第38話 軍都東京伝説・新宿 人狼たちへの伝言

文字数 14,685文字



金座

 泥酔したサラリーマンが千代田線の終電に乗り込んで、そのまま眠り込んだ。気が着くと終着駅らしく、ドアが開いていた。駅員も誰も居ないホームに降りると、そこは『金座』という見なれない駅名だった。
 恐る恐る改札を出ると、外は銀座だった。
 でも、何かが違う。
 深夜とはいえ銀座には、誰も歩いてなくて車も通らなかった。
 男は、一ブロックほど歩いてみた。けれど、タクシー一台、人一人、歩いていない。まるで銀座が廃棄されて久しいゴーストタウンのように感じた。
 恐ろしくなった男が急いで元来た駅に駆け込むと、電車はまだそこでドアを開けて待っていた。
 男が乗り込むとドアは閉まり、再び反対側に向かって走り出した。そうして乗車した駅まで戻ってくると男は下車し、タクシーで帰宅した。
 男は後日、千代田線に電話して調べたのだが、『そんな駅は存在しません』といわれた。金座という駅名は、かつて中央区に存在した、江戸時代の町の名前だった。でも、今は存在しない。
 さて、彼は「パラレルワールド」でも入ったのだろうか?

二〇二五年七月二十八日 月曜日

 翌日から、令司はテレビや新聞等のレガシー・メディアを隅から隅までさらったが、松濤の渋谷鹿鳴館の事件は一切報道されなかった。小夜王純子のいう大本営無発表だ。この社会に対する不信感と共に、どこかほっとしていた。
 月曜日、令司が吾妻真知子の研究室を訪ねると、教授は荷物を整理していた。ガランとしている。
「あっ先生……この部屋、どうしたんですか?」
 令司は驚いて訊いた。
「うん、ちょっとネ」
 真知子は微笑んで、またすぐ思いつめた表情に戻って、ダンボールに書類を詰め込んだ。
「久しぶりね。そっちはどう? 夏休みは。研究会の動画を観ると――とっても大変そうだけど」
 黒いニットのサマーセーターにくっきりとロケット型のバストが浮かび上がっている。
「えぇ……」
 令司は嫌な予感がしながら、真知子の箱詰めを手伝おうとしたが、教授は右手を挙げて断った。
「なんだか暗いわね。疲れてるみたい。……睡眠の質が悪いのね――寝る前に温かいミルクを飲んでみたら?」
「……はい」
「他のメンバーはどうしてるの?」
「色んなことがあったんです。あまりに色々なことが重なって―――-どっから説明したらいいかも分からない。でもこれから俺達は―――、俺はどうしたらいいんでしょうか?」
「お茶飲む?」
 教授の目が優しい。真知子は令司に、椅子を勧めた。
「それに、お中元でもらったお菓子もあるし」
 真知子は、お茶と冷蔵庫から柚子水ようかんを出した。なんだか懐かしさを感じた。会ったことのない母親をほうふつとさせる。
 吾妻真知子教授は、いつものライダーメガネ、自動運転バイクで移動するためのパンツルックで恰好が変わる事がない東大の美魔女だ。学生の間では、そのセクシーさが話題の九十パーセントだが、しばらく交流するうち、鷹城にとっては特別な、母性や懐かしさ、やすらぎを覚えるようになっていた。
 東伝会の他のメンバーはそうは思わないので、鷹城だけだった。誰かにその事を打ち明けたことはなかったが、不思議がられるに決まっている。
「これ……君に頼めないかな。水をやっといてくれないカナ? 次の人が部屋に入るまで」
壁に、観葉植物のエスキナンサス、リプサリスが残されていた。
「閉じるんですか? まさか」
「研究室、閉鎖するの。どっか他の大学へ行こうと思ってね」
「それって……まだ決まってないんですか?」
「うん……まだ。居づらくなってしまって」
「大学の予算が削られる一方で、講師陣の非正規雇用も年々増加の一途、私の身分も落された。こんなんで日本政府は国を出て、外国の研究所で立派にノーベル賞を取った日本人研究者を手放しでもてはやし、また優秀な研究者に出てきて欲しいなんて虫のいいこと言ってる。抜け抜けと。おかしいのよね」
「せ……真知子先生!! しかし俺はどうすれば」
「決まってるわ。書くのよ。君には続けてほしい」
 令司はうなだれた。その肩に、真知子の細い手が乗った。きりっとした眉のしたに、まっすぐな眼が令司に向けられている。
「ねェ、今から一緒に新宿に行ってみない? 新宿をフィールドワークしながら、最後の講義をしてあげる。東京の地下核シェルター、決して降りてはならない駅、そして幻想皇帝―――。このままじゃ悔しいじゃない? さぁ、顔を上げて。最後に新宿の伝説を、二人で確かめよう」
 真知子は可愛くにっこり笑った。
「……はい……」
 今日、教授の笑顔を、姿を心に刻もう。たとえ今後、二度と会えなくなったとしても。



