第一話 黒曜石(四/四)
文字数 4,494文字
花梨は待ち合わせの場所へと急いでいた。
この日の空は厚い雲におおわれているせいか、どんよりと黒い。時折吹く風にも妙に湿り気があって、初夏のさわやかさとはほど遠かった。これから雨が降るのだろうか。ゆううつな気持ちで花梨は空を仰ぐ。
日も落ちて、辺りはもう薄暗くなり始めていた。とはいえ、周辺にはいくつも店が並んでいるので、屋内からもれた光が煌々と輝く街灯とともに、にじむように街を照らしている。
黄昏どき。一日の終わりに向けて静かに幕を下ろす時間。
しかし、花梨の行く小路は街の中心地に近いだけあって、家路を急ぐ者、夜の街にくり出す者と周囲には人通りが絶えなかった。ただ、約束の時間が迫っていることもあって、花梨は足早に道行く人たちを追い越して行く。
どれくらいそうして歩いていただろうか。ふとした瞬間、気づいたときには周辺から人影が消えていた。いや、実際に消えたわけではない。たまたま行き合わなくなっただけだろう。とはいえ。
――誰の姿も、ない?
この時間、大通りからもほど近いこの辺りに、誰の姿もないなんてことがあるだろうか。日が落ちたとはいえ、そう遅い時間でもない。まだ営業しているお店もあるはず。
嫌な予感がした。あの石の店に迷い込んだときと同じだ。しかし、今いる場所はあのとき歩いていた道とは違い、いくつか通りを隔てたところだった。
とにかく待ち合わせの場所まで行こう。花梨は不安な気持ちを抑えつつ、その歩調を速めた。
目的地は小さなお店だ。喫茶店、あるいは食堂といった方がいいのか。遅くまで営業している軽食屋で、一部では有名な店らしい。その店で、花梨は同じ大学の先輩と会う約束をしていた。あることについて、たずねるために。
角をひとつ曲がり、ようやく目的の店に到着する。花梨は、ほっとしながら扉に手をかけた。この異様な雰囲気から逃れたい、その一心で。しかし。
――閉まってる。
どれだけ力を込めても、その扉が開くことはなかった。そのことを確かめて、花梨は思わず顔をしかめる。
ガラス越しにうかがい見た店内は、ぼんやりと暗い。とはいえ、完全な闇というわけでもなかった。まるで、ついさっきまで営業していたのに慌てて照明だけ落としたような、そんな妙な空気だ。当然、中には誰の姿もなく、閉店がわかる札も貼り紙も見当たらない。
何かがおかしい。花梨はすばやく踵を返した。とにかくこの場から逃れよう。そう思って、行く先も定まらないまま歩き出す。
大通りの方へ――とにかく人がいるだろうところへと向かった。しかし、そうして開けた場所へ出たとしても、人の姿を見ることはおろか、車一台すれ違うこともない。その異様な状況に、花梨は呆然と立ち尽くした。
――あの店に助けを求められないだろうか。
藁にもすがる思いで、花梨はそれを思いつく。
昨日、花梨が迷い込んだあの店。迷惑かもしれない。しかし、槐は怪異について理解があるようだった。そして何より、花梨には他に頼るべき相手もいない。
決心し、店がある方へと足を踏み出した、そのとき――ふと、行く手にある一本の柳の木が目にとまった。
風を受けて、かすかに揺れる柳の葉の下。その影に何かがいる。人影か、とも思ったが、どうも違うようだ。その横を通ることをためらって、花梨は思わず立ち止まる。
それを見計らったように、背後から花梨の肩を叩くものがあった。
「どうしたの、こんなところで」
驚きのあまり、花梨は飛び上がるようにして後ろを振り向いた。そこにいたのは――何てことはない。花梨が待ち合わせていた相手だ。
しかし、花梨は戸惑いを隠せない。今の今まで、誰の姿もなかったのに。そうでなくとも、目の前の彼は異変にはまるで気づいていないかのように、平然とその場に立っていた。
唖然とする花梨に、相手はけげんな顔で首をかしげている。
「いや、申し訳ない。ちょっと遅れて……」
そんな場違いな言い訳にも、花梨は軽く混乱する。
――私の、勘違いだった?
