第八話 石墨(二/四)

文字数 4,502文字

 その客は、桜がその場に着いたときにはすでに、表の戸から通り庭へと足を踏み入れていた。
 そうして勝手に入り込んだ挙げ句、無遠慮にきょろきょろと周囲を見回していたのは若い男だ。年の頃は二十代半ばくらいだろうか。桜はその男性に何となく軽薄そうな印象を抱いたが、そもそも誠実な人間はこんな風にずかずかと人の家に入ったりはしないだろうから、それも仕方がないだろう。
 坪庭の方から様子をうかがっていると、ふいに相手と目が合った――と思ったが、それはどうやら気のせいだったらしく、男の視線は桜を捉えることなく素通していく。どうやら、見えざるものが見えるような客ではないようだ。
 ともあれ、槐にはすでに客の来訪を告げているのだから、こうしてただ観察しているわけにもいかない。桜はそう思って、相手が視線を逸らした隙に、男にも姿が見えるようにしておいた。そこから男の方へと歩み寄り、声をかける。
「何か、ご用ですか?」
 声をかけられて、男はようやく桜のことに気づいたようだ。そして、軽い調子でこうたずねた。
「あ、どうも。ここ、お店か何かで?」
 そういえば、花梨が初めてここを訪れたときも、こんなやりとりをした気がする。しかし、何だろう。桜はその男に対しては強く違和感を抱いた。
 おそらく、この客はあれに呼ばれて来たわけではないだろう。しかし、それでいてここが店であることも知らないようだ。
 とはいえ、そうして不明の場所に訪れたにしては妙に堂々としているし、突然の訪問を悪びれてもいない。何となくちぐはぐだ。それとも、珍しく本当の迷い人だろうか。
 あらためて、このまま通していいものか桜は判断に迷う。何かに困っているわけでもなく、石が目当ての客でもないなら、追い返してしまってもいいような気がした。そうしたとしても、槐は何も言わないだろう。
 しかし、桜がそんなことを考えているうちに、当の槐がその場に来てしまった。
「どうかしたかな?」
 そう言って顔を出した槐に、男はここぞとばかりに近づいていく。桜と槐では、どう見ても槐の方が家主に見えるだろう。それは実際にそうなのだが。
 桜のことは目もくれず槐の前に歩み寄ると、男は名刺らしきものを取り出した。それを差し出しながら、こう名乗る。
「どうも。私は延坂(のべさか)空木(うつぎ)と申します。フリーでライターをしています」
 フリーのライター? では、営業か何かだったのか。さっさと追い返せばよかった、と桜は軽く後悔する。
 何の記事を書いているのかは知らないが、店の取材なら槐はきっと許可しない。案の定、槐は珍しく渋い顔になって、こう言った。
「申し訳ありませんが、うちはそういったことはお断りしています。そもそも、ここは一般の方に向けた店ではありませんから」
「一見さんお断りってやつでした? それは失敬。しかし、それならそれで、どうしてそういう商売をされているのか、知りたいですね。後学のために」
 はっきり断ったのに、空木と名乗った男はそう言って食い下がった。槐は困ったような表情になって、苦笑する。
「そういうわけではないのですが。取り扱っているものも個人の収集品ですし、お売りするのも、知り合いの場合がほとんどなのです」
 その言葉に、空木は、へえ、と感心したような声を上げた。
「おもしろいですね。それ。お話だけでも聞かせていただけませんか。いえ。私もまだまだものを知らないもので。まあ、ここの店主さんもお若いようですが、でしたらなおさら、いろいろとご教授いただきたいですね。少しのお時間でかまいません。不都合になれば、すぐにでも退散します」
 空木の勢いに、槐は若干気圧されている。逡巡の末に、槐はこう答えた。
「そうですね……お話だけでしたら」
 相手の押しの強さに、どこか雲行きがあやしいと思っていたら、槐は案の定折れてしまった。槐は案外、こういうことには弱い方だ。桜は呆れて、ひそかにため息をついた。
 槐が空木を座敷の方へと案内するので、桜は給仕のために台所へ向かった。あの男には、作り置きの麦茶でいいか。そう思ってグラスにお茶をそそいでから、すぐに座敷へと向かう。あの男が相手では、槐だけだと少し心配だ。
「で、こちらのお店は何を取り扱っていらっしゃるんです?」
