番外編 スペサルティンガーネット(一/二)

文字数 3,627文字

 店に初めて足を踏み入れたときのこと。今でもはっきりと覚えている。
 路地の行き止まりにある扉を開けた途端、どこからか高く澄んだ音がしたので、思わずその場で固まった。しかし、よくよく聞いてみると――それはドアベルの音だということがわかる。
 何でもないことだったけど、初めてそこを訪れる者にとって、それはどきりとするような仕掛けだった。だって、その店には――おばけがいるかもしれないのだから。
 ひとまず危険がないことを確かめてから、うしろに隠れていた友だちに笑いかけた。
「おばけなんて、こわくないよ。おばけはねえ、うしみつどきに出るんだって。夜の遅い時間。だから、今なら大丈夫」
「そんなこと、知ってるんだ。ゆずちゃんはすごいねえ」
 友だちはそう言って、大きな目を見開いた。それから、きらきらとした目で店内をのぞき込む。
 おばけは出てこない。それがわかれば、なんてことはなかった。悠々と店の中に入って行く。とはいえ――
 偉そうにあんなことを言ってはいたが、初めて入る店の中は薄暗く、しんとしていて、誰の姿も見えなくて、それでいて何かが潜んでいるような――そんな不思議な空気があって、実はちょっぴり怖かった。でも、大丈夫だと言った手前、そう簡単に意見を変えるわけにもいかない。
 店の中にはいろいろな物があった。机や椅子は学校にあるような物とは違って、何だかごてごてしているし、並べられた絵や人形はどこかくすんでいて、誕生日に買ってもらったかわいらしいぬいぐるみの方がさわり心地もよさそうだ。
 棚には高そうな食器やグラスが並べられていて、天井から下がる照明は何だかぼんやりとしている。同じように下げられた籠には、何が入っているかわからないから、ちょっと不気味だ。
 そのときふと、きれいなテーブルランプが目に入った。色のついたガラスに、影絵のような花の絵が描かれている。
「あ。これ、テレビで見たよ。有名な人が作ったから、とっても高い物なんだって」
「そうなんだ。ゆずちゃんはすごいねえ」
 よくよく考えると何がすごいのかわからないが、友だちはたびたびそう言った。何かを作っていたりすると、特に。口癖だったのかもしれない。
 気をよくして、ずんずんと奥へ進んで行く。おばけが出たらどうしよう――なんてことは、もうほとんど考えなくなっていた。
 目にする物は、初めて見る物ばかり。いつの間にか夢中になって、あれやこれやと話をしながら見て回った。
 ふと――店の隅にある椅子に、誰かが座って本を読んでいたことに気づく。それを見た瞬間、どきりとした。近くにある大きな家具――タンスだろうか――の影にまぎれて、全然わからなかったからだ。
 そこにいたのは学校の制服を着た年上のお姉さん。おばけ――ではないだろう。しかし、にこりともしない顔で冷たい視線を向けられて、何だかとても怖かった。
 そう思うと――もしかしたら、この人はおばけなのかもしれない、と不安になってくる。どうやら、足はあるみたいだけれども……
 友だちもそう思ったのか、うしろから服の袖をつかまれた。そして、震えながらお互いに身を寄せる。
 そうして怯えているのを見て、お姉さんは軽くため息をついたようだ。そして、何だか不機嫌そうにこう言った。
「ここは君たちの遊び場ではないぞ」
 怒らせてしまったのだろうか。そのことに思わずしゅんとして、楽しかった気持ちはしぼんでいった。しかし――
「あら。いいじゃないの。探検かしら。小さな冒険家さんたち」
 そう言って奥から出てきたのは、やさしそうなおばあさんだった。
 にこにこと笑うおばあさんとは対照的に、お姉さんの方はやはり顔をしかめたまま。しかし、おばあさんはそんなことを気にとめることもなく、ぽかんとしていた小さな子どもを二人、さらに奥へと進むように促す。
「ようこそ、あかとき堂へ。さあ。お出でなさいな。おいしいクッキーがあるのよ」
 おばあちゃんはそう言って、暖かく迎え入れてくれた――