すべては、単なる偶然。花梨はそう思いかけたが、相対している彼の視線が、いつの間にか花梨の背後――柳の木の方へと向けられていることに気づいた。そうしているうちにも、彼の顔色はたちまち青くなっていく。
花梨がその変化の意味を理解するよりも前に、彼はふいに走り出した。花梨に背を向けて。何か言葉にならない叫びを上げながら、一目散に。一度も振り返ることなく。
花梨はただ呆然と、それを見送った。
場違いな来訪者が退場したことで、辺りはよりいっそう、しんと静まり返ったようだ。それにしても――
彼は何を見たというのだろうか。あの柳の木の下に。
振り返って、次に柳の木の下に目を向ければ、きっとそれを目の当たりにしてしまうだろう。しかし、花梨はそれを確かめるのが怖かった。ただ、その何かが今はどうしているのか――もしや、こちらに近づいているのではないか――それを確認しないこともまた、同じくらい恐ろしい。
花梨は挫けそうになる気持ちを奮い立たせながら、意を決して振り向いた。
風にうごめく、しなだれた柳の枝のあいだ。そこに見えたのは、黒く巨大なもやのようなものだった。人に似た形ではあるが、明らかに人ではない。それが柳の元を離れ、こちらへ――花梨の方へとゆっくり迫ってくる。
走って逃げてしまえばよかったのかもしれない。しかし、逃れられるとも思えなかった。あれはどうやら、自分のことを狙っているようだ。花梨はそう確信する。
花梨はじりじりと後退しながら、無意識にすがれるものへと手を伸ばした。そして、心の中で祈る。何に対してかはわからない。人がどうしようもなく絶望したときに、助けを求めるもの。神か、それとも――
そのとき、花梨の指先が何かにふれた。驚いて視線を向けると――そこにあったのは黒曜石の鏃。
花梨がそれを確かめた瞬間、鏃は静かに淡い輝きを放ち始めた。それはやがて収束し、人の形――青年の姿へと変わる。
黒い髪に、黒く鋭い瞳。身にまとった衣装もまた、烏を思わせるような漆黒。
現れた青年は、正体の知れないそれを真っ直ぐに見据えると、流れるような動作で軽く両手を差し出した。彼の手元に、どこからともなく弓と矢が現れる。ゆるやかな曲線を描く漆塗りの和弓に、黒い矢羽のついた一本の矢。その鏃は、鋭く輝きを放つ黒曜石。
青年の眼光に怯んだのか、にらみつけられた黒いもやは一切の動きを止めていた。相対する彼はその視線を維持しつつ矢をつがえ構えると、そこからゆっくりと弓を引き絞っていく。
ほんの一瞬、流れていた時間が止まる。いや、そんな風に花梨には感じられた。しかし、それもわずかな間だっただろう。
狙いを定めた次の瞬間、青年はその矢を解き放った。放たれた矢は、狙い違わずそれを射抜く。そうして討たれたものは、苦しげにもがいたかと思うと、まるで強い風にでも吹かれたように跡形もなく消えていった。
途端に、周囲の空気も変化する。遠のいていた日常の音や気配が、どっと押し寄せてきたことで、やはり今までが異常だったのだと、花梨はあらためて思い知った。
柳の木の下には、もう何もいない。ただ、風に吹かれた葉が涼やかに揺れている。まるで、何ごともなかったかのように。
花梨は呆然と立ち尽くしていた。いろいろなことが一度に起こりすぎて、どうにも現実感がない。
ぼんやりとしながらも、槐の言葉を思い出す。彼は確かに、石には特別な力がある、と言っていた。そして、声を聞く、とも。あの言葉は嘘やごまかしなどではなかったのだろう。今さら、そんなことを納得する。
異変が消えてからも、黒い青年は変わらずそこにいた。花梨が心落ちつけるときを待っているかのように。
もしかして、このまま消えてしまうのではないか、と案じたのだが、その心配をよそに、青年は花梨が立ち直ってきたらしいことを見てとると、ふいにその口を開いた。
「あれに、心当たりは?」
あれ、とは当然、あの黒いもやのことだろう。青年の問いに、花梨は首を横に振る。心当たりなど、ない。しかし――