 渋谷から永田町へは、東京メトロ半蔵門で、渋谷―表参道―外苑前―青山一丁目―永田町で、四つ目である。
 国会議事堂前駅から「金座線」という幻の路線に乗り換えて、地下核シェルター都市「金座」を目指す。
 前に、教授の語った伝説によると、銀座のような外観の街並みは地下の一部で、そこから下には地下軍事基地があるらしい。
 車内はすいていたので、二人は腰かけた。
「私は皆のことを心配しているの。新田君や四元君、東京伝説研究会は、伝説を追いかけるうちに、東京の決して開けてはならない扉を開けてしまったのかも」
 電車を待つホームで、教授は言った。
「まぁ……そう、です」
「里実萌都(もえ)さんは今?」
「えぇ――里実さんは、僕が家庭教師を務める東山京子さんの屋敷で、メイドをしていたんですが、あの夜以来、本当にニートになる決心をしてしまったらしいです。故郷(くに)へ帰るって言ってました。……今は携帯もつながりません」
 教授は視線をそらし、長いまつげを閉じた。
「新田君は逮捕されたままだし、マックス先輩……四元さんは渋谷の騒動以来、音信不通です」
「あの元気な藪君は?」
 教授は眼をつぶったまま訊いた。
「彼なんですが……家が借金まみれで闇金融に追われてるって連絡があって、外国に高飛びするって。こっちに迷惑が掛かるからって電話が通じなくなりました」
「美少年の天馬君は?」
「あの夜以来です。天馬君とも、実はまだ連絡がついてません。それで心配してるんです。彼に、何も無いといいのですが」
 都内の某漫画喫茶にでもいるのだろうか。最悪、どっかの更生施設に収容されているかもしれない。――イカンイカン、悪い連想ばかりしてしまう。
「そう、皆、中華料理でブラックバイトをしながら東京伝説に迫って、消えた荒木さんのパターンを皆繰り返してるのよね」
「えぇ……」
 ドロップアウト、引きこもり、故郷に帰る。海外へ高飛び。検察に捕まるなど、これでもかというくらい、いろいろな理由で東京華族たちに眼をつけられ、狙われ、東大からはじかれていった仲間たち。小夜王純子は退学し、三輪彌千香は本郷で上級都民たちと張り合っていたが、その後の大斗会の結果が現実の彼らの教団を追い詰めている。
「リアルな人狼ゲームがずっと続いていたんです。最初は海老川のシャレかと思ってました。ふざけた奴だと。でも荒木部長を始めとして、俺達、上級都民を敵に回した者は一人ひとり抹殺されたんです。彼女は正しかった」
 令司は悔しさをにじませた。
 全ては、海老川雅弓の人狼ゲームから端を発していた。
 一度都落ちをすれば、東京の極端な階級社会で文明的生活を送ることすら容易ではなくなる。ドロップアウトしたり、罪を負って刑に服したり。炎上したり。あるいは、荒木影子のような改造人間になることを余儀なくされるのかもしれない。
「そして私もか……」
 教授は再び眼を閉じてうっすら微笑んだ。
「原稿は進んでる?」
「もう……コミケには間に合いません」
「鷹城君、思い切ってその取材結果全部、本にしてみない? コミケも動画チャンネルも絶望的だけど、このままじゃ悔しいじゃない。商業出版にして、世間に問うべきよ。出版社ならいくつか知ってるから、全面的に協力するわよ」
 吾妻は学術書の著書を何冊か出版していた。大学教授が動いてくれるなら、出版社のルートもあるだろう。ずいぶん話が大きくなってきた。うれしいが、複雑な気分だ。
「君の仕事にはそれだけの価値がある。東京伝説研究会のメンバーは激減したけど、君にはどうしても原稿を完成させて欲しい。私たちが居なくなってしまったとしても、最後まで諦めないで」
 吾妻は黒いバッグから封筒を取り出し、令司に手渡しした。
「これ、荒木さんが書いた原稿よ」
『暗夜を徘徊せし餓狼』
 東京の成り立ちについての都市伝説らしい。部長は、「戦後の黒い霧」を真実の書と信奉し、戦後の重大未解決事件を洗いざらい研究して、最大のタブー、東京の建て直しのタブーに気付いた。
「―――先生」
「実は私が持っていたの。なくしたと思ってたんだけど、研究室を整理したら数日前に見つかった。結果的に騙してたみたいで悪かったわね。――それと、これは、秘密書庫から取ってきた、荒木さんの原稿の基になったもの。部室から出てきた、引用文献リストを、自分で確かめてみたの。そしたら、そこに書いてあることは本当だった」
 吾妻はもう一つ封筒を渡した。
「ずっと調べてたのよ。信じがたくて、とても危険な内容だったから。彼女が研究したことが事実なのかどうか」
「どうやってですか?」
「日子太郎教授に協力してもらったの。不思議と、急にその気になったみたい。私は規則違反を覚悟で、東大図書館の秘密書庫エリアへ侵入した。それと、国会図書館の5G監視をかいくぐって、そっからも元資料を手に入れた」
「――そんなことを」
「国会図書館の地下には、秘密の書庫エリアがある。国会デジタルでは、利用頻度や資料の劣化度合いに従ってデジタル化がすすめられているけど、全部がデジタル化されているわけじゃない。当然――」
 国会図書館デジタルは、貴重な文献から優先的にデジタル化を進めているが、作業の都合上、すべてではない。そうして資料の選定の際に、禁書の類は公開情報から排除されていた。
 中を開くと、大量の本のコピーだった。
 真知子は、国会図書館に封印されていた、父・柴咲雅教授の論文をも持っていた。
「証拠はつかんだわ。荒木さんのいうことは全部正しかった。東京で起こっていることは、何もかも欺瞞だった」
「でも、そんな危険なことを」
「ジェームス・ボンドにでもなった気分で楽しかった! いや、ボンドガールね。ま、こうなる事も分かってたケド」
 吾妻は自身が東大教授として失脚する自覚をほのめかした。
 大学院の数理科学研究科の日子太郎教授は、海老川の手下だったが、吾妻教授に恋心を抱き、図書館の秘密のエリアのキーを教えた。バレて、人狼ゲームに招集され、何かの罪を暴かれた上、休職に。真知子は総長に問い詰めたという。
 日子太郎は敵なのに、真知子に惚れていたのだ。味方に寝返り、身を挺して吾妻のために奮闘してくれた。
「私は、彼の気持ちを利用した。ただそれだけの、最低な女よ。今では誰もが噂している。私も荒木さんと同じく、東京の黒い霧に触れ、その結果、東大の黒い霧に触れた――ま、そういうことよね」
「先生――」
 おそらくそうではない。
 これは、先日の渋谷鹿鳴館の「曜変天目ナイト」における東山京子と荒木影子の決闘の結果、京子(キョウコ)が勝利したことによって、吾妻教授を通して、荒木影子の原稿及び重要資料が令司に渡ったということだろう。
「あの海老川さん……今の総長を嫌っていて……どうも背任で追い出そうとしているらしいの。私なんかどうなっても構わないけど、一学生の域を超えている。やりすぎだと思う」
 吾妻は令司をじっと見た。
「どうなっても構わなくなんかありません!」
「フフ、ありがとう」
 真知子は、二つの封筒をしまうと、かばんごと令司に渡した。
 真知子は少し沈黙した。
「カメラを回しなさい。私の顔をちゃんと映してね」
 今までは登場人物の顔にモザイクをかけていた。だが、それを許さないと真知子は真顔で言った。
 赤坂見附で丸の内線池袋行きに乗り換え、国会議事堂前駅へ。
「金座には自衛隊の地下駐屯基地がある。シェルター都市よ。東京湾の海底要塞は、首藤防衛の秘密基地だった。戦後も隠し通されてきた。GHQもそこまで追求しきれなかった。有名なところでは、モスクワの地下鉄には、実際に核シェルターの機能を果たしている『メトロ2』の存在が噂されている。もちろん国家機密でね」
 吾妻はカメラ目線で言った。
「一九六〇年代の安保デモの時、首相は国会から首相官邸へ、一気にワープしたように移動して、記者を驚かせた。地下に秘密の通路があるの。その一部が地下大神宮につながっている」
 永田町界隈は東京伝説の宝庫だ。新首相官邸は、戦後の旧首相官邸がCIAに盗聴され、日本支部化していたために、作ったともいわれている。

