第十九話 日本式双晶(二/五)

文字数 5,091文字

「あれ以来、あの家には?」
 そのひとことで、空木は一気に現実へと引き戻される。
 国栖の葉の言う、あの家、は例の店のことだろう。彼女の主張は、あの店には呪いの石があり、深泥池の件に関わっているかもしれない、というものだ。もしも、それが事実であるならば、空木はあの店を頼るわけにはいかない。とはいえ――
「ひとまず一週間ほど、周辺で様子を探りました。店主には会っていません。まあ、あちらも何だか忙しそうでしたし。年末ですからね。ただ――」
 空木は国栖の葉の表情をうかがいつつも、こう続けた。
「近所で話を聞いても、あの店におかしな噂はありませんでした。客の入りもほとんどないですし。ただでさえ、あそこには店主と、それから、中学生くらいの――娘さん、かな。住んでいるのは、このふたりくらいで……いや、初めて行ったときには、もうひとりいたか」
 お茶汲みをしていた青年が。そういえば、彼のことは店の外では見かけていない。
 店に出入りしているのを見かけたのは、住んでいるだろう二人のほかには、大学生くらいの女性を何度か目にしたくらいだ。おそらくは客だろう。
 とはいえ、あそこは一応店なのだから、客が来ること自体はおかしなことではない。むしろ、それだけの客でやっていけるのか、という点で心配になる。ともあれ。
 青年のことは気になるが、あえて取り上げるようなことでもなかった。ひとまずは棚上げにして、空木は続きを話すことにする。
「あの店に何やら秘密があること自体は、こちらも否定しませんが。それにしたって、呪いを引き受けるようなところには思えないんですよね。まあ、そういったことは悪事でしょうし、隠されてしまえば見えないんでしょうけれども」
 しかも、あの店に行ったという知り合いは、問題なく目的を達成できている。くわしい話は聞けなかったが。もしもおかしなことがあったなら、あの店のことを話した空木に対して、もっと何かしらの苦情があってもいいだろう。しかし、そんな様子は一切なかった。
 そうでなくとも、あの店主と中学生の女の子と、せいぜい大学生くらいの青年では、悪事を企んでいたとしても、たかが知れている――と思うのは甘いだろうか。事実は小説より奇なりとは言うし、近頃の世の中、何が起こるかわかったものではない――とはいえ。
 とにかく、空木が自力で調べた限りではそんなところだった。呪いだの何だのにくわしければ、また違った見方ができるのかもしれないが――
 だからこそ、空木はこう問いかけた。
「ですので、国栖の葉さんがあの店を疑われている理由を、もう少しくわしくお聞かせ願えれば、と」
「知りません」
 と、国栖の葉は即座にそう答えた。その返答に、空木が呆気にとられた顔を向けても、彼女は涼しい表情でこう続ける。
「私も、とある方にそう聞いているだけです」
「さようで……」
 初めて会ったとき、店に向かってあれほど敵意のこもった眼差しを向けていたというのに。そこに明確な理由があったわけではないというのか。それとも、単に隠されているだけか――
 空木がそんなことを考えているうちにも、国栖の葉はひとりごとのように、こう呟いた。
「あの家は、かつて私たちに害を為した、憎むべき相手なのだ、と――」
 心穏やかでいられる、と口にしていたときの彼女はそこにはない。少なくとも、空木はそう思った。むしろ、今の彼女は何かのしがらみに囚われて、自分を見失っているような――
 ちぐはぐな彼女の印象。そのことが、空木にはなぜかひどく引っかかった。日々の生活について話していたとき――あのときは、彼女にとって心からの言葉だろうと思えたのだが。
 憎むべき相手。そんな言葉が出てくる辺り、あの店に対する憎しみは、彼女の中から生まれたわけではないように思える。彼女の今の言葉は――少なくとも空木の心には、どこか虚しく響いていた。



 という感じで空木が国栖の葉と話をしたのは、大晦日も差し迫った時期のこと。
 あの場ではまた会うことを約束して別れたはずだが、あれ以来、年が明けても彼女から連絡が来ることはなかった。そうして、年末に会ったあの日からも一か月以上の時が経つ。