 扉の蝶番がかすかに軋んだかと思うと、高く澄んだ音を立ててドアベルが鳴った。
 開店してから、まだ間もない時間。そもそも、客が少ないということもあるが――そうでなくともこの時間、店に客が訪れることは稀だった。
「いらっしゃい。久々だな」
 訪れた客に、店主の梓がそう声をかける。
「そうですね」
 相手はそれだけ答えると、沈黙した。身じろぎの音ひとつしない時間が、しばし流れていく。
 梓が何も言わなかったからか、彼女は諦めたようにため息をつくと、唐突にこう言い出した。
「柚子から、聞いているかと思っていました」
 それに答える梓の声は、平然としている。
「いろいろ聞いてはいる。あれは何でもべらべらとしゃべるからな……」
 そんな呆れたような声に、苦笑まじりで彼女はこうたずねた。
「怒らないんですか」
「私が君の何を怒るんだ」
 梓はすぐにそう返した。けげんな声で。
 静まり返った空気の中、今度に問いかけたのは梓の方だった。
「お茶でもいかがかな?」
「いいえ。けっこうです。ありがとう」
 言葉はていねいだが、少し突き放すような感じがする。それは梓も気づいただろう。しかし、それに対して、梓が何かを言うことはなかった。
 そして、彼女はこう語り始める。
「私、後悔していません」
 そこでひと息ついたあと、彼女はこう続けた。
「こんなこと、言い訳に思われるかもしれませんが、でも……私にはもう、これしか方法がなかったんです。でなければ、私はきっと――彼女にもっと、ひどいことをしてしまう。そう思ったから」
 話の合間に、梓がこう口を挟んだ。
「過ぎたことをどうこう言うつもりはない。しかし、君たちは友人だろう? ならば、時が経てばいずれ……」
「いいえ。それはありません。友人だからこそ、です。私は――してはいけないことを、してしまいましたから」
 彼女は強めの口調でそう言った。
 言葉をさえぎられたことで、梓は黙り込んでしまったようだ。彼女が一方的に話し出す。
「柚子は、特別なものを持っていました。でも、私には――何もなかった」
 淡々としたその言葉には、息を飲むような何かが潜んでいた。店内に、ぴりっとした緊張感のようなものが走る。
 しかし、彼女はあくまでも、穏やかにその先を話し続けた。
「実は……この店に行ってみたいと言い出したのは、私なんですよ。学校では、おばけ屋敷なんて言われていたけど……ここは、私にとっては憧れのお店で。見たこともない物がたくさんあって」
 初めてこの店を訪れたときのことを思い出す。見るものすべてが目新しく、あらゆる物に目を輝かせていた、あの頃を――
 彼女はそこで、軽くため息をついた。
「いつの間にか、彼女はここに居場所を得ました。でも……私はここには居られなかった。いつまでも、お客さんのまま」
 店の出入り口のすぐ近く。窓辺にある書きもの机の上には、初めて店に来たときにはなかったような、新しくきらきらしたアクセサリーが、いくつか並べられている。
 彼女は自嘲ぎみに笑った。
「当然ですよね。私には何もない。だから、仕方がないんです。それはわかっています。でも、彼女のとなりにいて、彼女の特別を見て――憧れて。もしかしたら、いつか私もって、思っていたのかもしれません。笑ってしまうでしょう? 私はただ……見ていただけなのに」
 いつしか声は涙まじりになっていて、しかし、それでも彼女は話すことをやめなかった。
「それでも……そう思えるうちは、まだよかったんです。でも、いつの間にか私は――つらくなってしまった。彼女と、こんなにも違うことが」
 震える声を抑えるように、彼女はそこで大きく息をはいた。
「でも、柚子は――彼女はきっとそんなこと、気づきもしないでしょう。私も、こんなやり方がいいとは思っていません。でも、私みたいに何もない人間には、そうして傷跡を残すしかなかったんです」
 彼女が話し終えると、店の中は静まり返った。そのしんとした空気が、先ほどまでの彼女の激情を、よりいっそう際立たせている。
 しかし、次に彼女が口を開いたとき、その声は――落ち着いたいつもの彼女の声だった。
「ごめんなさい。結局、私はここに言い訳をしに来たんでしょうね。許されることはなくても、あなたには、ただ聞いてもらいたかった……」
 梓は――どんな反応をしたのだろうか。うなずいたのか。それとも。
 淡々と、彼女はこう続ける。
「やっぱり、ここは私の憧れの場所なんです。昔からずっと、今になっても。だから、もう一度ここに来たかった。最後に、もう一度だけ」
「柚子がここにいたとしても?」
 ふいの問いかけに、彼女はわずかに笑みを浮かべた――気配がした。
「彼女、今は遠方でしょう? いろいろ活動しているのを見ていますから」
 そう言ったきり、彼女は沈黙した。自分の思いは、もうすべて話し終えたとばかりに。
 だから、次は――おもむろに、梓がこう話し始める。
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