 暗い地下通路を抜けると、ゲートを発見。その先に、鳥居が出現した。異様だ。さらに歩いていくと、突如巨大な空間が出現した。そこにあったのは、地下にそびえる明治神宮。
「ここじゃなかったみたい」
「――では、どこに?」
「新宿だと思う。でも、地下大神宮が観れて良かったわ。国家神道の名残が。これが東京の決闘を単なる殺しでなく、聖なる神事にしている」
 足音が響いてきた。
 二人は追われた。ガンドッグかもしれなかった。
 地下道をひた走った。どこをどう走ったのか、令司には見当もつかなかった。ただカモシカの様な足で走る真知子を追いかけた。
 なんとか地下鉄へと逃げることができたが、十数人の男たちに先回りされている。二人は電車に乗るのを諦めた。
 真知子は迂回路を使って、再び地上へ。
「レンタカーはどれも売り切れか――。やれやれこんな時に限って! マイッチングね!」
 一台のレンタルバイクが残されていた。
「―――-君、バイク乗れる?」
「いいえ」
「残念、私のIDカード、使えないわ」
 都民IDを封鎖されているので、令司も使えないが、令司には硝子からもらったUSBメモリがあった。PM鍵が入っている。PM鍵は5Gに侵入し、なんでも可能になる。車さえも操る。
「来ました、早く」
「後ろに乗りなさい! しっかり掴まって!」
 まさかの二人乗りだ。
 ヘルメットは令司に装着させて、自分はナシ。障害物センサー及びジャイロ機能付きバイクなので、そう簡単には事故らないものの、リアル高峰富士子のように高速道路をメットなしでひた走る。安全ではない。
 普段から黒いライダースーツの吾妻のバイクは、ガンドッグの車と大量のパトカーと白バイ隊に追われながら、新宿へ向かって疾走した。
「あいつらは……まるでウェスタン警察か族ですね!」
「彼らからすれば私たちもね……狙いは私よ。君じゃない。国会図書館から資料を撮影して持ち出したから! それを何としても回収したがってる!」
 教授は続けた。
「もちろん、彼らが見せてくれるわけもないし、コピーもさせてくれない。撮った写真を、大学で自動文字起ししたの。資料を整理して、君に渡すために、今日まで生き延びて、頑張ってくれた君のために! なんだってやるわ!」
 ヴァロォオオオオ―――――ッッンン!!
「飛ばすわよ」
 令司は、キュッと折れそうなほど引き締まったウェストを抱きしめた。
「しっかり掴まって!!」
 三台のパトカーがやってきて後ろから煽ってくる。
 数台の白バイ、パトカーが躊躇なく銃撃してきた。吾妻は発砲音を聞き分けながら、バイクを左右に大きく揺らして交わした。
 前方に迫った信号が、瞬時に青から緑へと切り替わった。
「信号を変えて止めようっていうのね。捕まって! 突破する!」
 吾妻は平然と信号無視を宣言し、左右の車が動き出す前に突っ切った。後ろのパトカーも追ってくる。令司が後ろを見ていると、彼らが信号を通過した瞬間、すぐ青に戻った。やはり信号機をコントロールしているのだ。
 吾妻はトレーラーの隙間をバイクでかっ飛ばし、ギリギリですり抜けた。いよいよ高峰富士子かというスーパー・ライディング・テクニック。法定速度をはるかに上回る吾妻のバイクのスピード、さすが真知子先生だ。族はどうやら吾妻教授の方だったらしい。
「首都高に乗るわ。5G監視が、料金所をガードする。君のUSBメモリの出番よ!」
「で、でも射程距離に限界が」
 料金所で使ったことなんてない。ハイスピードの中、できるのか。
「もう一つの鍵を併用してみなさい!」
 令司は肥後守をPM鍵に展開し、料金所へ向けて解除を念じた。
 敵を撒きながら、なんとか料金所を突破する。
「あーッ素敵ィー、よくやったわ!」
 吾妻が官能的に叫んで、バイクは本線へと合流! 永田町から、バイクで逃走しながら首都高速4号新宿線で、新宿へ。6.7キロ、およそ十七分――。
 白バイ隊員が横付けして蹴ってきた。右手に持った警棒が伸びて刀に変化してゆく。
「ヤバイ、あれはPM刀! 先生、気を付けてくださいッ!」
 なりふり構わずか!
 吾妻はエルボーで相手を倒し、一つを奪うと両手を離して、追撃する白バイ隊と猛烈なチャンバラを開始した。
「そうか、このレンタルバイクも自動運転式なんですね!」
「そうよッ」
 吾妻が峰撃ちで小手を叩き、相手は「ギャッ!!」とのけぞった。よろけながら戦線を離脱した。自動運転機能で倒れることはないが、あっという間に引き離した! 我妻は「フフッ」と笑った。
 次の白バイに、吾妻は少林寺拳法の腕極めで、相手の手の関節を極めた。
「向こうだって法スレスレのことをしている自覚があるんだから、この瞬間限りよ。きっと不問になるわ!!」
 すごい理屈……。
 これが東京で起こっている現実だとは、令司はまだ受け入れがたかった。
 百数十キロの速度で展開される戦い。
 数十台の白バイに追われつつ、高速道路を駆け抜ける。
 前方に渋滞の車が見えてきたが、吾妻のPM刀でバーッと開いた。
「先生……これは」
 モーゼの紅海だ。マイッチング!
 パトカーの隙間から、また白バイが近づいてきた。乗っているのは上下真っ黒なライダースーツの女。
 横づけされ、掴みかかられ、キックで襲い掛かってくる。
 吾妻の車体が大きく揺れるも、教授は顔色一つ変えずに運転を続けている。すさまじいキックの衝撃が後部座席の令司の身体にも響く。
 格闘でヘルメットのバイザーが上がり、一瞬中身が見えた。銭形花音だ! どおりでキックのリーチが長い。こちらの動向をリモート・ビューイングで察し、東大から追ってきたのだろう。
 吾妻といえど花音の破壊力には勝てず、逃げる算段の一手だ。花音のバイクの加速力は凄く、あっという間に追いついてきた。
 すると我妻は瞬間ブレーキを踏み、カウンターで右腕の逆ラリアットが決まった。花音がバイクから転げ落ちるのを確認すると、急発進した。
 バイクだけが無人で追ってくる。その後ろを花音が全力疾走してバイクに追いつき、飛び乗って追ってきた。
「そんなバカな!!」
 アクロバットすぎる。だが、教授はその強化兵相手に互角に戦っている。ひょっとたら教授も強化兵なのかもしれない。
 だがこれ以上は限界があった。花音の手が、令司が袈裟がけしているバッグに伸びた。あっという間に原稿の入ったバッグを取ると、花音は道路わきに停車し、令司たちを見送って追跡を中止した。他の白バイやパトカーも同様に。
「クソッ、なんてことだ!」
 バイクはそのまま西新宿JCT料金所へ。今度は何もしないうちに問題なく通過して、首都高を降りた。
 都庁まで二百メートル。

