第十九話 日本式双晶(五/五)

文字数 3,963文字

 彼女の表情が晴れる気配はない。それどころか、ふいに何か――違和感を覚えて、空木は国栖の葉の行動を注視した。
 彼女はゆっくりと空木の方へ近づいてくる。感情をなくしたように見えるその顔は、ともすれば怒りをあらわにしたそれよりも底知れない。
 彼女の左手には空木の書いた手紙。そして、右手に持っているのは――
 右手に持っているのは――何だろう。
 そう思った瞬間、空木の目が捉えたのは、細長い糸のようなものだった。それに気づいた空木は、思わずその糸を振り払ってしまう。
「……そう。あなた、見えるの。いつから?」
 その言葉にはっとして、空木は彼女のことを見返した。そこに浮かんでいたのは、明らかな怒りの表情。
 空木が言い訳するより先に、国栖の葉はこう続ける。 
「私のことにかまうのも、何か目的があったんでしょう?」
「それは」
 違う。空木はそう言いかけて――しかし、言い切る前に口を閉ざした。その代わりに、空木はためらいつつも、こう問いかける。
「本当に、深泥池で呪いを引き受けたりしてたんですか?」
 国栖の葉は何でもないことのように、そうね、とうなずいた。
「なぜ――」
「かわいそうだったから」
 彼女のその返答に、空木は思わず顔をしかめた。しかし、国栖の葉は淡々とこう続ける。
「深泥池の祠に依頼の手紙が残されていて。それを読んだの。それで、かわいそうだと思ったから」
「そんなことが理由ですか?」
 空木がそう問いかけると、彼女は悲しそうな表情を浮かべた。しかし、そんな感情は、すぐに彼女の顔からはかき消える。
 どこか冷めた表情になると、国栖の葉は空木にこう答えた。
「それだけが理由ではないけれど。あれがどうしてそんなことを始めたのか、私にはわからなかったから。それを引き受けていれば、向こうも何かしら対処するだろうと思って」
「あの店のことは?」
 店については、やはり何かしら思うところがあるのか、国栖の葉は空木へ探るような目を向ける。
「呪いの石のことなら、嘘は言っていない。それに、宇治の宝蔵の封が解かれていたもの。それだけで十分。あの祠は昔、音羽が怪異の屍を集めていた場所のはず。あそこに封じられていたものは、私程度の力では御せなかった。だとすれば、解き放ったのは、あの家の者しか考えられないでしょう?」
 空木には彼女の言っていることの半分もわからなかった。これ以上、何をたずねるべきなのかもわからない。口を閉ざしてしまった空木に、国栖の葉は少しだけ同情したような視線を向ける。
「だから、あなたの解きたいという呪いについては、私は知らない。それで――あなたは、はじめから私のことを疑っていた?」
 彼女の問いかけに、空木は思わず苦笑いを浮かべていた。しかし、それはもうどうしようもなくなってしまったこの状況での、虚勢のようなものだ。
「そういうわけじゃ、ないんですけどね。いろいろ知ったのは、不可抗力というか……まあ、俺の疑いをあの店に向けようとしていたことは、すぐにわかりましたけど。そういうことには、慣れてなさそうでしたし」
 それを聞いた彼女は、大きくため息をついたかと思うと、ぽつりとこう呟いた。
「これだから嫌なの。外に出るのは」
 国栖の葉は空木のことをにらみつけると、右手に持っていた何か――どうやら石のようだ――を空木の方に差し向けた。
「私のことを、助けてくれるのでしょう?」
 目の前には再び糸のようなものが現れていたが、彼女のその言葉に、空木は――それを振り払うことをためらってしまう。
 ほのかに青白く光る糸は、どうやら彼女の持つ石とつながっているようだ。国栖の葉は、その糸をたどるように、しばし視線を泳がせていたが――ふいにその目を閉じると、誰にともなくこう呟いた。
「ケイカボク……そう。そんなところにあったの。でも、これは――もう、私の手には負えない」
 その言葉とともに、奇妙な糸はふつりと切れる。
 彼女は何をしていたのだろう。手に負えない、とは――
 目の前で起きたことについて空木が問いただすより前に、彼女は無言で背を向けた。慌てて引き止めようとする空木を拒絶するように、その後ろ姿は、どこからともなく湧き出た霞によってかき消えていく。
 待ってくれ、という空木の声が辺りに虚しく響いた。視線の先には誰の姿もなく、わずかに残っていた霞もまた、風に吹かれて散っていく。彼女がいたその場所には、白く濁った石がひとつだけ残されていた。
 それを拾い上げた空木は、呆然とその場に立ち尽くす。そうして、どれくらいそうしていたかも、わからなくなった頃――
「……空木」
 ふいに、日本式双晶がそう呼んだ。
 しかし、今の空木は誰かと話をしたい気分ではなかった。それでも空木は、投げやりにこう返す。
「何だよ」
「すまない。とっさに、君の目を見えるようにしてしまった。彼女が放った呪の糸を。本来は見えないものを見せる――それが私の力だ。しかし、どうやら私は、彼女の思惑に乗せられてしまったようだ」
 お守りを受け取ってからこちら、時折見えていた奇妙なものはこの石のせいらしい。しかし、彼女との決裂はこの石のせいではないだろう。きっかけにはなったかもしれないが。
 彼女はそもそも、空木のことを信用してはいなかった。それに、空木の方でも――彼女の素性をすでに知ってしまっていたのだから。
「いいよ。もう。そのことは」
 空木がそう言うと、日本式双晶は気づかうような声音で、こう続ける。
「私たちに協力してくれる気になったら、また店に来るといい。そのときには、あらためて君に会わせよう」
 会わせる。誰にだろう。何にせよ、今はまだ、先のことを考える気にはなれない。とはいえ――
 国栖の葉の件がどうにもならなくなったとしても、空木には抱えている問題がもうひとつある。それをどうにかするためには、あの店に行かないという選択肢はないだろう。
 空木は日本式双晶にこう問いかける。
「会わせるって――あの店主にか? 槐とかいう名前の」
 しかし、それならもうすでに会っている。ただ、今となっては、空木も日本式双晶のことを――話すことのできる石の存在を知ってしまったのだから、話はまた違ってくるのかも知れないが――
 しかし、日本式双晶は空木の言葉を否定した。
「いや。そうではない。会わせるのは、君の元に私を送り込むことを画策した――とある石に、だ」

