第7話 乙夜 渋谷鹿鳴館

文字数 5,865文字

二〇二五年六月十三日 金曜日 苺月(ストロベリームーン)

 十三日の金曜日の夜。
 二日前に満月になり、まだ月は丸い。
 メールをもらって四日後に、令司は指定された渋谷の住所へ車を走らせた。定額制の半自家用車である。
 二〇二一年からの5G対応車は、二〇二五年には量産され、令司の車も標準的な自動運転車だ。ルートを設定すれば、あとは自動運転で目的地まで運んでくれる。
 アラートが鳴った。
 ガソリンが減っている。あとでスタンドへ寄らないといけないと考え、手持ちの金に考えを巡らした。仕送りは毎月十二万円で、物流倉庫のバイトをしたのが二ヶ月前だった。早くも軍資金が底をつきかけていた。これから、取材でガソリン代だけでなくいろいろな費用が掛かるだろう。あの夜の事件についていろいろ考えを巡らせたかったが、京子の家へ向かう途中、金策のことで頭がいっぱいになった。

 松濤(しょうとう)。
 駒場キャンパスのごく近所だが、まったく空気感が異なる都内有数の高級住宅街だ。かつてこの地にあった「松濤園」という茶園が地名の由来である。美術館や能楽堂も存在する文化的な土地でもある。令司たち東大生の中でも「平民」あるいはそれ以下の学生にとっては、いつも渋谷駅前へと抜けるためのルートであっても、ほぼ自分の人生と無関係なエリアとして認識している。
 目的の住所はその中でも、ひときわ立派な家屋が立ち並ぶエリアで、ひときわ目立つ巨大な「渋谷鹿鳴館」。それが、東山京子の住む豪邸の名だった。
 周囲を高い木が取り囲んだ、三階建ての洋風建築を令司は見上げた。赤レンガのタイルに、ツタの絡んだ外壁が建築当時から長い年月を物語っていた。瀟洒な街灯が門の左右に建っている。
 キャンパスの近くとはいえ、こんな立派な洋館風の豪邸の存在を、今まで知る由もなかった。余程の金持ちの家だろう。嫌が上にも「上級都民」の東京伝説を思い出す。彼女も上級都民らしい。
 ベルを鳴らして十数秒後、門の自動シャッターが開き、巨大な曇りガラスのドアが開いて、あの夜の少女が出てきた。
「いらっしゃいませ」
 白いワンピースに、下は黒いパンストを履いた京子は明るい表情で、令司を出迎えた。
 きれいにそろった前髪、大きな釣り目、整った鼻筋、情熱的な厚めの唇、蝋人形のようなきめ細かな肌。
 勾玉のペンダントヘッドがキラッと光った。文字通り深窓の令嬢である。家に入っても家人の出迎えはなく、また驚かされた。
 頭から血を流していた京子は「自分には超能力がある」などといって、ガンとして病院へ行く事を拒否したが、こうして見ると本当に何ともなさそうだ。
 玄関は巨大な吹き抜けのホールに直結していて、上階への階段や、各部屋への入り口が見えている。
 脇に、巨大なピタゴラ装置のような金属製の機械が置かれていた。ピンボールに似ているが、仕組みが複雑で、細かい装飾が施されている。
 金持ちの道楽で、これだけ巨大なものを置けるスペースがあるだけでも、令司のような一般家庭で育った人間にはおよそ考えられない。
 広い屋敷の中は、ほぼ間接照明で、黄色い光がぼんやりと高級家具の置かれた各部屋を照らしている。
 ホールの階段を上がって最初に入った部屋は巨大な書斎で、四方の壁を覆う書棚には、本の合間合間に大きめの貝殻が並んでいる。
 オウムガイ、テングガイ、シャコガイ、ホラ貝、ヤコウ貝、クモガイ……。
 虹色を放ち、宝石化したアンモナイトの化石や、Tレックスの牙、三葉虫。さらにラピスラズリやルチルクォーツ原石などの輝石。
 家人のコレクションだろう。女子高生の趣味にしては渋すぎだ。けどもしも京子の所有物だといわれても、納得できるような気がする。
「貝の渦には、宇宙の真理の込められているの……小は量子からDNA、植物の生長、そして大は潮流、台風、銀河まで。宇宙は渦の運動から生まれている」
 京子は三十センチ、重さ三キロのトウカムリガイを手に取って令司に見せた。
 しゃべり方はかわいく、外見は依然としてミステリアスだった。
 あの夜以来再会した京子は、前と大分雰囲気が違っている。どっからどう見ても交通事故に遭った気配がないほど、ピンピンしていた。
(すごいナ、金持ちって……生活に必要のないものにこれだけお金をかけられるんだな)
 令司は気後れしつつ、感心しつつ書斎を後にした。
 廊下のデッドスペースに、高級ブランデーのボトルがずらっと並んでいた。
 一体、幾つ部屋があるのだろうか。
「今、お飲み物を用意しますね」
 京子は令司を二階の自室へといざない、はしゃいでいた。妙に嬉しそうだった。部屋には、半月型のコーヒー・メーカーがあって、京子は用意してあったウェッジウッドのカップに注いだ。
「あの後、一体どうなったんだ?」