答えに迷っているうちに、青年はこう続けた。
「しかし、あれの出所は、あなたの近くにあるように思える」
思いがけない言葉だったが、花梨は何かを直感して、自分の鞄の中を探り出した。何かがあると期待したわけではない。何もないことを確かめたかっただけ、のはずだったのだが。
――いつのまに、こんなものが。
鞄の底から探り当てたものを見て、花梨は目を見開いた。思わず、青年に向けて困惑の視線を送る。しかし、相手はどうやら、そのことを察していたらしい。
険しい表情で、彼は花梨にうなずき返した。
鞄の中にあったもの。それは、花梨自身は入れた覚えのないもの――見たこともない記号が書き連ねられた、一枚の紙片だった。
それが何なのか、花梨には本当のところはわからない。しかし、呪い、という言葉がふと頭に浮かぶ。
青年はこう言った。
「もしも、心当たりがあるというのなら、そのものからは距離を置いた方がいい。これは人の在るべき領域のものではない。すべて夢だったとでも思い、忘れるべきものだ。それが、あなたのためなのだから」
青年はそう言った。厳しい口調だったが、それでも、どこか気づかいが感じられる。きっと、本心からそう思っているのだろう。
しかし、花梨は本当に、自分に向けられた悪意の正体がわからなかった。そして、わからないからこそ知りたいと強く思う。
「ありがとう。でもきっと、そういうわけにはいかない」
青年のまなざしを受け止めながら、花梨はそう言い返す。
「これが夢なのだというのなら、私はその夢の続きが見たい。たとえそれが悪夢であったとしても」
花梨のその言葉に、青年は無言で顔をしかめた。それが表しているのは困惑か、苛立ちか。彼の正体を知らない花梨には、まだ判断がつかない。それでも。
――きっとこれは、天上から垂らされた蜘蛛の糸なのだろう。
花梨はそう思った。だとずれば、自分はどうしても、それをつかみとらなければならない――
「私がこの街に来た理由は、ただひとつ」
大学へ通うため故郷を離れ、この街へやって来た。それは表向きの理由だ。しかし、花梨には全く別の、切実な、とある決意を隠していた。それは――
「いなくなった姉を、探すためなのだから」
花梨は自分を呪うのかもしれない紙片を軽く握りしめた。
あの恐ろしい黒いもやを思い出す。これはきっと悪意だ。しかし、そんなものを向けられるほどの人間関係を、花梨はまだこの街で築けていない。家族もいない。友人もいない。知り合いすらも数えるほど。
ならばこの悪意を向けるものは何なのか。姉の行方に関係するものではないのか。
違うかもしれない。しかし、花梨には、ほんの少しの希望であっても、喉から手が出るほど欲しかった。
そのために、花梨はこの街に――古き都、京都へとやって来たのだから。
ここで姉は誰と出会い、どのように過ごし、そして消えたのか。ただ、その真実を知るために。
この日の空は厚い雲におおわれているせいか、どんよりと黒い。時折吹く風にも妙に湿り気があって、初夏のさわやかさとはほど遠かった。これから雨が降るのだろうか。ゆううつな気持ちで花梨は空を仰ぐ。
日も落ちて、辺りはもう薄暗くなり始めていた。とはいえ、周辺にはいくつも店が並んでいるので、屋内からもれた光が煌々と輝く街灯とともに、にじむように街を照らしている。
黄昏どき。一日の終わりに向けて静かに幕を下ろす時間。
しかし、花梨の行く小路は街の中心地に近いだけあって、家路を急ぐ者、夜の街にくり出す者と周囲には人通りが絶えなかった。ただ、約束の時間が迫っていることもあって、花梨は足早に道行く人たちを追い越して行く。
どれくらいそうして歩いていただろうか。ふとした瞬間、気づいたときには周辺から人影が消えていた。いや、実際に消えたわけではない。たまたま行き合わなくなっただけだろう。とはいえ。
――誰の姿も、ない?