 空木はぼんやりとあのときの会話を思い返していた。正直言って、彼女の主張は素直に受け入れられないことばかりだ。それでも空木には、彼女のことを有耶無耶にして終わらせたくはないという思いがあった。だからこそ、空木の方からも何度か働きかけてはいるのだが――こちらも当然、梨の礫だ。
 そんなわけで、空木は正月の間をほとんど上の空で過ごしていた。とてもではないが、浮かれた気持ちになどなれない。そうでなくとも、空木には他にも気がかりなことがあって――こちらもまた宙に浮いたまま、逆に空木の心を沈ませる要因となっていた。
 とある人の呪いを、どうにかしなければならない。それが、空木の抱えているもうひとつの問題だ。これもまた、空木がよくわからないことに首を突っ込んだ結果なのだが――
 そもそも空木には、本当にそれが呪いなのかどうかさえ確信がない。ただ、呪いだとしか思えない事象だったので、とりあえずはそう呼んでいるだけだ。
 そんな現状で、この問題については取っ掛かりすら見つけられずに一年以上が経ってしまっている。こうなると、何をどうすればいいかもわからない、というのが本音だ。
 ただでさえそういうものを嫌っている身内がいるせいで、空木は思うように動けない。とはいえ、そうした判断の結果が今の状況なわけで――もしかしたら、この決断力のなさこそが、空木がいまだに何も成し遂げていない、その原因なのかもしれなかった。
 ただ、例の店に関しては、もう少し踏み込んでもいいのではないか、と空木は思っている。しかし、そうしたことで、あの石の店に頼ることになったとしたら――空木はおそらく、国栖の葉とのつながりを失ってしまうだろう。
 彼女にとって、あの店は敵だ。理由はわからないにしても。実状を探るという名目がある間はまだいいが、いつまでもそんなことをしているわけにはいかない。かといって、空木が国栖の葉のことを信じると決めたところで、彼女が自分を信頼することなどないだろう――と、空木は予感している。
 結局のところ、空木は板挟みになりながら、どちらの道も諦めきれなくなっているのだった。未練がましいことだ――
 そんなことを考えつつも、空木が足を向けたのは、昨年末に一度だけ国栖の葉と会ったあの茶房。
 あれ以来、空木は暇があればその場所に寄っていた。もう何度目かわからない。特に何かを期待していたわけではないが――いや、期待がないわけではないのだが、それは、もしかしたら彼女を見かけることがあるかもしれない、くらいの儚い幻想でしかなかった。
 当然、今日も国栖の葉の姿はそこにはない。ないはず――だった。
 そのとき茶房の前に立っていたのは、見覚えのある姿。店に入る素振りもせず、かといって迷っている風もなく、その場所をただじっと見つめている。いつかのときと同じように。
 しかし、その目に敵意は感じられない。そこにあったのは、寄る辺をなくしたかのように寂しげな眼差し。
 その人は、どう見ても空木が会いたいと思っていた人物――国栖の葉だった。
 彼女のことを気にするあまり、幻でも見ているのだろうか。空木はとっさにそう考えた――が、もちろんそんなことはない。空木は思わず、彼女の元へとかけ寄る。
 国栖の葉は空木のことに気づくと、待ち人を見つけたかのようにほっとした――なんてことはなく、逃げるようにさっさと踵を返した。空木は慌てて追いすがる。
 引き止めようと焦る空木は、無意識に彼女の腕をつかんでいた。その途端、手のひらに感じたのは燃えるような熱さ。驚いた空木は、思わず彼女のことを引き寄せる。
 よろめく国栖の葉に向かって、空木はこう声をかけた。
「ちょっと待ってください。何で逃げるんです――じゃなくて。大丈夫ですか。熱があるみたいですけど」
 これをただの熱と言っていいのかどうか。少しふれただけでわかるくらいの高熱だ。尋常じゃない。
 この場から立ち去ることを諦めたらしい国栖の葉は、複雑な表情で振り返ると、それでも空木の手を振りほどこうともがいた。
「問題ありません。私にかまわないで」
 その答えに、はいそうですか、と納得する空木ではない。つかんだ手は放さずに、空木は言い聞かせるように問いかける。