「あっ、はい。あたし、ずいぶん取り乱しちゃって、本当にご迷惑をおかけしました」
 それだけを簡潔に言い、笑った。
「追ってた男たちは?」
 京子は元気そうだったが、令司は気になったことを聞いた。
「確か、命を狙われているって言ったよね」
 途端に京子の口が重くなった。
「なぜ自分が狙われるのかもいまだに分からないんです」
「いつから?」
「はっきりしないんですが、たぶん半年前からだと思います。両親には早く帰宅するようにって言われていて、ずっとそうしてたんですが」
「東大医学部とは何か関係あるの? 特捜検事の後ろに立ってたけど」
「よく覚えてません。あの後、すぐ自宅に帰されました」
「君は、大学病院の中にも警察にも、追手がいるって言わなかったっけ」
「――え、私、そんな変なコト、言いましたっけ」
「うん」
「覚えてません。とにかくずっと逃げなくちゃって、思ってて」
「……」
「ひょっとして、頭が混乱してて、変なこと口走っちゃってたのかも」
「そうなの? ま、それなら別にいいけど」
「相手が何者なのか分からないんですよ。わたし、前に両親から聞いちゃいけないことを聞いたことがあるんです」
「それは?」
「この社会の秘密――-に関わるコトです。すごくスケールが大きすぎて頭おかしい人だと思われるんで、すぐには言えません。ひょっとすると、それに関することで私も脅迫されて、狙われたんじゃないかって」
 どんな秘密なのだろうか。しかし京子は口ごもっている。
 令司は、キョウコ伝説がそれと何か関係があるのではないかという直観を持った。
「申し訳ありません、自分で説明するって言っときながら、とりとめのない説明になってしまって!」
 京子は慌てた表情で、びっくりしたように大きな釣り目を開いた。
「いや……いいんだよ。あんなことがあった後なんだから。僕のことは気にしなくていい」
「そうなんですか、ありがとうございます」
「一人……なのか? ご両親は」
「そのことなんですが」
 蝋人形のように青白い顔が令司を覗き込んでいる。
 直接の返事はないものの、チラ見してくる少女の顔には、この館に一人で住んでいると書いてある。
「週一回か二回、私のために家庭教師に来ていただけませんか?」
 受験生の京子は、鷹城が東大生だと知って、あの夜から家庭教師を依頼すると決めていたらしい。たまたまとはいえ、東大生と縁ができたことを喜んでいたのだ。
「そんな、全然凄くないよ。一浪で東大に入ったし」
「一浪? ひょっとして令司さんは人狼さんですか?」
「はいそうだとも」
「フフフ、予備校は何処?」
 京子は笑うと、えくぼがかわいい。
「いや、ほぼ独学で――-」
「へぇ―」
 京子はさっとつややかな髪をかき上げた。
 令司の家庭の経済力では、自宅で自習する他になかっただけである。スマホの無料受験アプリやU-TUBE関連動画をあさり、放課後、図書館に入り浸って閉館時間まで勉強した後、帰宅して夕食後寝るまで勉強した。
 今も図書館に入り浸って、高一以来受験で中断していた小説を書いているけど。
 自分の事を信頼してくれているのだろうが、今日呼ばれたのも、令司を家に入れることで安心したいからなのだろう。
 自宅であっても、このような豪邸でたった一人で住んでいるせいか、京子は不安を口にした。あんな事件があった直後だ。無理もないだろう。
 東大生の家庭教師は、時給三千円が相場だ。ところが、京子は四千円も支払うという。しかも週払いで。
 研究会に入った今、これからの取材費のことを考えると正直魅力だった。今後、冊子印刷代などいろいろな経費が予想される。当然、バイトしながら取材するのはかなりのハードワークになるだろう。
 とはいえ、それも二年の今の時期だからこそ可能な芸当だ。必修科目はほとんど一年のうちに習得し、吾妻教授の授業も必須ではない。正直、現在、週二-三回しか大学へは行ってない。だから小説を書いていたのだ。
 京子は通いの家政婦さんが来る以外は、いつも一人らしい。その家政婦は今厨房に居るらしいが、姿を見せない。家は裕福だが、複雑な家庭事情が垣間見れた。
 聞くと、両親とも出張中で不在だという。身に危険が迫る娘をこんな豪邸に一人で住まわせておくなんて、どうかしてると令司は思う。だが生活は裕福で、時給四千円も、彼女とその両親にとってはなんら経済的負担にはならないだろう。
「こうして一人でいることが多いんで、今も危機を感じているんです。塾の時間だけでも結構なので、しばらく一緒にいてくれますか……」
 京子は小首をかしげた。すごく整った、日本人形みたいだ。
「令司さんと一緒にいると、なぜだか私、安心するんです」
 令司は快諾した。
 学力を図るために模擬授業を行った。彼女は頭が良く、令司が特に教える必要性を感じないくらいだった。

