第三話 翡翠輝石(二/三) 

文字数 5,231文字

 飛び散った黒い泥が動き出す。それはみるみるうちに地面に広がったかと思うと、やがて大きな泥だまりになった。それは逃れる間もなく、徐々に花梨の足元にまで及んでくる――
 花梨が戸惑っているうちに、泥の中からふいに何かが飛び出した。上空へと舞い上がったそれは、一度は射抜かれて地面に落ちたはずのツバメの影。
 しかも飛び立ったその一羽を追うように、泥の中から二羽、三羽、四羽……と、同じような影が次々と飛び出してくる。そうして、瞬く間に数を増やしていった。
 気づけば周囲を取り巻くように、無数のツバメたちが旋回している。いつの間にか、花梨はその黒い渦に囚われてしまっていた。
 花梨は黒曜石の方を振り返る。彼は再び弓を構えてはいたものの、次に狙うべき影を決めかねているようだ。飛び回るツバメを追うばかりで、その視線は定まらない。
 ――数が多過ぎるんだ。
 それだけではない。一度射ち落としても消えなかったのだから、同じことをしても、きっとまたこの状況をくり返すだけだろう。これでは、どれだけ射抜いたところで意味がない。
 何もできずにいる間にも、ツバメの一群は距離を狭めてくる。
 ふいに、その渦から数羽のツバメが離れた。かと思うと、それらは花梨へと襲いかかってくる。
 殺到してくるツバメの影。黒曜石が花梨を庇う。
 ツバメは花梨たちにぶつかっては、また地面の泥へと帰っていった。しかも、それらもまた、しばらくすると泥の中から飛び立って、上空の渦に飲み込まれていく。これでは本当に切りがない。
 間段なく黒い影が迫り来る。この状況では思うように身動きもできなかった。
 ただ、幸いなことに――と言っていいかはわからないが――この黒いツバメは、たとえ体に当たったとしても、それほどの痛みは感じないようだ。実体がないからだろうか。降り注ぐ雨に打たれている、といった感覚に近い。
 とはいえ、いつまでもこうしてはいられないだろう。
 ふいに黒曜石が動いた。弓は下ろし、何かを探すように頭上を見回している。やがて求めるものを見つけたのか、黒曜石は右手をかかげて口を開いた。
「行け。甲矢(はや)! 乙矢(おとや)!」
 その呼びかけに応じて、彼の手元から姿を現したのは二羽のカラス。
 周囲のツバメたちは、自分よりも大きなその姿を見て、怯んだように乱れ飛ぶ。それでも、ツバメはすぐに持ち直して、新たに現れたものたちに敵意を向けた。しかし、それが形になる頃には、二羽のカラスは包囲の間隙を縫って遠くへと飛び去ってしまっている。どうやら、囲いの薄いところを見定めた上で、黒曜石はあのカラスを解き放ったらしい。とはいえ――
「……黒曜石?」
 花梨は思わず彼に呼びかけた。ちらりと見えた黒曜石の表情はまだ厳しい。
「これで助けが来ればいいが」
 この場を去った二羽のカラス。向かった先は、槐のところだろうか。ここからなら、店からはそれほど遠くもない。誰かに危機を知らせることができるなら、確かにこの状況をどうにかできるのかもしれなかった。
 それでも、安心するにはまだ早いだろう。
 花梨はうつむいた。こんなことになる前、花梨は黒曜石の力があればどうにかなると思っていた。しかし、それは浅はかな考えだったのだろう。
「ごめんなさい。あれだけ言われていたのに、それでも私はまだ、このことを甘く考えていたみたい」
 花梨は黒曜石にそう言った。己の力の及ばない領分に手を出そうとしている――そのことへの自覚が足りていなかった。だからこそ、彼も一度は止めたのだろう。
 しかし、黒曜石はその言葉に首を横に振る。
「これほどのことは、槐も想定していない。甘く見ていたというのなら、こちらも同じだ」
 黒曜石がそう言った、そのとき――ふいに空気の動きが変わる。それは、今まで取り巻いていた淀んだ渦とは違う、吹き抜けていくような強い風だった。
 異変を察知したのか、その風が吹き始めたと同時にツバメの攻勢もぴたりと止まる。その上、風に道を譲るようにして、包囲に綻びが生じていた。
 そうして開かれた場所を通り、現れたのは一人の少女。
「何してるの」
 現れるなり、呆れたようにそう言ったのは椿だった。彼女は周囲の異様な光景など気にもとめず、花梨の元へ歩いて来る。
 手には小さな包みを持っていて――どうやら食べものらしい――椿はその中身をただ口に運んでいた。周囲の災厄など、まるで意に介していないように。
 あまりに緊張感のない姿に、花梨はしばらくの間、呆然とする。しかし、彼女が目の前までやってくると、花梨はようやく今の状況を思い出した。
「ダメだよ、椿ちゃん。ここに来ちゃ……」
 花梨は慌ててそう言ったが、椿は軽く一笑するばかり。
「あのさわがしいカラスを寄越しておいて、何を今さら」
 よく見ると、ツバメの囲いの外でカラスが一羽飛んでいる。どうやら椿は、あのカラスの呼びかけに応じて、ここへ現れたらしい。しかし――
 無関係である彼女を、この危険に巻き込んでしまった。そう思って戸惑う花梨に、声をかけたのは黒曜石だ。
「花梨。椿が近くにいたことは幸いだ。彼の力を借りることができる」
 ――彼?
