た。
「困ってるようだったから、そうじゃないかと。たまにニュースになるのよね……。何でもネットにつながる5G社会の弊害よね。システム障害かも」
 区役所が発行する都民IDカードは、それ一枚ですべてが賄える。
「別にいいよ。後で区役所に連絡するから」
 令司は海老川の施しを断った。
「携帯もつながらなくなってるんじゃない?」
 確認すると、海老川の言うとおりだった。
「現金持ち歩いてるの? 交通費は? お金に困ってるんでしょう? 鷹城令司君。人の好意は素直に受けるものよ。但し、サンドイッチは三角形に限る。お結びもね」
 海老川はカゴから勝手にコッペパンと丸型のおにぎりを棚へ戻し、手際よく商品棚から三角サンドと三角形のお結びを取り出して入れた。そして自分は、コールドプレス・ジュースを選んだ。一本八百円もする。
 よくみれば、海老川の持ち物や衣類、バッグの柄は三角形だらけだ。
「……」
「令司くんって呼んでもいいかな。……東京伝説研究会。昨日のU-Tubeの動画観たわよ。『本郷大斗会』ってやつ。デュエリスト伝説だとか?」
 海老川は、今回の本郷での事件をただちに知ったらしい。そこに鷹城と新田がいたことも、すでに把握していた。マスコミに報道されずとも、実は東大の誰しもが知っている事実なのかもしれない。
「……」
 鷹城は返事をせず、店の外に出た。妙な事にこれ以上巻き込まれたくなかった。
 目の前に、黒い巨大な犬が立ちはだかり、令司は固まった。
 体高一メートル以上はあるドーベルマンだ。そこだけ、空間が暗黒物質になったような漆黒のボディで、眼が金色で、すごく異様な感じがした。もしや、本郷の医科学研究所内のDNA研で作った犬じゃないのか? などと妙な想像をする。
 海老川は細い指で、犬の首輪についた紐をするすると解いた。令司は店の前から一歩も動けなくなっている。黒いドーベルマンは令司を見て低い声で唸った。逃げられない。
「あ、そうだ」
 海老川は何か思いついたらしい。
「ちょっと遠出しない? これから、合コンの予定があるんだけど、一人男性が来れなくなったのよ」
 大きな目が令司を見つめる。
「それどころじゃない。俺は飯が食えないんだ」
「えっ…… おごるわよ、それくらい。こっちも人数が足りなくて困ってたところなの」
 なかなか強引だ。
 大財閥の令嬢・海老川雅弓。陶器のように滑らかな肌……柔らかくカールした亜麻色の髪。絶世の美女。
 直接話すのは初めてだ。これが、東伝会メンバーらが恐れる上級都民だとしたら、噂通りの人物なのか、確かめる絶好のチャンスだ。海老川は絶対に何かを知っている。これを逃す手はない、と令司は思い直した。
 合コンなどという気分ではなかったが、おごるというので何も食ってない令司としては飯目的で、付き合うのもいいだろう。IDカード対策は明日行うことにする。
 海老川が伝説の語る「上級都民」かどうかはまだ分からない。だが、東京伝説は何かの拍子にひょんなことから出会えるものかもしれない。
 海老川はオフホワイトのベントレー・コンチネンタルGTに乗った。確定、上級都民だ。黒い犬も静かに後部座席に乗っている。車内にエンヤの「オリノコ・フロウ」が流れている。聖女と悪女は紙一重というが、どっちだろう。真横から見るとEラインがとても美しい。
 空腹に耐えかねず、令司はサンドイッチを食べ始めた。きんぴらごぼうとささみ肉、それをマヨネーズであえた中身。激ウマだが、犬のせいで食べた気がしない。海老川は、瓶ジュースにストローを刺して飲んでいる。
「先生、もう少し字をキレイに書いてくれないかしら――」
 海老川は独り言のようにつぶやいた。
 日子太郎教授の字は暗号に近い。猛スピードで書くので、結果字が汚くなる。
「あぁ、そ、そうだな」
 字が汚いのは「東大あるある」である。東大生は頭の回転が異常に速く、手で書くスピードが追い付かない。勢いで書き留めるから、誰も読めない字になる。時には本人でも。教授は、「自分は字が汚いから東大に入れた」などと、逆説的なことをうそぶいているという。開き直りともいえる発言で、いい迷惑だ。海老川はレコーダーで記録しているらしい。
