第九話 煙水晶(一/四)

文字数 4,773文字

 槐の店に行くと、珍しく表の格子戸が開け放たれていた。
 戸口には腕を組んだ少年が立っている。高校生くらいの年だろうか。視線は通り庭の方――家屋の中にあって、花梨のことに気づく様子はない。
 ちょうど入り口を塞ぐように佇んでいたので、花梨は彼にどう声をかけようか迷った。店の客だろうか。それとも、音羽家の者か――
「こら。そんなところに突っ立ってるんじゃあない。お邪魔だろう」
 すぐ側まで近づいたとき、中からそう声がかかった。少年はその言葉でようやく花梨のことに気づいたらしい。軽く頭を下げながら、無言で道をあける。
 会釈を返しながら中に入った花梨は、その先の光景に唖然とした。
 通り庭の一角。普段は閉め切られている左側の戸が開いている。その先にある部屋には槐と桜と、そしてひとりの見知らぬ老人がいた。
 先ほど声をかけたのは、この老人だろう。
 彼らはひとつの石を取り囲んでいる。木製の台だろうか。それに乗せられているのは、ひと抱えもある大きな石。
 しかし、花梨が驚かされたのは、それを取り巻く背景の方だ。
 通り庭から一段高い位置にあるその部屋は、板張りの床だった。壁には天井まで届くほどの棚が並べられていて、雑多に石だの箱だのが詰め込まれている。
 それだけではない。それらの石は、箱は、棚からあふれて、その周辺にまで積み上げられていた。よく見ると、今にも崩れそうなところまである。場所によっては足の踏み場があるかさえあやしい。
 ここに置かれているこれら全部が、もしかして――石、なのだろうか。
 町屋なのだから、この部分は店に当たる部分のはず。しかし、これはどう見ても――倉庫だ。
 ――こんな風に、なっていたのか。
 今まで花梨が見てきた店の印象と比べると、それはいかにも混沌としていた。花梨はあまりのことに言葉を失う。
 そうしている間に、槐は老人に何やら花梨のことを話したらしい。老人は、ほう、と声を上げると、こう問いかけた。
「こんにちは。お嬢さん。石のことを学んでおられるとか。では、水石(すいせき)はご存知か?」
 花梨は、はっとして老人を見返した。すいせき。初めて聞く言葉だ。
「いいえ。申し訳ありません。不勉強なもので……」
「謝ることないよ。知らなくて当然。じいさんしかやってないような趣味なんだから」
 その声は背後から聞こえてきた。花梨は思わず振り返る。
 先ほど戸口ですれ違った少年が、肩をすくめてこちらを見ていた。しかし、彼は言いたいことだけ言うと、あとは興味を失ったのか、気のない素振りで表の通りの方へと視線を向ける。
 素っ気ない態度に激高したのは、水石について問いかけた老人だ。
「何を言う。まったく。おまえは何もわかっておらん!」
 老人は少年に向けてそんな言葉を投げかけた。しかし、当の少年はどこ吹く風。老人は収まりがつかないらしく、さらにこう続けた。
「明治の頃までは、石を愛でるといえば水石だ。昨今は外国産のアメシストなぞがもてはやされとるようだが、和室を飾るには当然、水石がふさわしい。素晴らしいこの国の文化だ。それを、単に年寄りの道楽のように言いよって」
 老人の後ろでは、桜がどこか呆れたような表情を浮かべている。槐も軽く苦笑していた。
 呆気にとられている花梨に、教えてくれたのは槐だ。
「水石というのは、室内で石を鑑賞する文化、と申しますか。その名の由来は諸説あるようですが、元は山水石、あるいは山水景石であったとも言われています。砂を敷いた水盤などに、石を置く。そうして風景に見立てたり、そのものの姿を楽しむ、といったところでしょうか」
 老人は槐の言葉に、うんうんとうなずいている。そして、話の続きを引き継いだ。
「水石は床の間なんかに飾られる、言わば自然の芸術品ですわ。実際に中国から渡ってきて、後醍醐天皇の愛石ともなり、最後には徳川家のものとなった石が今も美術館に所蔵されとります。正真正銘の宝物というわけで。その石には固有の名もありましてね」