 椿は上空のツバメを一瞥すると、どこからか根付けのようなものを取り出した。紐の先にあるのは磨かれた淡い緑の石。三日月のように湾曲した楕円に穴が空けられているその形は――勾玉だ。
 その勾玉に、椿はこう呼びかける。
翡翠(ひすい)
 風は椿を中心に渦巻き、徐々に強くなっていく。その風に流されて、ツバメたちは乱れ飛んだ。
 やがてその風が一点へと収束していくと、その中心には淡い緑の髪と瞳の青年が姿を現した。
 青年は現れたと同時に周囲のツバメたちをちらりと見やると、無言で右手をかざす。途端に、今までで最も激しい風が起こった。
 突風のあおりで形を保てなくなったらしいツバメたちが、次々に黒い泥へと変わり、地面へと落ちていく――
 その中で、一羽だけ取り残されたツバメが、遥か上空へと舞い上がった。強い風から逃れようとするかのように。
 黒曜石はすかさず弓を構えると、鏃をそのツバメへと向ける。
 次の瞬間、放たれた矢に射抜かれて、ツバメは落下した。しかし、それは地面に当たる寸前、何かに受け止められたように動きを止める。ツバメはそのまま飛び立つこともできず、泥になることもなく、まるで押さえつけられているように、ただもがき続けた。
「終わった?」
 特に感慨もなさそうに、椿が言った。緑の青年は彼女の前に立つと、力なく震えるツバメを無言で見下ろしている。どうやら、このツバメは彼の力で取り押さえられているようだ。
 花梨は彼らの元へとかけ寄った。
「椿ちゃん、と――」
 花梨が初めて会う青年を前に言い淀んでいると、椿が少し投げやりに、その名を口にする。
「翡翠」
「――翡翠さん、ありがとうごさいます」
 花梨がそう言うと、椿は肩をすくめ、翡翠は無言でうなずいた。
 翡翠が椿の方へと振り向く。
「……椿。これで終わりではない。おそらく、呪の依り代になるものが近くにある」
「探せって? 面倒ね」
 翡翠の言葉に、椿はあからさまに顔をしかめた。
 花梨は、まだ消えずにいる黒いツバメを見やる。どうやら、その依り代を見つけない限り、これは消えてはくれないらしい。放っておくことはできないだろう。しかし、どこを探せばいいのか――
「おそらく、ここからそう遠くはない場所にあるはずだ」
 花梨の考えを察したかのように、黒曜石がそう言った。いつの間にか、彼の肩にはカラスが一羽とまっている。もう一羽はどこに行ったのだろうか。花梨は疑問に思ったが、とにかくこの呪いをどうにかするのが先だろう。
「依り代……って、この前のお札みたいなものってこと?」
「いや。形状はわからない。むしろ、見た目にとらわれない方がいい」
 花梨の問いかけに、黒曜石はそう答える。探すものが何かわからないというのは難しい注文だ。しかし、文句を言ってもいられないだろう。花梨はとにかく、周囲を見て回ることにした。
 翡翠はツバメの影を見張っている。椿は乗り気ではなさそうだったが、黒曜石がちらりと視線を向けると、ため息をつきながらも動き出した。
「はいはい。探せばいいんでしょ」
 花梨たちは囚われたツバメを中心に、周辺を探していった。少し古びた家が建ち並ぶ一画の、いたって普通の町中だ。呪いのための道具などありそうにないが、その中で、それを見つけたのは椿だった。
「これじゃないの」
 椿はそう言いながら、とあるところを指差す。そうして示された道端の草むらの中にあったのは――奇妙な形の石だった。
 両端が尖り、表面に筋がある。あまり道端では見かけない形状だ。
石燕(いしつばめ)……」
 それを見た黒曜石が、そう呟いた。
 ――ツバメ?