「日子太郎教授、数学の知識で財テクしてるらしいわ。あ、知ってる? 吾妻教授に片思いなの」
 海老川は黄金色の金属製の三角定規を、人差し指でクルクルと回した。大きさは二十センチ程度。いつも持ち歩いているらしい。
「へぇ……」
 どこで仕入れたんだそんな情報。人の弱みをコレクションするのが趣味か。吾妻教授の名前まで出てくるとは、もしや、東京伝説研究会のことも隅から隅まで知ってるんじゃないか。日子太郎教授の名の由来が、大阪万博の太陽の塔から来ているなどという情報も持っていた。
 聞けば、駒場の大学院の数理科学研究科棟に入り浸っているらしい。「数理病棟」などと揶揄される無機質な建築物。だが内部構造は奇妙で、階段の作りはエッシャーの絵をほうふつとさせる。確か、エッシャーも数学者だった。
「この世のすべてを数式で測るためよ」
「なんか最近、出席してなかったみたいだけど」
「……親戚に不幸があって、しばらく学校来れなかったの」
 赤信号が近づくと、海老川は携帯を操作した。信号はすぐに青に変わった。まるでボタン一つで、信号を変えているように見えた。
 上級都民は、交通ルールもスマホの上級忖度ボタンで操作したり、捻じ曲げることが可能なのだろうか。つまり、海老川が持っているのは庶民とは違う特殊携帯である可能性が……などと想像したりする。
 海老川は、目の前の車のナンバーに3が入ってないと加速させて追い越そうとする。無言で避けているような気が。
 とすると、上級都民はクレジットカードを封鎖したり、事故・事件の隠蔽処理も可能なのだろうか。もしそれが本当なら、明らかな法律の捻じ曲げであり、「忖度」などというレベルの話ではない。
「――少しお話を伺いたいのだけれど。あなた方、妙な事件に巻き込まれたんですって?」
「まぁな。でもなんでマスコミに報道されないのか分からない。俺達は捕まって取り調べまで受けたのに」
「問題だワ。今朝、駒場でも不穏な出来事があったらしい――。駒場池で亡くなった桜田総長を見たっていう人がいて、霊がさまよってるみたい。それと、キャンパス内に、誰かが日本刀を置いたんですって」
「えっ」
「すぐ警備の人に回収されたけど、本郷での事件の直後だけに、大学側は凄くピリピリしている。あなた方の動画の影響かしら?」
 そのシーンを撮影できたら、さぞスクープだったろう。いたずらか、もしや駒場でも、果し合いが起こる予兆なのだろうか。
「でも、東大側は隠している……」
 海老川は車窓に流れる空の色を見て言った。灰色だった。後部座席を振り向くと、黒いドーベルマンの漆黒の瞳が令司の顔をじっと見ていた。

白金会



 車は白金まで来た。海老川のファンション、何系かと思ったら、シロガネーゼだ。いつも女子力の高いワンピースを着ている。上品だが怖い。
「テレビで観たことがあるぞ、ここ」
 ドーンと巨大な白い巻貝が天に向かって、幾つもの尖塔を抱えているような建物、通称「門山シロガネ」。フランスのモン・サン・ミッシェルを模したビルだ。その前で車は泊まった。
「うちの会社よ」
 旧財閥系の海老川グループの本社である。「白金には城がねーぜ」は昔話で、今はここが白金の城である。
「ここが合コン会場?」
「そう、私が主催の白金会よ」
 会社のホールが、高級ホテル、あるいは巨大キャバクラのように装飾されている。
 およそ百人、各大学の学生が合コンに集まったらしい。海老川は東京学生連合会会長だという。普段、東京地球フォーラムで会議を行っているのだと言った。令司は海老川の権力を初めて知った。
 駐車場にはアルファード、ミライ、クラリティ、「走る執務室」とも呼ばれるエルグランド、レクサス、スポーツカーのGT-R・MISONO、皇室も使っているトヨタ・センチュリー、ホンダNSXなど国産高級車がズラリと集結していた。海老川の車同様、シェアカー・マークがついてない。全部自家用車だ。こいつらホントに学生か?