「確か……『夢の浮橋』でしたか」
 そう言ったのは槐だ。
 夢の浮橋。源氏物語――宇治十帖の最後の巻名と同じだった。何か関連があるのだろうか。
 ともあれ、水石の話題に夢中だった老人は、ふと花梨のことを思い出すと、あらためて姿勢を正し、深々と頭を下げた。
「申し遅れました。私は宮古(みやこ)勝見(かつみ)と申します。あちらは孫の(あおい)。まあ、水石を集めるのが趣味でしてな。それらの売り買いもしております。本業というわけでは、ないのですが」
 戸口にいた少年は、この老人の孫だったようだ。花梨はあらためて名を名乗る。宮古は先ほどまでの勢いを恥じたように、軽く照れ笑いを浮かべた。
「あんなことを言いましたが、今の若い人には水石なんぞ、なじみはないでしょうなあ。つまらん話をしてしまって申し訳ない」
「いいえ。そんなことないです。お話、興味深く聞かせていただきました」
 花梨がそう言うと、宮古は気をよくしたらしい。それなら――と、宮古は目の前にある石を差し示した。
「水石言うんは、まあ、例えばこういう石を言います」
 花梨は槐に招かれるままに通り庭から部屋へと上がった。そうして、床に置かれたその石に近づいていく。
 それは台の上に乗せられた大きな石だった。よく見ると、石の表面には大きく白い花のような模様がある。それがつるりと磨かれていた。
 花梨がひととおりその石をながめ終えた頃、見計らったように槐が口を開く。
「これは菊花石(きっかせき)と言います。暗灰色の部分は玄武岩――よくある岩石ですが、白い部分は方解石(ほうかいせき)――カルサイトです。放射状に結晶したそれが花の模様に見えることから、その名がつけられました。どのように生成されるのか、まだ確かなことはわかっていませんが、岩の割れ目に方解石などが入り込んだか、霰石(あられいし)――アラゴナイトが結晶し方解石へ変化したのではないか、と言われています」
 宮古老人はうなずく。
「この手のものは、紋様石とか言われとります。花の模様だけでなく、風景とか――まあ、何かおもしろい模様であれば、水石として飾られますな。こちらは自然のままだけではなく、模様を出すために切ったり磨いたりもします」
 宮古がそう言うと、次に槐がうなずいた。
「ひとことに水石と言っても、いろいろあるのです。他にも、自然のままの姿を楽しむものとして、山や海上の岩に見立てた石を――先ほど言ったとおり砂を敷いた水盤に置いて飾ったり。あとは、人や家の形に似ている石など――そういった奇石のたぐいもそうですね」
 楽しげに話を聞いていた宮古は、そこで少し顔をしかめた。視線は、目の前の菊花石にある。
「しかし、最近の家には床の間どころか和室がない。そうでなくとも、置き場がない――と手放す方も多く。まあ、そういう訳で、僭越ながら水石の愛好家として、行きどころのない石を引き取ったり、逆に欲しいという方に譲ったりしとります。まあ、それで――」
 宮古はそこで、視線をぐるりと周囲に巡らせた。
「今日はこの菊花石を、槐さんとこで預かってもらおうと思いましてな。こちらは最近うちで引き取ったもので、確かに立派なものなんですが、菊花石ならすでに愛着のものがありましてね。それで、代わりに――」
 言葉を区切って、宮古は槐の方へと向き直る。どうやら、宮古にとってはここからが本題らしい。
「以前見せてもろた、梅花石(ばいかせき)を譲っていただけないかと」
 その言葉に槐は、ああ、と呟いた。
「あの梅花石ですか。かまいませんよ。そうですね。さて、どこにしまったかな……」
 そう言った槐の視線は、混沌とした部屋の一角に向けられた。そこは箱がいくつも積み上げられていて、一見するだけでは何があるかわからない。
 足を踏み出しかけた槐を、桜が押し止める。
「いいですよ。槐さん。僕が探します」
 おそらく、その辺りにあるはず――と槐の記憶を確かめて、桜は築かれた山を崩し始めた。関係ないだろう箱も念のため軽く確認しながら、別の場所にまた積み上げていく。