 二人はバイクから降りた。
「後ろは?」
「追ってきません」
「どーせ監視されてるわ」
 吾妻は高層ビルを見渡して呟いた。
「なぜ追ってこないんだ」
「縦割り行政だからよ」
 吾妻は冷静沈着に答えた。教授は、新宿まで来れば追ってこれない明確な理由を知っているようだ。
「それが、帝都」
「スミません……せっかく先生が命懸けで手に入れた原稿が」
「いいのよ。これで敵もあきらめたでしょ」
 真知子は平然と言った。
 この日、ガンドッグは情報流出を阻止しようとしていただけらしい。助かっ――でもないか。がっかりだ。
「私が覚えている。続きは私が話してあげるから。カメラに納めて。講義してあげる」

帝都新宿にて

 新宿。
 城西地区。
 上級都民のディストピア。
 日本有数の超高層ビルが三十棟以上立ち並ぶ、
 甲州街道に沿って誕生した丘の上の街。

 二人は新宿エンパイアタワーの目の前に立っていた。
「先日目撃された空の異変ですが――」
「このビル、何か関係あるの?」
「はい。東京スミドラシル天空楼、東京タワー、新宿エンパイアタワーと三か所を結んで、東京にレーザー光線で巨大なデルタを書いて、海老川雅弓が東京上空に映像を描いたんだと思います」
「ホログラム?」
「はい。すでに米軍にはその技術があるそうです。影の政府によるブルーレーザー計画と呼ばれている。都市伝説だけど、本当のことじゃないかと思う」
「あの時、私も起きて観ていた。とてもきれいだった。自然現象ではあり得ない。何の意図があって、東京上空に天体ショーを演出したのか分からないけど、彼らがこの東京でまた何かたくらんでいることは間違いないわね」
 吾妻は腕を組んでいる。
「松下村塾大学の鬼兵隊・久世リカ子団長は、スミドラシルで下町住人を洗脳していると言っている。それを、おそらく海老川たちが仕切っているんです」