 いぶかしむ花梨に、黒曜石はこう続ける。
「形が翼を広げたツバメに似ていることから、その化石であるとされ、そう呼ばれていた。しかし、本来は腕足貝(わんそくがい)という貝殻を持つ軟体生物の化石だ」
 化石。確かに表面の筋は貝殻にはよくある形状に見えなくもない。それにしても――
「広範囲に分布するものではあるが、こんなところに無造作に転がっているものでもない。おそらく、これが依り代だろう」
 黒曜石は、そう言った。
 これがあの、黒いツバメを産み出したもの。花梨は少し意外に思う。以前に会った黒いもやを産み出したのは、奇妙な記号の書かれた紙切れだった。それと比べると、呪いのイメージにはほど遠い。
 それでも、あの黒曜石が苦戦したからには、これはあの黒いもやより強力な呪いだったのだろう。それがこんな道端にあるということは――
 花梨は思わず考え込む。
 椿はしばらく黙って様子を見守っていたが、動きがないことに痺れを切らしたのか、唐突に目の前の石燕を持ち上げた。大胆な行動にもぎょっとするが、そこにあらわになったものに、花梨は驚き目を見開く。
 石燕の下にあったもの。それは、ツバメの亡骸だった。
 まだそれほど時は経っていないのだろう。体はそれほど朽ちてはいない。それでも、触れることにためらわれるものには違いなかった。しかし、椿は臆することなくそれを手のひらにのせる。
 それを見て、口を開いたのは黒曜石だ。
「石燕を依り代に、このツバメの残滓を使役したのだろう」
 椿はツバメの亡骸をそっと持ち上げると、きょろきょろと辺りを見回した。近くに土の地面を見つけて、その場所を掘り起こし始める。花梨はその行動に、はっとすると、彼女の作業に手を貸した。
 椿は不服そうにこう呟く。
「ツバメの幽霊だなんて。そんなもの従えたとしても、たいした呪いにはならないでしょうに」
 椿はツバメの亡骸を丁寧に埋めながらも、どこか呆れたようにそう言った。そんな椿に向かって、黒曜石はこう答える。
「あるいはそのツバメは親鳥で、雛鳥か卵を残したまま死んだのかもしれない。その心残りを利用されたのだろう。力は弱くとも、執着は強い」
 その言葉を聞いて、椿はしばらく動きを止めた。しかし、それも長いことではない。すぐに彼女は作業を再開し、いつもの取り澄ました表情になる。
 ツバメの亡骸を埋め終えると、花梨たちは石燕を手に、翡翠の元へと戻っていった。依り代と亡骸を離したのがよかったのか、それともきちんと埋葬したためか、黒いツバメは静かに霧散しようとしている。
 花梨たちは黙ってそれを見送った。それが完全に消え去ったことを確認してから、花梨は、ほっと胸を撫で下ろす。
「あらためて、ありがとう。椿ちゃん。翡翠さん。それに、黒曜石も」
 その言葉に、椿は肩をすくめた。
「別にいいけど。それにしても、ずいぶん嫌われたものね。あなた」
 花梨は苦笑する。確かに、一度目があったのだから二度目があることは覚悟していたが、これほど追い詰められるとは思っていなかった。ただ、そうはっきり言われてしまうと、返す言葉もない。
 その反応に肩をすくめながら、椿はさらにこう続ける。
「お祓いした方がいいんじゃない。ちょうど縁切りできる場所が近くにあるけど」
 彼女が言っているのは、安井金比羅宮(やすいこんぴらぐう)のことだろう。崇徳天皇(すとくてんのう)などを主祭神とする、縁切り神社として有名な場所だった。
「椿ちゃんは、よく行くの?」
「行くわけがない。あそこけっこう人多いもの」
 椿はそう答えた。ひとりで自由気ままに行動している印象だが、人の多い場所は苦手なのだろうか。彼女は冷笑しながら、こう続ける。
「神頼みなんてしなくても、縁くらい切れる――」
 そのとき椿はふと、自分の持っていた包みを見下ろした。それを見て不愉快そうに顔をしかめたかと思うと、次の瞬間、椿は花梨にそれを押しつける。
「あげる。もういらないから」
 受け取った包みの中身は、どうやら飴のようだ。
 花梨がそちらに気を取られているうちに、それじゃあ、とだけ言って、椿はその場を去って行く。それと同時に、翡翠の姿もまた、いつの間にかなくなっていた。
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