この時間、大通りからもほど近いこの辺りに、誰の姿もないなんてことがあるだろうか。日が落ちたとはいえ、そう遅い時間でもない。まだ営業しているお店もあるはず。
嫌な予感がした。あの石の店に迷い込んだときと同じだ。しかし、今いる場所はあのとき歩いていた道とは違い、いくつか通りを隔てたところだった。
とにかく待ち合わせの場所まで行こう。花梨は不安な気持ちを抑えつつ、その歩調を速めた。
目的地は小さなお店だ。喫茶店、あるいは食堂といった方がいいのか。遅くまで営業している軽食屋で、一部では有名な店らしい。その店で、花梨は同じ大学の先輩と会う約束をしていた。あることについて、たずねるために。
角をひとつ曲がり、ようやく目的の店に到着する。花梨は、ほっとしながら扉に手をかけた。この異様な雰囲気から逃れたい、その一心で。しかし。
――閉まってる。
どれだけ力を込めても、その扉が開くことはなかった。そのことを確かめて、花梨は思わず顔をしかめる。
ガラス越しにうかがい見た店内は、ぼんやりと暗い。とはいえ、完全な闇というわけでもなかった。まるで、ついさっきまで営業していたのに慌てて照明だけ落としたような、そんな妙な空気だ。当然、中には誰の姿もなく、閉店がわかる札も貼り紙も見当たらない。
何かがおかしい。花梨はすばやく踵を返した。とにかくこの場から逃れよう。そう思って、行く先も定まらないまま歩き出す。
大通りの方へ――とにかく人がいるだろうところへと向かった。しかし、そうして開けた場所へ出たとしても、人の姿を見ることはおろか、車一台すれ違うこともない。その異様な状況に、花梨は呆然と立ち尽くした。
――あの店に助けを求められないだろうか。
藁にもすがる思いで、花梨はそれを思いつく。
昨日、花梨が迷い込んだあの店。迷惑かもしれない。しかし、槐は怪異について理解があるようだった。そして何より、花梨には他に頼るべき相手もいない。
決心し、店がある方へと足を踏み出した、そのとき――ふと、行く手にある一本の柳の木が目にとまった。
風を受けて、かすかに揺れる柳の葉の下。その影に何かがいる。人影か、とも思ったが、どうも違うようだ。その横を通ることをためらって、花梨は思わず立ち止まる。
それを見計らったように、背後から花梨の肩を叩くものがあった。
「どうしたの、こんなところで」
驚きのあまり、花梨は飛び上がるようにして後ろを振り向いた。そこにいたのは――何てことはない。花梨が待ち合わせていた相手だ。
しかし、花梨は戸惑いを隠せない。今の今まで、誰の姿もなかったのに。そうでなくとも、目の前の彼は異変にはまるで気づいていないかのように、平然とその場に立っていた。
唖然とする花梨に、相手はけげんな顔で首をかしげている。
「いや、申し訳ない。ちょっと遅れて……」
そんな場違いな言い訳にも、花梨は軽く混乱する。
――私の、勘違いだった?
すべては、単なる偶然。花梨はそう思いかけたが、相対している彼の視線が、いつの間にか花梨の背後――柳の木の方へと向けられていることに気づいた。そうしているうちにも、彼の顔色はたちまち青くなっていく。
花梨がその変化の意味を理解するよりも前に、彼はふいに走り出した。花梨に背を向けて。何か言葉にならない叫びを上げながら、一目散に。一度も振り返ることなく。
花梨はただ呆然と、それを見送った。
場違いな来訪者が退場したことで、辺りはよりいっそう、しんと静まり返ったようだ。それにしても――
彼は何を見たというのだろうか。あの柳の木の下に。
振り返って、次に柳の木の下に目を向ければ、きっとそれを目の当たりにしてしまうだろう。しかし、花梨はそれを確かめるのが怖かった。ただ、その何かが今はどうしているのか――もしや、こちらに近づいているのではないか――それを確認しないこともまた、同じくらい恐ろしい。
花梨は挫けそうになる気持ちを奮い立たせながら、意を決して振り向いた。
風にうごめく、しなだれた柳の枝のあいだ。そこに見えたのは、黒く巨大なもやのようなものだった。人に似た形ではあるが、明らかに人ではない。それが柳の元を離れ、こちらへ――花梨の方へとゆっくり迫ってくる。
走って逃げてしまえばよかったのかもしれない。しかし、逃れられるとも思えなかった。あれはどうやら、自分のことを狙っているようだ。花梨はそう確信する。
花梨はじりじりと後退しながら、無意識にすがれるものへと手を伸ばした。そして、心の中で祈る。何に対してかはわからない。人がどうしようもなく絶望したときに、助けを求めるもの。神か、それとも――
そのとき、花梨の指先が何かにふれた。驚いて視線を向けると――そこにあったのは黒曜石の鏃。
花梨がそれを確かめた瞬間、鏃は静かに淡い輝きを放ち始めた。それはやがて収束し、人の形――青年の姿へと変わる。
黒い髪に、黒く鋭い瞳。身にまとった衣装もまた、烏を思わせるような漆黒。
