第十九話 日本式双晶(一/五)

文字数 5,209文字

「どうしても思い出せないんです」
 と、その人は言った。
 なぜこんなことになったのか。いったい何が始まりだったのか。そんなことをたずねていた。
 その人が語ったのはこんな話だ。
「きっかけ、かどうかはわかりませんが……梅雨の合間の、晴れた日だったかな。お出かけ日和で。あのとき、仲のいい友人が深泥池に行こうと言い出したんです。おもしろい噂があるからって。肝試しのようなものだったと思います」
 空木が深泥池の噂について知ったのは、このときが初めてだった。
 どうもこの噂、京都の学生を中心にささやかに広まっていたものらしい。道理で知らないわけだが――とはいえ、そもそもこういったことに興味を持てない空木では、たとえ耳にしていたとしても、覚えていたかどうかはわからない。
 空木はその手の話が嫌いだ。そういった話題が定期的に流行る辺り、世間はそうでもないようだが。ただ、話を聞いていたその人も、その提案――深泥池への肝試し――に喜んで飛びついた、というわけではないようだった。
「私は――行きませんでした。私には、妹がひとりいるんですが、あの子、幼いときにはそういうところをひどく怖がって。今はもう――そんなことはないかもしれませんが、そういったこともあって、私自身も何となく避けるようになっていたんです」
 空木はその話に親近感を抱く。
 怪談だの肝試しだの、そういったものをありがたがるやつは思いのほか多い。それに対して斜にかまえた反応を返そうものなら、怖いのか、などと冷やかされる。興味がないだけなのに。本当に。心の底から。
 ――そんなものに関わったと知れたら、兄貴に何を言われるか。
 空木は怪談で語られるおばけよりも、兄の説教の方が恐ろしい。恐ろしいというか、面倒くさい。避けられるのなら、全力で避けたいほどに。ともあれ――
 その人は、深泥池でのことについてこう話した。
「でも、深泥池に行った子たちは、そのあと、何もなかったよって笑っていました。真昼に散策しただけですし、その、噂――ですか? いろいろと条件があるのだとか……でも、それを実際に試してみただとか、そんなこともなかったようです」
 流行りの場所に行ってみよう。噂の場所に行ってみよう。暇を持て余した若者の行動としては、それほど奇異でもないだろう。そうする者たちも、別に何かがあるとか、何かが起こるとか――そんなことを期待しているわけではない。おそらくは。
「でも、それからしばらくして、少しずつ……」
 その人はその先を言い淀むと、しばしその口を閉ざした。
 話の雲行きがあやしくなった、と思ったのは、声の調子が変わったからだろう。別に、今のところ何か恐ろしいことを話したわけでもない。
 ただ、どうも――その人の心の内には、これから話すことについて、何かしらの気がかりがあるらしい。案の定、その表情は明らかに暗く沈んでいった。
「何が、というわけではないんですけど……サークル内での空気がおかしくなって。といっても、すぐにどうこうなったわけじゃありません。だから、そのときはまだ、深泥池の件とは結びつきませんでした。祇園祭くらいの頃は、特に変なこともなく普通に楽しんでいたと思います。でも、それから」
 急に口をつぐんだかと思うと、その人はふいに、あ、と声を上げた。怖がらせようだとか、そういうことではない。どちらかというと、うっかり、といったときに発せられる、あ、だ。
 おそらくは話の不足に気づいたからだろう。何も知らないような相手にすべてを説明しようと思うと、これがけっこう難しかったりする。話すべき情報の取捨選択、それを開示する順序はもちろん、相手のことも考慮するならば、どれだけ気をつけていても過不足なく、とはいかないものだ。
 その人も、途中で伝え忘れていたことを思い出したらしい。だから、こう補足した。
「私が所属していたサークルは……何て言うのかな。京都の歴史や文化を研究する、という名目でしたけど――ようは、有名な寺社や史跡を見て回る、といったことが主な活動内容で。人数は多いんですけど、わりと自由でした。気楽なサークルだったので、他のサークルとかけ持ちしてる人もいて。深泥池に行ったのも、同じサークルの友人たちです」