「これから語ることは、聞くにはそれなりの覚悟が必要よ」
 荒木影子部長の原稿。そこに書かれていたこと―――吾妻は令司に語った。
 新宿の街を回りながら、二人はブラックタワー・ホテルの前まで来た。漆黒の摩天楼。令司はカフカの「審判」を想起した。
「通称『東京城』。これが東京帝国よ」
 下部は完全会員制ホテルで、その上階は上級都民の超高級マンションになっているという噂だ。すべてがスイートルーム仕様。普通、逆じゃないかと思うんだが。教授によると、そこに最近、海老川雅弓が出入りしているらしい。
 アニメ「耀―AKARU―」が予言した暗黒のディストピア・ネオ東京。そこに大東京帝国が樹立される。
「この辺一帯が、東京を支配する帝国人たちの帝都であり、城なのよ。千代田区、丸の内・霞ヶ関・皇居が表向きの権力の中枢なら、裏の権力中枢は、都庁を構える西新宿副都心。むろん、都庁も東京帝国の一部。それを支えるお金は、特別会計という彼らの打ち出の小槌から幾らでも沸いてくる」
 里実が言ってた、山手線の太極図の陰陽に位置する、東京の二つの中心点だ。それが、光と闇の二重帝国。
「山の手と下町の身分の差は、江戸時代に遡る。丘の上には大名屋敷や寺社が立ち並び、低地には農家と町人が住んでいた。その区画は明治維新後も使用され、高台の大きな区画は大学や官公庁、総合病院、タワーが建ったの。低地は区画が小さいために、開発が進まず、未だにごちゃごちゃしたままだったのよ」
 吾妻の声は、水のように澄んでいた。
 西新宿の要塞都市の噂。なぜ新宿に市谷駐屯地があるのだろうか。
「市ヶ谷の防衛省は、自衛隊が帝都の近衛兵であるという証拠。ガンドッグの管轄外。新宿は自衛隊の領域だから。さっき言った、縦割りの弊害ってやつ」
「それで僕たちはここを歩けると」
「そう。軍は今のところは何もしてこない。きっと、この高いビル群のあちらこちらの窓からスナイパーが私たちを狙ってるかもね。だから追手は不要になった。何かしでかせば、いつでも殺せるんでしょうけど。ま、いつか出くわすこともあるかもね」
 令司は不思議だった。自分が、憧れの存在でしかなかった教授と一緒に、新宿の街を歩いていることに――。
「原稿の核心は、こういう事よ。あの戦争には、その背景に重大な疑問があるのよ。話は昭和十一年の226事件に遡る。首謀者たちは処刑されたけど、あの事件以後、日本政府は軍部の発言を抑える事ができなくなった。文民統制は崩れ、政治家達は、軍の暴力を恐れて誰も逆らえなくなっていった」
「そうですね」
「事件の首謀者は、北一輝の革命書に影響を受けたといわれている。その北一輝も処刑されたけれど、ここに大きな謎がある。彼の著書は『日本改造法案大綱』というわね。しかし北一輝の革命書の内容は、戦後GHQによって達成されたのよ。なぜかね」
「――え? 一体どういう事ですか」
「言論の自由、基本的人権尊重、華族制廃止(貴族院も廃止)、国民の天皇への移行、農地改革、普通選挙、累進課税による私有財産への一定の制限、財閥解体、皇室財産削減などよ」
 言われてみれば、その通りだ。
「北の思想は国家社会主義、いわゆるファシズムと酷似していた。けど、ヒトラーのナチスよりも数十年早かったの」
 226事件を起こした彼らは「昭和維新」を掲げ、天皇をバックとする国民の革命軍がクーデターを起こし、三年間憲法を停止して両院を解散して戒厳令を敷く。男子普通選挙を実施して、国家改造を行うためだった。
 経済改革では私有財産に制限を設け、資本主義と社会主義の両面を兼ね備えた経済体制へと移行する。
 それは今日の華族たち、東京帝国の社会とは大きく異なる。
 だが北を初め、彼ら事件で処罰された者達は、単なるトカゲの尻尾きりに過ぎなかったのだ。
「226を操った黒幕たち、陸軍参謀本部を始めとする陸軍の勢力は、さらなる国家改造のため、日本を戦争へとなだれ込ませた。世界大戦を引き起こし、かつ、壮大に負けて日本を徹底的に破壊してから、自分達の理想郷を再建するために」
「まさか」
「つまり北一輝の理想は、廃仏毀釈をした連中に利用された」
「北自身の意図を離れて?」
「えぇ――」
 そもそも「東京都」が成立したのは、大戦の真っ只中の昭和十六年だった。
 東京は軍都として出発し、東京帝国による軍事クーデターが着々と進んでいった。大政翼賛会、大本営と、現在の東京帝国の体制が築かれていったのだ。
 太平洋での大惨敗も、国民に対して大本営発表で嘘が垂れ流された。彼らは分かっていて、情報操作をしていたのである。
「戦後もマスコミや都知事が大本営発表をしています。貧富の差が開いているのに、格差は是正されていることになっている」
「そうね、それ、十連歌デモが騒いでいるわね」
「――はい」
「影の政府は、大日本帝国が滅んだ戦後の焼け跡から始まった。そこには中野学校を中心とする陸軍参謀本部とCIAの、戦前からの日米の影の同盟があった。その時、大日本帝国の後継としての東京帝国誕生の密約が結ばれた」
 彼らの情報工作によって、両国は戦争へとなだれ込んでいった。思想統制、戦争反対派に対する執拗な弾圧、かつ戦後になるとGHQとの裏取引で、A級戦犯や財閥解体を逃れ、戦前は軍部、戦後は官僚を操った。そうして戦争に反対した者たちを歴史から抹殺していった。