「お手元に飲み物は届きましたかね? では、ルネッサ~ンス!!」
 ロゼ・シードルの乾杯から始まり、テーブル上にはブランデー、貴腐ワイン、ドンペリなどお酒が次々出されたが、令司はまだ二十の誕生日を迎えていないことを告げて、アップル・タイザーを飲みながら、もっぱら手前にあるガレットやら前菜の類をつまんだ。
 ずらりと並んだ料理は、和洋中の、とても令司には普段手を出せない高級な代物ばかりだ。
 彼らがしている時計、どれも二百万は下らないブランド品ばかりだ。中には一千万を超えそうな三角形の時計をしている奴もいる。海老川だ。
 令司だけ完全にドレスコードを間違えていた。
 銭形花音。令司は彼女を知っていた。一八二センチもあり、バレー部で国体にも出ている有名人だ。最近、どこかで観たような気がしたが、覚えていない。
 高校が灘・開成の連中が多いようだ。彼らは同級生の数が多く、普段からキャンパス内でやたらと声がでかい。
 海老川は直径六十センチのピザを、例の金ぴかの三角定規で斬ると言った。
「洗ってないんでしょ?」
 誰かがそういうと、一瞬シンとなった。一種異様な緊張感が漂う。
 海老川はその声を黙殺して、ピザの真上、三十センチの宙でシュッと手を振り、一振りで同時に複数のピザ片に切断した。刃が触れたようには見えなかった。
 そのとたん、周囲から拍手が起こった。海老川は満足げに微笑んで三角形のピザをふるまっている。完全に女王様だ。
「何だ、今の」
 令司は率直な感想を述べた。
「三角形こそが、宇宙の偉大な真理だってこと」
 海老川は黄金の金属定規をキラキラと回転させた。
 令司は、京子が口にした「うずまきが宇宙の原理だ」という話をしてみた。
「うずまきか……確かにね。しかしもっと上位の基本原理があるのよ。異能の天才科学者ニコラ・テスラは言っている。『あなたが3・6・9という数字のすばらしさを知れば、宇宙への鍵を手にすることになる』って」
「3・6・9……?」
「彌勒よ。テスラは、十八枚のナプキンで食器を拭く、建物に入るときは常に三回回って入る。ホテルは三で割れる部屋に泊まったそう。すべてが、三つで一つになるようにしていた」
「なんのためにそんなこと」
「宇宙の原理が三角なら、人間もそれに従うべき。テレビの放送、地震解析、スマートフォン。どれも三角関数が使われているでしょ? ピラミッドの昔から、人は三角形の神秘に気づいていた。日本にだってピラミッドはある。そもそもこの宇宙は縦横高さの三次元だし」
「ま、それはそうだけど」
 海老川の三角に対する、偏執的なこだわりはよく分かった。普段から数理科学研究科に入り浸り、理学部数学科を専攻予定らしいのだが、日常生活にまで三角形を導入する彼女の考え方は理解できない。
「雅弓の得意技。いいもん見れたでしょ?」
 小柄な女の子が令司の隣に座った。右手でスッと髪を触る。ゆるふわ系に見えるが、OLのような軽いパーマの栗色の髪をしている。
「應慶大医学部の諸田江亜美(えあみ)でェ~す。海老川さんのお友達です」
 白いワンピースを着ている。ショッキングピンクのバッグに、化粧ポーチ、ネイルもピンクだ。「諸田江 亜美」ではなく、「諸田 江亜美」だ。
「東大の鷹城令司です」
「よろしくね」
 江亜美は笑った。趣味は茶華道、日本舞踊とピアノと自己紹介した。小柄だがすらっとした美脚を組んで座っている。
「今、定規を直接、触れてなかったけど」
 薄暗いからそう見えただけかもしれない。けど先日、本郷で目撃した、日本刀の剣戟と同じで、視えないエネルギーがピザを切ったように見えた。
「彼女、相手を三角エリアの中に誘い込むと無敵だって言ってるの。不思議だよね?」
 江亜美は謎なことを言った。バミューダ・トライアングルのことか?