 そうして所属のサークルについて話しているうちは、そうでもなかったのだが――続きを話す段になると、その人はやはり表情を曇らせた。
「いつ頃だったかな……何となく、部室にいると不安になる、という話を友人とした気がします。でも、具体的な何かがあるわけじゃなくて。本当に、ぼんやりとした不安。だけど、そんなことを言っているうちに、友人と話していても、何だか気まずくなることが多くなって……塞ぎ込む子もいて。それが少しずつ周囲にも広がっていった、というか……」
 その人は、そこで何かを思い出そうとするかのように目を閉じた。それから、深くため息をつく。
「誰かが、そう言った気がするんです。でも、思い出せない。誰かが、あのとき――これは深泥池の鬼の呪いだ、って……その言葉は、はっきりと思い出せるのに、誰の声だったのか――それが、どうしても思い出せない……」
 雰囲気が悪くなった原因として、深泥池でのことを指摘した誰かがいる、ということだろうか。深泥池に行った友人がそうなのか。それとも。
 そもそもなぜ、そんなことを言い出したりしたのだろう。何か確信があったのか。深泥池の噂は、呪いを引き受けてくれる、というもの。そのサークルが――あるいは、その中の誰かが――呪われていたとして、雰囲気が変わったというだけなら、その話と単純に結びつくとは思えない。
 事実、これまでの話の中ではまだ、呪いだ、などとさわぎ立てるほどの決定的なことは、何ひとつ起こっていなかった。ぼんやりとした不安。ただ、それだけ。それとも、それが呪いだ、とでも言うのだろうか。
 誰かが何かを意図して、という感じはしないが――どちらかというと、それこそ本当に、漠然とした何か――悪霊だの怨霊だの、とにかくそんな感じの何か――に祟られた、と考えた方がしっくりくる。そういうものは基本的に理不尽なものだ、と空木は勝手に思っていた。とはいえ。
 ――深泥池の鬼の呪い、か。
 鬼。鬼とは――何だろう。
 得体の知れないもの。恐ろしいもの。鬼という言葉自体はわりと耳にする方なのに、いざそれが何かと問われれば、はっきりとした答えを示すことができない。
 そんなものが、深泥池にいたとでも言うのだろうか。そして、その場所に行った者たちの中の誰かが、それと出会った――?
 しかし、その人は何かを否定するように、きっぱりと首を横に振った。
「何も……なかったはずなんです。友人が深泥池に行ったときには、何も。それでも、本当はそこで何かがあったか――そうでなくとも、深泥池に行ったことがよくなかったんじゃないか、という話が広がっていきました。だから、私は――」





「深泥池に行ったか、ですか?」
 相手の言葉をくり返す形で、空木はそっくりそのまま問い返した。無言でうなずき返されたので、空木はそれに対してこう答える。
「まあ、行きましたよ。噂を知ったときに一度だけ。一応ね。別に何がどうというわけでもありませんでしたけど。心霊スポットなんてそんなものでしょう。その手の場所には――あまりいい思い出がないんで、早々に立ち去りました」
 その返答に相手が何を思ったのかはわからない。彼女は――国栖の葉は無表情のまま、空木に向かってさらにこうたずねた。
「その場所へ行く方法は、試されましたか?」
 空木は苦笑する。
「隠された祠を見つけるってやつですか? いやあ。いい大人が大真面目にそんなことをしちゃうのは、ちょっと。まあ、おもしろ半分で行ったわけでもないですけど。そこまではね……」
 国栖の葉はやはり表情を変えない。そうですか、とだけ呟いてからは、考え込むように口を閉じてしまう。
 しかし、それからしばらくして、彼女はふいに空木から視線を逸らしたかと思うと――ぽつりとこう呟いた。
「ここは、いいところですね」
 その感想に、空木は、おや、と思いながら、彼女の横顔に目を向けた。そういった話の脱線は嫌うものだと思っていたのだが。どういう心境の変化だろう。
 今いる場所は、街はずれの小さな喫茶店で――いや、茶房だったか。どちらでもいいが、ようは和風な趣にこだわった静かで落ち着いた店だった。
 知る人ぞ知るといった感じで、それほど混んではいないし、居心地を重視したのか、客同士を隔てるような店の作りをしている。その分、少し割高だが。
