第2話 都会の雨

文字数 3,963文字



二〇二五年六月一日 日曜日

 激しい雨の夜、東都帝国大学駒場キャンパスから帰宅途中の鷹城令司の車のヘッドライトが、倒れた若い女性を照らした。
 ギャギャギャギャ――――ッ。
 少女の身体の直前で、濡れた路面を滑る、不快なブレーキ音が響き、対向車線のヘッドライトが掠めていった。
 土砂降りの雨が降る深夜十一時だった。令司は大学の図書館で閉館の十時三十分まで執筆をしていた。日曜なので授業には出ていない。
 令司の古い型の銀色の日産レンタカーのラジオは、ロックバンド・十連歌の曲を流していた。歌詞の中で、巧妙に時世を批判している。久しく聴いてなかった。
 寸でのところで車を急停車させた令司は、車を降りた。
 路上に、ノースリーブの黒いワンピースの少女がうつぶせで倒れこんでいた。―――ひき逃げだ。自分の車には、ぶつかっていない。彼女は、最初から車道に転がっていたのだ。
 仰向けにすると、意識が朦朧としているようだが、かすかな反応があった。頭から血が出ている。出血は多量ではなかった。打ち所によっては命に関わるだろう。
 長い黒髪を持った十六~七と思しき彼女の上半身を抱き抱えると、うっすらと目を開けた。
 事故か、事件か―――このまま車道に放置すれば危険だった。
「すぐ警察を、―――いや、救急車を呼ぶから、しっかり」
 令司は声をかけた。
 このまま雨に濡れてはいけない。救急車を、一瞬そう思ったが、救急車よりも自分の車の方が早いと考え直す。
 冷静に冷静に―――、自分に何度も言い聞かせながら。
 令司は銀色の車の後部座席に乗せ、近くの病院へと直行する事にした。
「ま、待って……病院へは行かないで。お願いだから」
 カーナビで最寄の病院を調べているうち、少女が意識を取り戻した。
 弱々しい声だったが、強い意志が感じられた。細い体を自分の両腕で抱きかかえて、ガタガタと震えている。
「何があったんです?」
 運転席から振り返って、令司は訊いた。
「――追われているんです」
 少女は警察も呼ばないで欲しいと言った。酷く怯えているので、訳を聞こうかどうしようか逡巡していると、彼女は自分から話した。
「私、ずっと狙われているんです。命を狙われている。これまで、何度も、殺されそうになっています」
 警察は頼りにならず、殺そうとしている相手は警察の中にも居るのだと主張する。病院にも、追手が待ち構えていて、公共機関は全く信用できない。どこに敵が潜んでいるか分からないのだと言った。怯えている事には同情したが、にわかには信じられない話だ。
 頭の怪我と恐怖のあまり、きっと、少女はせん妄に陥っているのだろう。
 警察はともかく、彼女の言う通り、万が一何かの事件に巻き込まれているとしたら――、この闇夜のどこかに、危険な追手がひそんでいるのかもしれない。
 令司は、自分が彼女の味方であると信じてもらうことに努めた。幸い、令司のことを疑ってはいないようだ。
「でも、傷口を塞がないと。すぐ応急処置をする。学校で訓練したことがあるから、大丈夫。任せてくれ」
 令司はとっさの出まかせを言った。経験などない。
「ご、ご心配なく。私、すぐ傷なんか治っちゃうタイプなんです。でも、病院には絶対行かないで」
「そんなの無茶だ。外傷が見られなくても、骨折していたり、頭を打ってる可能性だってある……」
「……わたし、能力者なんです。初対面で、突然変なこと言うようですけど、自分の身体のことも、内臓も問題ないって分かります」
「……能力――超能力者?」
「そう。だからあなたなら安心……だって……分かるもの」
 そのまま少女は意識を失った。
 警察や病院にさえ行かなければ安心するといったので、もう一度後部座席に横たえさせると、令司は再び考えをめぐらせた。
 見れば高校生くらいだ。なんとか彼女の力になってあげたいが、何も良いアイデアは浮かばなかった。
 ザアザアと雨は強くなっていく。時ばかりが経つ。
 雨に身体を濡らしたままでは、低体温症で命を落とす危険がある。一刻も早くなんとかしないと。
 令司は、葛飾区の2DKアパートへと向かい、自宅で少女を休ませることにした。

 自宅に運び込むとき、人に見られないかと緊張したが、幸い誰ともすれ違わなかった。
 すぐに寝室へと運んで、傷の応急処置をした。体は依然、氷のように冷たかった。顔は青ざめ、唇は紫色で、酷く容態が悪かった。
 身体を乾かすうち、少女は再び意識を取り戻した。
 少女は京子と名乗った。
 さっきの話を尋ねると、「私そんな事言いましたっけ?」などと言って、ココアのコップを両手に抱えたまま、黙りこくった。それ以上詮索しても、堅く口をつぐんだ。
「雨……続くな」
「はい」
 雨音が一層激しくなる。
「図々しいのですが――ここに今夜だけ……泊めていただけませんでしょうか」
 見るともなしに寝顔を見ていると、青白かった先ほどより、彼女の血色もよくなっていた。
 信じられない。一見して傷跡もない。さっきから一時間も経っていないのに。こんなに体力の回復が早いなんて。
 高校二年生で、受験生だという。進学塾の帰りに何者かに襲われたらしい。最近身の危険を感じているので、進学塾で夜遅く迄外出する事を避けたがっていた。
「いいよ。かまわない……」
 京子は、令司が東大の学生だと知ると途端に驚いて、表情が明るくなった。令司は一浪で、十九歳の二年生だ。
「じゃあ――、今度、勉強を教えてもらおっかな」
 それだけを言って、眠りに着いた。