「日本改造法案大綱」の骨子は、意外にも大日本帝国の敗戦後、占領軍GHQのマッカーサーによって、民主主義とともに実施されていった。
「もちろん偶然ではないわ。マッカーサーを操っていた者たちと日本の闇の権力者は裏でつながっていたのだから」
「マッカーサーは気づいていなかったんですか?」
「でも途中から気づいたみたい。戦後の焼け跡日本で、GHQ内部で、影の政府・『世界主義者』たちと、アメリカの『愛国者』が主導権争いをした。その狭間で、戦後の未解決事件が続発した。結局、大戦の英雄だった彼は失脚したわ」
 下山事件や三鷹事件など、荒木部長が追った事件の数々。
「戦争は、日本が最初から負けるシナリオだった。情報工作によって、日米の軍は将棋の駒のように操られていた。影の勢力は、アメリカの影の勢力と密約を結び、敗戦後に、自分たちの世界(東京帝国)の建国を約束させたのよ」
「納得がいきません。そんな事のために、多くの人が亡くなったんですか……」
 東京伝説研究会部長、荒木影子の原稿の内容は、にわかに信じがたい衝撃だった。三輪彌千香の話に通じている。
「新宿は、陰の権力の中心となるべく終戦直後から決まっていて、高度経済成長期に帝都の建設として摩天楼が建てられ始めた。最初の東京オリンピックの頃。そして現在は、戦後・高度経済成長に続く二十一世紀の第三の東京大改造期。そこで、一体何が行われているのか。それが帝都の完成なのよ。裏の権力と表の権力が一つになる。そして表に出てくる。都庁も建つこのエリアに、いよいよ東京城ホテルが完成した。ここが影の支配者の城として」
 その頃からこの国には上級都民がいるという東京伝説が、ネットを中心に出始めていた。
 令司たちが追ってきた上級都民、東京華族伝説の行き着く先に、新宿がゴールとしてあった。東京には「幻想皇帝」が君臨していて、政・官・財およびマスコミを操っている。
「これは陰謀なんかではない。真の謀略よ」
「ブラックタワーか……」
 鷹城は、三輪彌千香から聞いた廃仏毀釈のことを思い出した。
 国家神道樹立の際の廃仏毀釈……226事件……そして大戦。破壊を繰り返すごとに、彼らは何かを手に入れている。全てが一本の線に通じる。
「あれが彼らの魔城なのよ」
 現代の歴史に、明治政府の腐敗と戦った者たちや、廃仏毀釈と戦った者たち、無謀な戦争に反対した者たちが語られることはほとんどない。
「三輪彌千香が、東京に第三の原爆が落されたって言ってました」
「パンプキン爆弾のことではなくて?」
「いや……彼女の口ぶりではどうもそうじゃないらしいです。それは爆発することがなかった。何か、巨大な陰謀の一貫だった気がします」
「日本を支配する東京帝国は、戦後、ついに理想の国家社会主義を達成させた。表向きは、体制側・自由主義圏として振舞いながら、ソ連共産主義と戦う格好を演じながら。東京帝国などと自称し、帝王もいるけど名誉職のカッコウだけ。実体は、東京華族の閨閥が集まった群体なの」
「一九六〇年代の安保反対闘争のデモが、官製デモだったって、キョウコも言っていた」
 当時の内閣は、在日米軍が常駐する安保を、期間限定にしようとしていた。けどアメリカの影の支配者と同盟している東京帝国にとっては不都合だった。安保は成立したけど、独立派の内閣はアメリカにとって危険だった。だからデモに資金を流して内閣を潰させた、という話だ。歴史の評価とは真逆である。
「どうして東京帝国のような連中が、――いると仮定して、のさばらせてしまったんですか、この国は」
 新宿ビル街を散策しながら、二人は話している。自分たちの前に出現した、東京という巨大なマトリクス。
「第二次大戦後、欧米でナチスがなぜ誕生したのか盛んに議論されたわ」
「ハンナ・アーレントが代表ですね」
「そう。彼女は『悪の陳腐さ』、『悪の凡庸さ』という言葉で、ナチスに協力した人々を定義した。ユダヤ人虐殺の罪に問われたアドルフ・アイヒマンは怪物ではなく、ただ思慮の欠如した凡庸な官僚だったって――」
「はい」
「アーレントは、思考停止した多くの人々の無責任さが、巨大な悪をのさばらせたと告発したのよね。これはナチスの場合だけど、一方で日本では、226事件を国家社会主義者が引き起こし、以後軍部の暴力が政治を蝕んでいった。それが戦争の泥沼に日本を引きずりこんでいった」
 あの時、戦争反対意見は少数だった。
「同時代にそれがあっても気づかないフリをする。戦前の批判をする人は今もたくさんいるわ。ところが戦後も、亡霊が形を変えてうごめいている。二〇二五年の東京にね。この社会全体に洗脳され、人は気づかないか、気づかないフリをする。だけど私はファシズムを許さない。――君を応援する。負けないでね」
 ウィンクバキュン。絶大な破壊力。
「でも、原稿も無くなってしまって……俺はどうしたら――」
「分からなくなったら過去を振り替えること。そこに答えがあるから。覚えておいて。ケースの問題解決がそこにある。何でもそう。ヘーゲルの弁証法的問題解決よ。螺旋的弁証法で、新たな装いで復活してくる。たとえば、現代美術も最先端ではなくて、過去繰り返されてきた退廃芸術の一種でしかない。いつの時代にも歴史に残る至高の芸術と、退廃の芸術があったけど、退廃芸術は残らなかった。それがらせんのようにグルグル繰り返されてきただけで、何も新しくはない」