 花梨は、こそっと桜にたずねた。
「ここにあるのって、全部、石?」
「そうですよ。花梨さんも、ついにこの深淵をのぞいてしまいましたね」
「深淵……?」
 淡々と作業を続ける桜の影から、花梨はそっと箱の中をのぞいてみた。中には箱いっぱいの石が詰まっている。何の石だろうか。
 それにしても――例のあの部屋に並べられた石と比べると、こちらはかなり雑な扱いだ。あちらは特別な意思を持った存在だろうから、その差も仕方がないのかもしれないが。
「えっと……私も手伝おうか」
 目当ての石が見つからないらしい桜の背中に、花梨はそう問いかけた。
「やめた方がいいですよ。かなり重いものもありますし。まあ、中に入っているのは石ですから」
 桜は振り返らないまま、そう答える。それを聞いて、声を上げたのは宮古だ。
「おい、葵。葵!」
「聞こえてるよ。じいさん」
 呼びかけに応えて、葵はしぶしぶこちらにやって来た。
「ほら。おまえも手伝わんかい。荷物持ちで来たんだからな」
「何だよ。ここに持ってくるだけじゃないのかよ」
 そう言いながらも、葵は部屋に上がると桜を手伝い始めた。重そうな箱も手慣れた様子で運び、積み上がった箱を少しずつ下ろしていく。
「あの部屋の石、また増えるのか……」
 と、誰にも聞こえないような小声で、呆れたように呟きながら。
「梅花石というのは――」
 手持ちぶさたになった槐が、ふいに口を開いた。
「こちらも岩石なのですが、ウミユリの化石が含まれていて、その断面が梅の花のように見えることから、そう呼ばれます」
 そんなことを話しているうちに、桜たちはようやくその――梅花石を見つけたらしい。古びた段ボール箱が皆の取り囲む中心に置かれる。
 そこから出てきたのは、形としては菊花石によく似た石だった。しかし、大きさは菊花石よりひと回り小さい。そして何より、表面の模様が違っていた。
 菊花石は表面の全体で大輪の花を咲かせているのに対して、梅花石は控えめに、三つ四つ小さな花を散らせている。おもしろいことに、枝振りのように見える白い筋も走っていた。
 宮古はそれを満足そうにながめると、槐にあらためて交換の交渉を申し出る。槐はあっさりとそれを受け入れた。
 梅花石は再び箱にしまわれ、葵がそれを抱え持つ。
「それでは」
 ――と、会話もそこそこに、宮古たちは店を去っていった。桜と花梨で見送ってから、表の格子戸が閉められる。
 それにしても、まさかとは思うが、葵はあの石をずっと抱えていくのだろうか。そんな心配を察したのか、桜はこう言った。
「宮古さん、どこかで車を待たせてるって言ってましたよ。さすがにあれで帰るのは、葵くんがかわいそうですからね」
 それなら安心だろう。花梨は納得して背後を振り返り――そして、目に入った店の惨状にあらためて言葉を失った。
 槐はどうやら、宮古から受け取った菊花石をどこにしまうべきかを悩んでいるらしい。この状況では、どこに置こうが変わらないような気もする。
「やっぱり、少しくらいは整理しておくべきですよね……」
 そう呟いたのは桜だ。花梨は、その言葉に何を返していいのかわからない。そのことに気づいた桜は、照れたように言い訳する。
「ここだけはもうずっとこうで、手のつけようがなかったんですよね。石はだんだん増えていくし。いつかは整理しないと、とは思っていたんですが」
「そのようなことを、もうずっと言っている気がするが」
 と言ったのは、黒曜石だ。
「そんなこと言うなら手伝ってくださいよ。黒曜石さん」
 桜は少しだけ、むっとして口を尖らせた。そうして、ため息をつくと、槐の元へと向かう。
 水石のことも教えてもらったことだし、こうなったら乗りかかった船だ。花梨も何かしら手伝おうと、桜のあとを追った。
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