第十話 忍石(六/六)

文字数 2,930文字

 次の日、天気はすっきりとした晴れになった。嵐のあとだからか空気も涼やかで心地よく、澄み渡る空には雲ひとつ見えない。
 体調不良だった生徒たちは朝になると嘘みたいに元気になり、先生たちは狐につままれたような顔で出発を見送った。
 今日もまた、班別での自由行動の予定だ。協議の結果がどうだったのかは知らないが、結局のところ、みんな疲れていたのだろうということで、うやむやになったらしい。
 そうして、宿には自分ひとりが残った。なぜなら――嵐の夜に外に出たせいで、本当に風邪を引いてしまったからだ。
 とはいえ、少し寒気がするくらいで大したことはない。それでも外は出歩けないので、宿の部屋でおとなしくしているように言い渡された。
 午前中は素直に従っていたが、午後になるとさすがに暇になる。先生の目を盗んで、少しだけ宿の中を探索していた。そのとき――
「だから言ったのに。おとなしくしてろって」
 緑の美しい庭園に面したその場所で、待ち構えていたように佇んでいたのは椿だった。
 彼女は紙袋を持っていて、会うなりそれを差し出してくる。受け取ってのぞいてみると、中にはお菓子が入っていた。お見舞いだろうか。
「まあ、これも自業自得ね。好き勝手してたんだから」
 そう言われると、苦笑を浮かべるしかない。それでも、ほんの少し悔いはあった。そのことを思い出して、無意識のうちに呟く。
「どうしても行きたい場所があったんだけどな……」
 そのためにいろいろと計画していたのだが、すべてが水の泡になってしまった。そのことを残念に思う。
 しかし、椿はやはり呆れ顔だ。
「どこに行く気だったかは知らないけど、また来ればいいでしょ」
 それもそうだ、とは思う。計画したときは、なぜかこのときしかないと思い込んでしまっていた。だからこそ、無茶を通した。
 しかし、恐れていた禍は去り、平穏な時は戻ってきている。今を耐え忍べば、きっとまたいずれ次が巡ってくるだろう。
 だから、悔いを飲み込んで、うなずいた。
「そう、だね。そのときは案内してくれる?」
「嫌よ。ひとりで行って」
 素っ気ない返事に、また苦笑する。そのとき、あることを思い出して、ポケットを探った。
 取り出したのは、忍石。
「守ってくれて、ありがとう。もう大丈夫だろうし、返せなくなっても困るから――次にまた、必要になる人のためにも」
 そう言って、椿に託す。彼女は黙ってそれを受け取った。
「帰るのは、明日?」
 忍石を見ながら、椿は何気なくそう問いかける。
「うん? まあ、そうだね」
 そう答えると、椿は真っ直ぐにこちらを見据えて、こう言った。
「そう。それまでは、まあ――よい旅を」
 彼女なりの気づかいの言葉だろうか。不器用なその言葉をありがたく思いながら、素直にうなずいた。

     *   *   *

 槐はひとり、川辺の道を歩いていた。
 九月の終わりとはいえ近頃は残暑も厳しく、まとわりつく空気にはまだ夏のなごりが感じられる。それでも川面から渡る風は涼やかで、その感覚はこれから訪れる秋を予感させた。
 当てもなく散策しているわけではないが、急ぐ用でもない。そうしてのんびりと進んでいると、川とは反対の方――木立の向こうに、池のほとりに建つ御堂の姿が垣間見えてくる。その一端を捉えた瞬間、視線は思わずそちらに引き寄せられた。
「宇治の宝蔵、か。そんなものが、本当にここにあるのか?」
 どこからともなく、声が聞こえた。近くに人影はない――が、当然だろう。この声は、槐が伴っている石、碧玉のものだからだ。
「いや。どうも、こことは別の場所にあるらしい。あるいは、移されたのかもしれないけれどね。だから、蔵といっても境内にはないよ」
 槐がそう答えると、呆れたようなため息が聞こえてくる。そのため息の主は、こう続けた。
「そもそも、だ。おまえの言う宇治の宝蔵なんてものは空想の産物だ、という話をしたつもりなのだが。酒呑童子の首だの玉藻前の屍だのを収めた蔵だぞ。そんなものが、本当に存在するとでも?」
「架空の物語が事実の一端を担うこともある、ということかもしれないよ」
 槐の答えに、碧玉は押し黙る。しかし、納得したわけではないだろう。その沈黙からは、彼の不満がにじみ出ていた。
 宇治の宝蔵は、藤原頼通(ふじわらのよりみち)によって開かれた寺院――平等院にあったとされる架空の蔵のことだ。碧玉の言うとおり、退治された怪異の亡骸をこの蔵に収めたという話がいくつかあるが、それはあくまでも物語であり、実際にあったという経蔵にも、それらが収蔵されたという記録はない。
「教えてもらった場所に、それらの屍があるかどうかはわからない。もちろん、例の怪鳥も。しかし、どうにも、そういう怪異を封じる場所がこの地には確かにあったようなんだ。だからこそ、宇治の宝蔵というものが生まれたんだろう」
「どこで情報を得たかは知らんが、本当に信じられるのか? その話は」
 碧玉の言葉に、槐は苦笑する。
「まあ、とにかく行ってみようじゃないか。それで何もないなら、また調べ直せばいい」
 そんな風に槐が答えると、碧玉はまた押し黙った。無言の底にあるものは、おそらく諦めだろう。
 平等院の鳳凰堂(ほうおうどう)を横目に通り過ぎて、しばらく道なりに歩いて行った。そうして、人通りの少ないところまでたどり着くと、槐はそこに目当ての場所を見つける。
 それは祠のような、とにかく蔵としては小さな建物だった。普通の人が迷い込まないようにか、ここに来るまでの道は巧妙に隠されている。おそらく、一見しただけではそれとわからないだろう。
 それでも誰かが管理しているようだが、常に見張っているというわけでもないらしい。初めて訪れた槐でも、すんなりと来ることができた。
 祠の中はうかがい知れない。ここを訪れるに当たっては、教えてもらった相手からいくつか注意を受けている。それに従って槐が慎重に周辺を調べていると、ふいに碧玉が反応を示した。
「何かわかったかい? 碧玉」
「……荒らされているな」
 槐は辺りを見回してみた――が、何もわからない。特別な力を持つものでなければ、わからないようなことなのだろう。
 碧玉はこう続ける。
「誰の仕業か知らんが、ここに封じられていた何かが解き放たれていることは、確からしい」
 碧玉の言葉に、槐はただうなずく。
 あらためて祠に目を向けてから、槐はそれに背を向けた。これ以上、ここで確かめられることは何もないだろう。槐の目では気になるところもないし、碧玉にわかる以上のことが槐にわかるはずもなかった。
 槐は淡々と、もと来た道を戻って行く。碧玉は何も言わなかった。考え込んでいるのか。それとも――
「……何が起こっているのだろうね」
 思わず、そう呟いた。答えを期待してのことではない。案の定、碧玉は何も答えなかった。
 槐は軽くため息をつく。
「すべて、終わったものだと思っていたのだけど……」
 川辺まで戻って来ると、槐は立ち止まって目の前の景色を見渡した。川面に浮かぶ島とそれに架けられた橋。その穏やかな風景に目を向けたとき、ふいに強く風が吹く。しかし、槐は怯むことなく、そのまなざしをさらに遠くへ投げかけた。
 宇治川の、今はゆるやかなその流れの先へと。
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