 海老川は立ち上がり、かがんで江亜美の肩に触れた。
「なかなかいい男でしょ? 江亜美、後彼のことよろしくね。私、シャンパンタワーの準備をするから」
 江亜美は海老川に、無言の微笑みを返した。
「気を付けてね、雅弓は容姿端麗辛口だから――」
 と、江亜美はささやくように言った。
 一気飲みが始まった。

『いい男~? いい男~? ホントはドーデモいい男!』

「浮かないですね。何か気になることでも?」
「あぁ、友人からしばらく連絡がなくてね。結構ブラックバイトらしいんだ、彼の仕事」
 令司がそう言うと、江亜美が何か言いかけたが、左斜め前に座っている男が話しかけてきた。
 勤務医が自身の所属する病院以外に派遣されると、一泊三~五万円、土日は一日八万円。それを続けていれば、年収七百万が倍になる。さらにフリーランスでは、年収五千万の医者もいるという。
 医学部はかなりの閉鎖的なピラミッド社会だ。医学部には、医学部しか部員がいない部活が存在する。だから医者は体質が体育会系で、閉鎖的だ。しかしそれは、医学部に限らない。上級都民は、上級都民を守ろうとする互助会である。
 次第に令司は、冷静になって彼らの話に耳を傾けていた。そうだ。これは上級都民の取材なのだ。令司は今、スネオの集団に囲まれている。おそらく海老川雅弓が女ジャイアンだろう。
 上級は「この世には二種類の人間がいる」と、上級と下級とに分け、下級を餌食とする「人間牧場」を社会に作り出している。餌食にされるのはいつも下級の、自分たちだ。
 天馬雅のような存在は、その環境も含めて「自己責任」のレッテルを張られている。ブラックバイトの境遇から抜け出せないことも、結果、本人の責任ということになる。
 そして、餌食になる下級は、決して上級に逆らってはいけない。逆らわない限りは、いくら美男でも本当は「虫けら」のようにどうでもいい。反抗する者は消される。都民IDを失った自分がそうだ。上級にあらずんば人にあらず。それが、上級どものきれいごとの中に隠された、彼らの本音であり、実体なのだ。――だからといって、とてもそんなことをここで口にできる訳もない。
 小夜王純子はその上級都民社会を棒に振ってまでして、歌手といういばらの道を選ぼうとしていた。大学病院の前で、大音響でロックを奏でたのは伊達じゃない。家が医者の、彼女なりの強烈な皮肉なのかもしれない。だが、その後の「大斗会」のことについて考えると、頭が混乱する。
 純子とはあの後、会っていない。生きているのか死んでるのか。
 誰も彼もが令司に親切だった。失礼な態度をとる者は一人もいなかった。きっと海老川が連れてきた令司を、「仲間」だと思っているのだろう。実際には一文の金もない下級の最下層の、この俺を――。

 天井からミラーボールが下りてきた。
 本格的なレーザー光が回転し始め、軽快なEDMがかかる。全員立ち上がって乾杯の準備をする。普段から慣れているパリピ共だ。
 東大鞭倶楽部部長・水友正二が、スポーツ・ウィップをしならせ、先端で巨大なピラミッド型・シャンパンタワーのコルクを抜いた。

『水友クンのちょっといいトコ見てみたい♪ はいイッキ、イッキ、イッキ、イッキ、イッキ、イッキ―――』
 ウェ――――イ!