     *   *   *

「彼女のお姉さん。なかなかに厄介そうだねえ」
 そう言って、忽然と姿を現したのは石英だった。
 桜が夕食の後片づけをしているときのことだ。いつものことなので、桜はそれを無視する――つもりだったが、発言の内容が気になって、思わずこう返してしまう。
「何ですか、また。厄介そうって?」
「今回の件、僕には見えたかもしれない、と言ったじゃないか」
 見えた。何が見えたのか。彼女のお姉さん、ということは――まさか。
「もしかして、花梨さんのお姉さんの居場所がわかったんですか? それなら、早く知らせないと――」
 手にしていた皿を取り落としそうになりながらも、桜は思わず振り返った。しかし、それを伝えるべき当の本人は、アルバイト――と言っていいのか――を終えて、この日はもう帰ってしまったあとだ。
 夕食の前には、倉庫――もとい店――にある石を、桜も一緒に整理していた。あそこにあるものを売るにしても、まずは何があるかを把握しなければ――ということで始めたはずだが、槐がいるとすぐに石のことを話し出すので、これがなかなか進まない――という話は置いておいて。
 ともかく、姉の行方は花梨にとって何より気がかりなことだろう。何かわかったなら、一刻も早く知らせた方がいい。今からでも連絡を――と思ったのだが、慌てる桜に対して、石英はやれやれといった風に肩をすくめた。
「落ち着きたまえ。桜石。いいかい。この件はね、見つけてよかったはい終わり、とはならないんだよ。今後について、まずは槐と相談しなければ」
 どういうことだろう。しかし、状況が確定するまで石英が曖昧なことしか言わないのは、いつものことだ。だとすれば、見えたと言っても、まだ確かなことではないのかもしれない。
 なんてまぎらわしい――と呆れる桜をよそに、石英は難しい顔で腕を組むと、ひとり何やら考え込み始めた。
「さて、と。それはそれとして、彼女はちゃんと忠告を守るかな? 黒曜石だけでは、いかにも頼りない……」
 その言葉に、桜は思わず首をかしげた。
「花梨さんのことですか? 何を言ったか知りませんけど、深泥池の件だってみんなで協力したじゃないですか。何かあれば、また僕たちや、他の石が力になってくれますよ」
 そうでなくとも、もしも行方不明の姉が見つかったなら、花梨が無茶をする理由はない。しかし、石英はそのことについて、まだ伝えるべきではないと言う。何が何やら。
 桜の混乱がわかっているのか、いないのか、石英は意味深にこう呟いた。
「彼女には彼女の役割がある。彼女が黒曜石を選んだ、その意味が」
 珍しく真面目な顔をしているかと思えば――石英はそこでふと、何かを思い出したように、にやりと笑った。突然のことに、桜はうろんな目を向ける。
「それはそうと、近くまた客が来るよ。うまくいけば、こちらも長いつき合いになりそうだ」
「誰なんですか? その客って」
 桜がそうたずねると、石英は笑みを浮かべながらも、口元に人差し指をあてた。
「まだ秘密だよ。しかし、なかなかおもしろそうな人物だからね。今から顔を合わせるのが楽しみだ」
 いったい誰のことを言っているのだろう。今度は何が始まろうとしているのか。何せよ――
 誰だか知らないが、石英に目をつけられるなど、かわいそうな人もいたものだ――と桜は思った。
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