 一時間後、休憩にするといって京子はダイニングキッチンへ令司に行くようにと指示した。三階建ての渋谷鹿鳴館は、部屋は三十室ある。迷路のような邸宅内で、令司は迷いながらようやく到着した。
 真っ白なテーブルクロスに蝋燭が立てられ、フレンチのフルコースが用意されている。
 サーモン・ロールの前菜、ヴィシソワーズ(冷製スープ)、魚料理は舌平目のムニエル、カモ肉のサラダ、桃のソルベ、リブロース・ステーキ、パン、生野菜、洋ナシのコンポート。
 食事の前に、両手を結んで長いまつげが閉じられた。祈っているのだ。
京子の通う女子高はカトリック系らしい。
 テレビや映画でしか観たことがない金持ちの家の晩餐。京子は小さい頃から、これが普通の食事だと言った。
「へぇ~すごいな」
 「普通」とは一体なんだろう? いつもスーパーの閉店間際の半額弁当や、カップラーメン、それにカロリーメイトが主食の貧乏学生の令司には、目の前の「光景」が日常の食卓とは、到底信じられない。
「ちゃんと栄養あるものを食べないと。人間は糖質・脂質・タンパク質・ビタミン・ミネラルに、食物繊維も摂らないと身体が偏るんですよ?」
 そういってクスクス笑った。
 夕食に家人の姿はなく、やっぱり京子は一人で住んでいる様子がうかがえた。
「いっそ東大を目指してみたら?」
「えっ、でも……」
「たとえ何分の一の確率でも、受けようと志さなければ、受かるわけもない。宝くじは買わなきゃ当らないよ。たとえまぐれでも受かれば勝ちなんだ」
「自分の学力では東大なんて……と思いますけど」
「いや、俺も受かると思ってなかったよ。俺が受かったくらいだから。ま、一浪だし俺流でうまくいくかどうかわからないけど、せっかく時給も四千円払ってもらうんだし、こっちも何か見返りを提供したい」
「私の親族には、東大が多いんです。だから、私も東大の病院に入れられたんです」
「なら、周りにできるなら君にもきっとできる」
「じゃあ、信じます。令司さんと会っていい人だったし、せっかく東大生の人と縁ができたので、チャレンジしてみよっかな」
 京子は頬を染めた。
「よし、全面協力する。応援するよ」
「ところで……うちの大学で」
 食事をしながら、令司はキョウコ伝説の事を話してみた。
「今、ちょっとそのレポートを書かなくちゃいけなくって、これ知ってる?」
「へぇ……東大で?」
「あ~うん」
「知ってますよ」
 キョウコ伝説は京子の学校でも有名で、京子は外見容姿が一致するので、自分じゃないかといつもからかわれるそうだ。
 もちろんそれは冗談で、学校ではキョウコは一種のお化けのようなものとして恐れられているらしい。
 キョウコは、決して死なない化け物である。友人達の両親で、二十年前それを目撃した人が居るという話を聞いて、令司はメモを記しながら驚いた。
 二十年毎に東京のあちこちで目撃されるキョウコは、年を取ることなく、連続殺人を繰り返している。
 最初に目撃された時から数十年間、全く外見容姿が変わっていないのだ。それが自分と酷似した外見で、同じ名を持った連続殺人鬼の伝説に、彼女自身、高い関心を示していた。
「ほかに……何か学校で話題になってる伝説ってある?」
 京子は、他に学校で噂になっている伝説を教えてくれた。
「う~ん、学校じゃなくてもいいですか? 『ルパン三世』の五エ門が持ってる斬鉄剣ってありますよね? あれ、実在するんだって」
 京子は楽しげに笑った。
「まさか。本当に?」
「いや、それが、鉄菱重工が社長命令で開発したんですって」
「斬鉄剣を作れって?」
「そう。アニメだから無理なはずなんだけど、わざわざ開発部門まで作って、遂に開発したらしいの」
「どこで聞いたの?」
「お父さんが言ってました」
「にわかには信じがたいな――まるで、超合金だ。俺も、高校時代に居合やってたんだけど」
「居合って、真剣ですか?」
「――うん。居合刀だけど。夢想新陰流という」
「へぇ――カッコイイ」
 さておき感心するのは令司の方だった。
 庶民感覚とかけ離れつつも、ある意味自分達と共通している部分もある。しかしそう思っていると、途端に自分との隔たりを感じる。
 これが、上級都民というやつか……。
 しかも目の前の少女は「東京」を名に持つ女、東山京子だ。
 彼女に出会って、令司は東京伝説を追いかけ始めた。これは……偶然ではないのかもしれない。
 ついに伝説のドアを開けた鷹城令司。
 東山京子との出会いは、伝説が現実となって次々令司に襲い掛かり、次第に渦中に巻き込まれていく予兆であるような気がする。
「私も、東京伝説に興味があります」
 特に、「キョウコ伝説」のことを京子は――。
 令司は、家庭教師として週二度、渋谷鹿鳴館に訪問しながら、京子と東京伝説について情報交換することにした。
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