「雅弓のデルタフォースの一員。東大の親衛隊長よ。ご存じじゃなかったですか?」
 江亜美によると、スポーツ・ウィップはれっきとしたスポーツらしく、知られざる鞭の全国大会もあるらしい。そのメンバーが、駒場で「デルタフォース」なる海老川軍団を形成している。元はアメリカ国防総省の対テロ部隊の名だ。
「いや……初めて聞いたけど」
「銭形花音さんも、確かメンバーだったはずですよ。デルタフォースも雅弓を入れて九人。それ以上増減しないみたい」
「例の3・6・9の法則か?」
「はい」
 ナチュラルメイクにコンサバ・ファッション。かわいくおしゃれで清楚。江亜美は常に笑顔を絶やさず愛想が非常にいい。そして、ボディタッチしてくる。甘え上手なのだろう。
「ドンペリ入りましたぁー!!」
 そこからまた乾杯合戦が始まった。

『今日も~! お前は~! いい波乗ってんね~! 隣の~ あなたも~ いい波乗ってんね~!!!』

『ナーンデ持ってんの? ナーンデ持ってんの? 飲み足りないから持ってんのッ! ハイ飲んで飲んで飲んで飲んで飲んで、ドドスコスコスコスコスコスコスコスコスコスコスコスコスコスコスコ――』

 これが……合コン会場? 完全キャバクラ状態……。
「くれぐれもテキーラ一気飲み合戦とかやめてほしい」
「彼らはそこまで悪趣味ではないわ。あれ(一気用)は、アルコール三パーセントのハイボールだから」
「え!?」
 いつの間にかそばに海老川が立っていた。
「私が主催のコンパで、危険な行為は許さない」
 それもある。だが、また3か。
「アルコールは、この東大銀杏ハイ(リキュール)が33パーセント、36パーセント、39パーセント……」
「3の倍数だ」
「私は未成年の飲酒も見逃しません」
「厳しいんだな」
「自治会長ですから」
 パリピと自治会長の二つの顔を持つ、それが東大の女王だ。
 海老川はさっそうと高級エレクトーン「ステージア」まで行き、フルオーケストラと寸分たがわぬ単独演奏を披露した。三歳からエレクトーンにかじりついているらしい。
 曲がクライマックスに達する度に、彼らはたびたび乾杯をくりかえし、「ウェーイ!」と叫びながら半強制的に周囲を巻き込んでいった。陽キャ共に囲まれた令司は、いやがうえにも陰キャであることを思い知らされた。
 だが、デルタフォースの銭形花音だけは無言で飲んでいる。周りをちらちら監視して、まるで雅弓のSPみたいに目配せしていた。
 江亜美も乾杯合戦に参加し、令司に何度か勧めてきたが、令司はまだ二十歳になっていないと断った。立ち上がって騒いでる連中と違って、江亜美はずっとそばを離れず、令司の話に付き合った。
 じっと相手の目を見て、距離が近く、聴き上手で、令司の自尊心が面白いようにコントロールされている。ただ、それは一時間が限界だった。
 江亜美はあまりお酒に強くないらしく、フラフラしている。令司にしなだれかかってきて、真っ赤な顔で目をつぶり、胸元が開いている。
「昔……すごく好きだった人がいて、――でも……、その人がアメリカに留学して向こうで就職するつもりらしくって。でも私は東京での生活も家もあるから――。令司さん彼女のことめちゃくちゃ大切にしそう。私分かるのよね、そういうの。――でしょ?」
 言葉の出方が非常にゆっくりになっている。自分の両腕を抱いて、軽く揺れていた。
 チークタイムで木村カエロの曲が流れて強制的にムーディに。
「じゃあ令司君も踊ろう!」
 江亜美はフラフラで立ち上がったが、そのままドタッとソファに倒れ込んだ。
「あぁっ、危ない――」