 ドアを激しくノックする音がした。
 帰宅してから二時間が経過していた。
 こんな夜更けに、事前の連絡もなく知人や学友が訪ねてくることはない。
 雨の中、曇りガラスに複数の男の影が映っていた。
「お休みのところ失礼します」
 開けると、レインコートを着た三人の男が立っている。
 声をかけてきたのは、ひと目で刑事または公安と分かるスーツ姿のリーゼントの男だった。冷血動物のような目つきは、やくざというべきか。
「夜分遅くすみません。東京地検特捜部機動隊・新番組検事の五百旗頭藤吉(いおきべとうきち)と申します。お嬢さんの失踪届けが出されていまして、こちらに泊まってらっしゃるという情報がありましたので、伺いました」
 ゆっくりした動作で手帳を見せて、懐にしまった。刑事ではなく、特捜検事だった。何故、俺のところに東京地検特捜部が?
 どうやってここにたどり着いたのか、令司は不審に思った。五百旗頭は監視カメラを追ってきたというが、あまりにスピード解決過ぎる。
 後ろに無表情で立っている二人の男のうち年輩の方が、言葉少なく東大医学部の研究者だと名乗った。ネームプレートには、確かに東大のDNA研究所の名称が記されている。もう一人の若い男は背が百八十以上あり、フードを目深にかぶって顔がよく見えず、ネームプレートもひっくり返って見えなかった。
 令司の頭から、疑問が一気にあふれ出してきた。
 まさか、こいつらが京子のいう追手か? 彼女を事件に巻き込んだ張本人では? 京子は警察の中にも、病院の中にも敵が潜んでいると言った。
 一気に緊張が高まった。
 廊下の後ろで京子が影から様子をうかがっている。目を覚ましたらしい。その目が訴えている。
「すみませんが、――彼女は行きたくないそうです。少しここに置かせてあげたいんです」
「鷹城――令司さん。女の子を事故から助けてくださったのは分かっています。我々はカメラを追ってきましたので」
 街カメラには人工知能が搭載されていて、「5G人相書き」と呼ばれている。信号機にも見えない形でカメラがついていると男は言った。ずっと、見られていたのだ。下町区に入るとその数が減る分、分析に手間取ったという。
 しばらくの間、押し問答が続いた。
「しかし――ですね、忠告しときますが、あなたも無理をすると未成年略取の疑いがかかりますよ」
 凄みを効かせた五百旗頭検事の目つきの悪さはヤクザ並みで、令司は恐れ入った。相手からは、今日中に少女を取り返すという強い意志が感じられた。
「――違うんでしょ?」
 ドアがバンッと開いた。雨が吹き込んできて、風と共に紙が舞い上がった。
 特捜検事はほとんど令司を押しのけるようにして、部屋の中へ土足で入った。後ろの二人の男が続いた。
 京子はさっと令司の後ろに隠れた。
「キャアアアァァァ―――、イヤ――――ッ!! やめてください」
 京子は必死で令司にすがった。
「助けて……たすけて下さいっ、お願いです。どうかっ」
 その後、また絶叫が続いた。
「どうかお願い」
 かすり声でドアにしがみつく京子を、背の高い若い男が無言で引き剥がした。京子は、無理をすれば傷口が開いてしまう。
「ヤメロ!!」
 令司はむきになって立ち向かうも、若い男に無言で押し返された。
 身体は細いが、なんてバカ力だ! 背も高いがそれだけじゃない。しかし、令司が倒れた衝撃で物が転がり、床に散乱し、大きな音が響いた。
「公務執行妨害だぞ」
 黙っている男の代わりに、五百旗頭が言った。
 再び立ち上がろうとして、令司は五百旗頭に柔道技で抑え込まれた。抵抗する力を失うと、五百旗頭は腕を離した。
「令司さん、令司さぁん!!」
 三人の男に抱えられた少女は、あまりに非力だった。抵抗する力もなく、京子は絶叫と共に連れ去られた。令司は部屋に押し入られた上、頭も体も動かず、これ以上何一つできなかった。
 目の前で閉まったドアを見つめる。特捜検事たちは令司を連れて行かなかった。本当に東京地検特捜部だったのだろうか?
 こんな出来事、誰にも言えない。
 相手が、自分が通う東大の関係者だとは――。
 自分の非力さを呪うしかない。東大の研究者を名乗っていたが、あんな連中に、大学の中でもう二度と関わりたくない。
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