 一日の乗降人数世界一の新宿駅は、いつ来ても殺人的な人ごみだ。しかし喧騒はなく、人の流れは自制的で、不思議と静寂と秩序に包まれる。
「この新宿のどこかに、金座への地下鉄駅があるはずなんだけどなー」
 二人で新宿地下鉄入り口を探す。
「大江戸線の光が丘駅は、自衛隊が有事の際に使用する駅として知られている。光が丘駅の近くには練馬駐屯地があり、陸上自衛隊は光が丘駅から地下鉄内を伝って都内各地へ移動するからよ。大江戸線は東京都庁とつながってて、なおかつ、牛込柳町駅から防衛省にもアクセスできる。けどおそらく、探れば捕まる。帝都の近衛兵に。――もう鬼ごっこはこりごりでしょ?」
「はい」
「さ、あたしの講義はこれでおしまい。実はね、私秘密書庫にアクセスしたことが大学にばれて、処分待ち。ま、事実上クビみたいなものかなー」
「まさか、それで……大学辞めるんですか?」
「うんまぁね。日子太郎教授が、私を援けようとして、海老川さんを敵に回してしまって、人狼ゲームに招待された。その後、行方不明になった」
「……」
「もうここにはいられない。迷惑かけちゃったから。大丈夫、就活頑張るから。どっかの大学でまた一からやり直すわよ。雇ってもらえたとしても非正規でしょうけどね。下級へ転落は確実ね。もう、マイッチングよ! 研究費は減らされる一方。この国では研究費をどうやって取るのかでみんなが汲々としている。日本の研究者たちは年々非正規ばかりになって、正規雇用が減っている。国は研究の質低下なんておかまいなしね」
 地方にある無名の私大へ都落ち。――雇ってもらえれば、の話だが……あらゆるところへ手を回されている可能性だってある。
 明るい笑顔だが、令司に痛烈なショックを与えた。