 令司は他の男子学生たちと冷たいおしぼりを頭に乗せるなどして、江亜美を寝かせた。
 終盤になって始まったビンゴ大会で出された景品の豪華さは、筆舌に尽くしがたかった。総額幾らするのか、正確なことは令司には分からない。
 令司は、海老川が熱唱する石野真子の「狼なんか怖くない♪」を聴きながら、上級都民に対する、強烈な拒絶反応が出始めていた。この間にも、雅は夜通し過酷なバイト生活を送っている。
 歌い終わった海老川は、最後に両手でおにぎり型を作って、マイクを他の女子に渡すと、令司に近づいてきた。
「どうー? 楽しくない?」
 海老川が隣に座った。
「ちょっと、みんなのノリについていけないかな」
 令司は苦笑した。
「令司君も早くお酒が飲めたらいいなぁ。江亜美は飲みすぎね。ね、夜風に当たらない?」
 海老川について、令司はテラスに出た。
「ほら、夏の大三角形!」
 海老川は夜空を指さした。
「たまには面白いでしょ、普段と違った世界を見るのも」
「……まぁそうだけど。ここに来るのに乗った車一つ、シャンパン一つにしても俺とは住む世界が違いすぎる」
「車だったら、何も自家用車じゃなくたってレンタルで好きなもの乗れば?」
「いや、ランニングコストがかかるし審査もある」
「何に乗りたい?」
「――アウディA4かな」
「いい線行ってるわね。江亜美から聞いたけど、小説書いてるんですって?」
「まぁな」
「ミステリー?」
「ミステリー要素もある」
「バンバン人が死ぬミステリーは、私は好きじゃない。人がバンバン死ねば面白いわけではないでしょ。死ななきゃ面白いモノが書けないというのは、才能ない人間のたわごとよね」
「そこまで言わなくても――」
「嫌いなものは嫌いなの。誰かが死ななくたって、面白い小説は書けるはずなのよ。ミステリー作家が、歴史や伝承や童話にいちいち邪悪な解釈をつけて、探偵に講釈語らせるのももうんざり」
 ミステリー全否定である。
「だから君にはそうじゃない小説を書いてほしい」
「――あぁ、うん」
 桜田総長の死を前に、東大生は皆同じ気持ちだろう。令司は、唇をかんだ。
「殺人の出てこない事件の謎、というと?」
「たとえば社会の謎よ。その他、私が好きなのは大岡越前みたいな勧善懲悪もの。明快な論理の」
 世の中そう単純ならいいが。
「もともと私が誘ったのは天馬雅だった。彼とは、他の授業で一緒で。かわいいから誘ったの。君のところのメンバーでしょ?」
「そうだったのか?」
「誘ってやったのにあいつ断った。バイトが忙しいんだって、昨日連絡があったの。今日は来てくれてありがとう」
 ――雅の生存確認ができた。こんなところで。彼らは、何気に親しそうな雰囲気がある。
「先日の桜田総長の事故死なんだけど、不審な点が多いわね」
「あぁ、でも自尊事故なんだろ?」
「いいえ、それだけじゃない。人が全く意図していなかった目的を達成しようという、見えざる手によって導かれた結果なのでしょう。この大学の平和も脅かされている。私の考えでは、犯人は……東大の中に潜む人狼なのかもしれない」
「人狼?」
 海老川は、例の渋谷の人狼伝説の動画も観ているのだと察した。人狼とは、果し合いをした二人の女学生のことを差しているのだろうか?
「そう、人狼。本郷に現れた人狼は、今や私たちの駒場の中にも潜伏している……。彼らの正体はまだ分からない。けど、私たちのキャンパスの日常に、どんどん近づいてきている」
「あぁ……」
「危険が迫っている。大学の一員として、私が、なんとかしなきゃいけない。そう思ってる」
 なぜ、そこまで?