「本当に大丈夫ですか。遠慮とかなら、今はそんな場合じゃないですよ。病院に行くか、そうでなくとも安静にしていた方がいい。何なら、家まで送ります」
 抵抗をやめた国栖の葉は、空木から顔を背けながら、こう答える。
「私は……今はあの場所には帰れません」
 空木は思わず顔をしかめた。
 本来の自分になれる場所――ではないのか。彼女には、そうして安らげるところがあるのでは――
 戸惑いつつも、空木はさらにこう提案する。
「だったら、どこか他に休めるようなところは――何なら、うちでもいいですよ。うちは寺なんで。ここからじゃ、ちょっと遠いですけど」
「なぜ、そこまで?」
 国栖の葉はあらためて空木に向き直ると、そう問いかけた。
「なぜ――って……」
 確かに、なぜだろう。どうしてこんなにも、彼女のことを気にしてしまうのだろうか。
 国栖の葉は探るような目で、空木のことをじっと見つめている。空木は自分でもはっきりしない心の内を探りながら、それをどうにか言葉にしていった。
「なんて言うか……俺はそういう性分でして。困っている人を放ってはおけない、と言うか。まあ、誰彼かまわず助けて回るわけじゃないですけど――」
「そんなことが理由ですか?」
 あからさまな疑いの目に、空木は思わず苦笑した。
 そもそもの話。空木はどちらかというと、自ら人を助けるというより人から頼られる方だ。頼られるというか、使われるというか。
 それ自体は別に何とも思っていない。できる限りのことは協力するし、できないことはできないとはっきり断る。そうでなくとも、空木はそういった相手に必要以上の世話を焼くつもりはなかった。
 空木が放っておけないと思うのは――むしろ、そんな空木にすら頼らずに、ひとりで抱え込んでしまうような人の方だ。
 気になるのは、気軽に頼まれる立場だからこそだろう。正直言って、空木相手に気をつかうようなことなど何もない。そう思うからこそ、明らかに困っているのに、何も明かしてくれないような人が近くにいると、空木はどうにも気になって仕方がないのだった。相談してくれたなら、自分が力になれるのか、なれないのか、それを判断することもできるのに――
 何とも、自分勝手な考えだ。その人には、本当に空木の力は必要ないだけなのかもしれない。あるいは、空木では何の力にもなれないことなのかもしれない。
 結局のところは、その人自身がどうこうよりも、これは空木自身の気持ちの問題なのだろう。そんなわけで、国栖の葉の問いかけに対する空木の答えはこうだった。
「そんなこと――そうですね。他人にとっては、そんなこと、なのかもしれない。俺もあなたに言ってしまいましたよね。そんな毎日は退屈じゃないのかって。あの言葉は俺が浅はかでしたけど。案外、そんなものなのかもしれません。自分にとっては大切でも、他人にとってはそうではない。それが、俺にとってはこれなんですよ。それだけです」
 その言葉に、彼女が何を思ったのかはわからない。国栖の葉は相変わらず冷めた表情で、空木のことを見返している。しかし――
 彼女はしばらくすると、ためらいながらもこう口にした。
「では……ひとつだけ――」
 何ですか、と促しながら、空木は国栖の葉からようやく手を放した。さすがにもう、彼女もこの場から逃げ去るようなことはしない。
 待ちかまえている空木の目の前で、国栖の葉は外套の内側から何かを取り出した。何か――片手でも持てるような小さな箱。
 それを空木に差し出しながら、彼女はこう言う。
「これを……指定の日時に、これから言う場所に行って、そこにいる人に渡していただけますか」
 受け取りながら、空木はこう問い返す。
「渡すだけで?」
「ええ。ただし、この箱は、決して開けないように……」
 そんなことでいいのだろうか。彼女自身の体調のことを、もっと気づかった方がいいのでは――
 そうも思ったが、それでもこれは、頑なだった彼女が空木に初めて託したものだ。受け渡しの日時と場所を確認して、空木は、任せてください、と力強くうなずいた。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み