 スバルビルにある、巨大な「新宿の目」のオブジェ。これが東京マトリクスの監視の目、の象徴かもしれない。
「またネ……どっかで会いましょう」
 「目」の前で、真知子先生は言った。
「これ上げる」
 コインロッカーのカギを渡された。PMではなさそうな、何の変哲もない鍵だ。
 真知子は人込みをじっと凝視した。
「先生……あなたは……」
「今日はここまで。さよなら」
 令司は鍵をながめて、見上げると、吾妻真知子は消えて居なくなっていた。
 それっきり吾妻教授は人ごみに消えた。追いかけても、教授は何処にもいなかった。別れの挨拶にも聞こえる言葉。胸騒ぎがする。もう二度と会えない気がした。
 まさか、捕まったのか。いや、逃げたのか。だとしたら自分も身が危ない。令司は急いでその場を離れた。
 無事でいてくれ! 先生。

 新宿駅のロッカーを開けると、一瞬原稿かと期待したがそうではなかった。強炭酸製造機・ソーダストリームが入っていた。
「おかしいぞ……」
 銀色のスチール缶を持ちながら、令司はじっと考える。これだけのために、教授は新宿へ来たのか。
 渋谷鹿鳴館で東山京子は大斗会に勝利し、荒木部長の原稿は我妻先生を通して令司のもとへと来たはずだ。ひどい一夜だったが、途中までは順調だった。それなのに花音に奪われた。どこかに間違いがある……いや、見落としがあるはずだ。
 いずれ取り返してやる。――絶対に!
 教授は、首都高で銭形花音と互角に渡り合っただけでも物凄い。吾妻教授は強化兵であり、PM使いに違いない。だから歳を取らないんだ! いや、歳を取った先生も十分素敵に決まっているが、先生にあこがれている里実さんに今度教えてあげよう。今度――……。里実さん……もう会えない。もう誰にも会えない。誰一人……会うことはできない。
 東大からグラマーな先生がいなくなったら、美魔女好みの落胆する男子学生がたくさんいるだろう。
 いや……そういう事じゃない。令司の気持ちはひどく落ち込んだ。
 教授には、もう二度と会えない予感がする。まるで、ずっと失っていた大切な何かにようやく出会えたのに、またすぐ手から滑り落ちていったような感覚。
 悔しさと悲しさと、半身を失ったかのような寂寥感――。
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