「東京伝説研究会って、活動を再開してたのね。前から存在は知ってはいたのよ。部長さんって今、どうしてらっしゃるの?」
「それが……失踪したらしい。俺は新入部員なんで、それしか知らない」
 海老川は知っていて、令司に探りを入れているのだと思った。
「そうなんだ」
 海老川の真顔には、何か恐ろしい魔物が潜んでいた。
「あのさ、最初の動画に天馬君が出てくれた後、俺たちの間で音信不通なんだ。まぁ、まさかとは思うけど」
「それは心配――おかしなこともあるものね。東京伝説に、迫りすぎたとか?」
「でも君の方に連絡が行ったって聞いて安心した」
「フフ、あら、そろそろ解散の時間」
 雅弓は、高価そうな腕時計をチラッと見た。
 合コンは六時から九時の三時間でピタッと終わった。統制が取れている。
「今日はどうもありがとう。こう見えて、私たちは健全な学生社交界なんですよ。だから、夜通し騒ぐなんてことはしない。お土産を用意してあるから、持って帰って」
 ボーイを呼んだ海老川は、紙袋を令司に渡した。
「うちのグループのお店が作ってる、三角マカロンよ。甘いものが大丈夫なら後で食べてちょうだい」
 中身は八種類入りのケース。おにぎり型のマカロンが入っている。
「あぁ……サンキュ」
「それと」
 海老川は赤い三角幾何学模様のバオバオのバッグから、真っ赤な招待状を取り出した。真ん中に狼のシルエットが描かれている。
「人狼ゲームはやったことはある?」
「いや……まだ本格的なものは」
「動画で、人狼ゲーム出てきたでしょ? 私、東大模擬国会部の部長を務めているのだけど、二ヶ月に一度くらいレクリエーションの一貫で、人狼ゲームをやっているの」
「……」
「一緒に学内の人狼をあぶり出さない? 東京伝説研究会としても、東大の伝説を追求する意味があるでしょう? もちろんゲームだけど、あなたにはぜひ参加してもらいたいわ」
 果たして、受けていいものだろうか。
「……」
「もし受けてくださったら、鷹城君が今困ってる問題、助けてあげる」
 海老川の目は本気だった。
「そうだな――いいよ」
 鷹城は開き直った。
 海老川雅弓は、本当に上級都民の女だ。何か仕掛けてくるかもしれない。だがここまで来たんだ。
 江亜美が近づいてきて、ニコニコしている。
「うちの車で送っていこうか? 雅弓の車で来たんだって?」
 彼らの自動運転はレベル5車なので飲酒運転には該当しないが、海老川は別れ際に言った。
「酔いなんて、これ一つでもコントロールできる」
 右手に、黄金三角をクルクル回している。どういうことだ?
 ここから先に行ったら……。
「大丈夫だ。うち、ここから近いから。ありがとう」
 令司は嘘をついた。
「帰りましょうよ――江亜美さん」
「うん、じゃまた会おうね。ごきげんよう」
「あぁ、またな」

 門山ミッシェルで彼女たちと別れると、徒歩で帰宅しなければならない現実が待っていた。みじめさを味わうためだけに白金へ行ったのか。陽キャの軍団に囲まれて、令司は軽く鬱な気分になって下町のアパートへ歩き始めた。
 煌々と輝く無人コンビニに立ち寄ってみると、IDカードが使えるようになっていた。これでメンバーとも連絡を取れる。そしてレンタカーの駐車場で、黒光りするアウディA4が停まっているのが目に入った。
 窓枠だけが銀縁の、令司の思い描く理想の車体、試してみると令司のカードで乗ることができた。無事帰宅し、アパートにも入れた。
 海老川雅弓の顔が浮かんだ。
 まさか……あいつが? 助けてくれた。いやこれは、いつでも5G社会から消せるという脅しなのではないか。それと同時に、この招待状を無視してはならないという無言の圧力なのではないかという気がした。
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