 前回の面会を踏まえて彼女が好きそうな店を探したのだが――どうやら、その点に関しては功を奏したらしい。
「お気に召したなら、よかったです。俺も初めて来ましたが。こういう場所は貴重ですよね。時期にもよりますけど、この街はやっぱり観光客が多いですから」
 国栖の葉は空木の方をちらりとも見ようとせずに、こう言った。
「人の多いところは、苦手で」
 彼女のそんな言葉を聞きながら、空木はぼんやりと考える。
 本当のところ、空木は早々に例の店の話を切り出そうかと思っていたのだが――相手の様子を見て、自分からその話を振ることはやめにした。せっかくだし。
 だから空木は、彼女にこう問いかけた。
「それなら、国栖の葉さんは、どういったところにお住まいで? お仕事とかは――」
 少し調子に乗ってしまっただろうか。空木はそう思ったが、口にした言葉は取り消せない。
 しかし、彼女は特に嫌悪の表情を浮かべることもなく、素直にこう答えた。
「住まいは――ここからは南の、山深いところです。仕事、は――特別なことは、何も。起きてから、洗濯をして炊事をして掃除をして、あとは眠るだけ。本来であれば」
 彼女はそう言って、深いため息をつく。
 本来であれば――妙な言い方だ。よくわからないが、今の状況は彼女にとって意に沿わない境遇なのかもしれない。それにしても――
「何と言いますか、退屈じゃないですかね。そういった毎日は」
 空木は思わず、そう口にしてしまった。
 どう考えても余計なお世話だ。空木は彼女にきつくにらまれるか、そうでなくとも顔をしかめられるのではないかと思った。
 しかし、国栖の葉は何の屈託もなく、軽く首をかしげてみせる。
「退屈? なぜ? 家の中にあって、日々の生活のためだけに働くことができるなら、心穏やかでいられますから。それが、本来の自分だと思っています。むしろ、こうして外に出ていると、それ以外のことでわずらわされることが多すぎる……」
 彼女の視線は、店の一角にある日本風の中庭へと向けられた。どこか遠くの方――ここではないどこかへと、思いをはせているかのように。それにしても――
 本当の居場所でなら、自分は特別な何かになれる――なんてことを思っていた空木には、少し耳の痛い話だ。ともあれ、彼女は空木とは違って、すでにここと定めた場所があるらしい。
 空木は思わずこう呟いた。
「本来の自分、ですか。そういったものに、なれたらいいんですけどね……」
 その言葉に、彼女はちらりと空木の方を見やる。
「何も、特別なことではないと思いますが。すべてのつながりを絶てば、そこに残るものが自分です。逆に、それ以外に自分というものがありますか?」
 それは――そうだろう。どこにいたって、空木は空木だ。そして、本当にそれ以外のものをなくしてしまうことができたなら、そこに残るのは自分というもの以外にはあり得ない。
 結局のところ、空木はやはり、今の自分を本来の自分だとは認めたくないのだろう。
 そんなことを考えているうちに、空木はふと――自分が神妙な顔で黙り込んでいることに気づいて、苦笑した。こんな、かしこまったような空気は、自分には似合わない。何かに言い訳をするように、空木は慌てて口を開く。
「確かに、そのとおりですね。俺はどうにも、難しく考えるところがあって――」
 そう言って、あらためて向けた視線の先では、国栖の葉が冷ややかな目で空木のことを見返していた。さっきまでの穏やかな表情はどこへやら。そして、何の感慨もなさそうに、こう話し始める。
「ですから、私は――できることなら、すぐにでも面倒ごとを片づけて、家に帰りたいと思っているのです」
 彼女は空木を目の前にして、はっきりとそう言った。空木が目の前にいるというのに――わかっていたことではあるが、明らかに眼中にない。あるいは、彼女にとって、空木の存在はわずらわしいことのひとつにすぎないのかもしれないが。
 とはいえ、わかっていたことなのだから、空木は別に嘆きはしなかった。そうですか、とだけ返してから、肩をすくめるだけで、さっさと気持ちを切り替える。
 そんな空木に向かって、国栖の葉はさっそくこうたずねた。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み