現れた青年は、正体の知れないそれを真っ直ぐに見据えると、流れるような動作で軽く両手を差し出した。彼の手元に、どこからともなく弓と矢が現れる。ゆるやかな曲線を描く漆塗りの和弓に、黒い矢羽のついた一本の矢。その鏃は、鋭く輝きを放つ黒曜石。
青年の眼光に怯んだのか、にらみつけられた黒いもやは一切の動きを止めていた。相対する彼はその視線を維持しつつ矢をつがえ構えると、そこからゆっくりと弓を引き絞っていく。
ほんの一瞬、流れていた時間が止まる。いや、そんな風に花梨には感じられた。しかし、それもわずかな間だっただろう。
狙いを定めた次の瞬間、青年はその矢を解き放った。放たれた矢は、狙い違わずそれを射抜く。そうして討たれたものは、苦しげにもがいたかと思うと、まるで強い風にでも吹かれたように跡形もなく消えていった。
途端に、周囲の空気も変化する。遠のいていた日常の音や気配が、どっと押し寄せてきたことで、やはり今までが異常だったのだと、花梨はあらためて思い知った。
柳の木の下には、もう何もいない。ただ、風に吹かれた葉が涼やかに揺れている。まるで、何ごともなかったかのように。
花梨は呆然と立ち尽くしていた。いろいろなことが一度に起こりすぎて、どうにも現実感がない。
ぼんやりとしながらも、槐の言葉を思い出す。彼は確かに、石には特別な力がある、と言っていた。そして、声を聞く、とも。あの言葉は嘘やごまかしなどではなかったのだろう。今さら、そんなことを納得する。
異変が消えてからも、黒い青年は変わらずそこにいた。花梨が心落ちつけるときを待っているかのように。
もしかして、このまま消えてしまうのではないか、と案じたのだが、その心配をよそに、青年は花梨が立ち直ってきたらしいことを見てとると、ふいにその口を開いた。
「あれに、心当たりは?」
あれ、とは当然、あの黒いもやのことだろう。青年の問いに、花梨は首を横に振る。心当たりなど、ない。しかし――
答えに迷っているうちに、青年はこう続けた。
「しかし、あれの出所は、あなたの近くにあるように思える」
思いがけない言葉だったが、花梨は何かを直感して、自分の鞄の中を探り出した。何かがあると期待したわけではない。何もないことを確かめたかっただけ、のはずだったのだが。
――いつのまに、こんなものが。
鞄の底から探り当てたものを見て、花梨は目を見開いた。思わず、青年に向けて困惑の視線を送る。しかし、相手はどうやら、そのことを察していたらしい。
険しい表情で、彼は花梨にうなずき返した。
鞄の中にあったもの。それは、花梨自身は入れた覚えのないもの――見たこともない記号が書き連ねられた、一枚の紙片だった。
それが何なのか、花梨には本当のところはわからない。しかし、呪い、という言葉がふと頭に浮かぶ。
青年はこう言った。
「もしも、心当たりがあるというのなら、そのものからは距離を置いた方がいい。これは人の在るべき領域のものではない。すべて夢だったとでも思い、忘れるべきものだ。それが、あなたのためなのだから」
青年はそう言った。厳しい口調だったが、それでも、どこか気づかいが感じられる。きっと、本心からそう思っているのだろう。
しかし、花梨は本当に、自分に向けられた悪意の正体がわからなかった。そして、わからないからこそ知りたいと強く思う。
「ありがとう。でもきっと、そういうわけにはいかない」
青年のまなざしを受け止めながら、花梨はそう言い返す。
「これが夢なのだというのなら、私はその夢の続きが見たい。たとえそれが悪夢であったとしても」
花梨のその言葉に、青年は無言で顔をしかめた。それが表しているのは困惑か、苛立ちか。彼の正体を知らない花梨には、まだ判断がつかない。それでも。
――きっとこれは、天上から垂らされた蜘蛛の糸なのだろう。
花梨はそう思った。だとずれば、自分はどうしても、それをつかみとらなければならない――
「私がこの街に来た理由は、ただひとつ」
大学へ通うため故郷を離れ、この街へやって来た。それは表向きの理由だ。しかし、花梨には全く別の、切実な、とある決意を隠していた。それは――
「いなくなった姉を、探すためなのだから」
花梨は自分を呪うのかもしれない紙片を軽く握りしめた。
あの恐ろしい黒いもやを思い出す。これはきっと悪意だ。しかし、そんなものを向けられるほどの人間関係を、花梨はまだこの街で築けていない。家族もいない。友人もいない。知り合いすらも数えるほど。
ならばこの悪意を向けるものは何なのか。姉の行方に関係するものではないのか。
違うかもしれない。しかし、花梨には、ほんの少しの希望であっても、喉から手が出るほど欲しかった。
そのために、花梨はこの街に――古き都、京都へとやって来たのだから。
ここで姉は誰と出会い、どのように過ごし、そして消えたのか。ただ、その真実を知るために。