 桜が座敷に入ったちょうどそのとき、すっかりくつろいだ様子の空木が、槐にそうたずねた。槐は簡単に、石です、とだけ答える。空木はその言葉にはぴんとこなかったのか、はあ、と気の抜けた返事をした。
 麦茶の入ったグラスを置いて、桜は槐の傍らに控える。そうして落ち着いてから、そういえばこの人はあの部屋には案内しなかったのか、と今さらながらに思った。
 自分たちの本体が並べられた、あの洋間。槐はあの部屋の石たちを人に見せるのが、案外好きらしい。別に見せびらかすわけではないだろうが、人目に全くふれないのはもったいない――と以前に言っていたことがある。客が来ればここぞとばかりにあの部屋に通すのは、そんな思いもあるようだ。
 とはいえ、今回はさすがにそんな気にはなれないのか、槐は席を立つ様子もない。この男が相手では、いつものようにいかないらしく、槐はどうにも対応に苦心しているようだ。
 対して空木の方はというと、初めて訪れた場所であるはずなのに、物怖じする気配もなかった。
「しかし、宣伝どころか、表に看板も出しておられない辺り、ほんとうに好事家向け、といったところですかね。下世話で申し訳ないですが、それで利益の方は?」
「……他に生計(たつき)はありますので」
「へえ。実は資産家とか? こちらの仕事は、趣味の延長ってやつですか。なるほど、道理で。見るからに、悠々自適って感じですよね」
 相手も相手だが、槐も少ししゃべり過ぎではないだろうか。桜は冷や冷やしながらやりとりを聞いている。
 槐はそれから、店ではどういうものを扱っているか、どういう客が来るか、そういったことを語った。これは当然、石と、それを求めて訪れる客のことだ。さすがに特別な石のことは話さない。
 しばらくしてからようやく満足したのか、空木は突然、そろそろおいとまを、と言い出した。その言葉に、槐は心なしか、ほっとしている。
 しかし、そうして去るかに思われたその男は、間際になって、思い出したように口を開いた。
「あ、最後にひとつ」
「……何でしょう」
「これは、どこでも聞いていることなんですよ。ですから、他意はありません。実際のところ、どういったところに頼ればいいか、まったく見当もつかないもので。手当たり次第、聞いて回っているわけです。もし、ですよ。もし、何か知っているなら、情報をいただけるとありがたいと思いまして」
 そうして長い前置きの末、空木が口にしたのは、こんな問いかけだった。
「呪いについて、くわしいところをご存じではないですか?」
 槐は虚をつかれて、思わず桜と顔を見合わせた。まさか、呪いという言葉がこの男から発されるとは思わなかったのだろう。それは桜も同じだ。
「どうですか。噂とか、どんなささいなことでもいいんですが」
 戸惑う槐に、空木はさらにそう詰め寄った。
「失礼ですが、それをたずねるには、相手を間違っておられるのではないでしょうか」
 槐がどうにかしてそう答えると、空木は興味深そうに身を乗り出す。
「では、どういう相手に聞けばいいと思います? こちらは、それすらわからなくてね」
 空木にそう言われて、槐は珍しく自信なさげに答えた。
「さあ……しかし、そういったことを研究されている方もいらっしゃるでしょう。本当にくわしく知りたいというのでしたら、そういう方に当たるのが筋かと」
 槐はとぼけることにしたようだ。しかし、それもやむを得まい。よく知りもしない相手に、私たちは呪いというものを知っています、なんて言うわけにもいかないだろう。
 空木は訳知り顔で、こう返す。
「ああ。わかりますよ。民俗学とかですかね。その分野では、学問としてそういうことを取り上げることもあるとか。しかし、こちらが知りたいのは、文化的に、とかそういうのではなく、呪いそのものについてなんです。それはどういうものなのか。どうすれば呪われるのか、あるいは、どうすれば逃れられるのか。実践的な内容と申しますか」
 その言葉に、槐は考え込むように押し黙った。空木はこう続ける。
「うさんくさい連中なら、多少は知っていますよ? しかし当然、そんなやからは及びでない。こちらも冗談や軽い気持ちで言っているわけではなく、それなりに切実なんでね。呪いについてくわしくて、信頼できるところを探しているんです」
「……何か、困っていらっしゃるんですか? その――呪いによって」
 思わずといった風に、槐はそうたずねた。
「まあ、そうですね」
 と、空木はあっさりと答える。
 風向きが変わったことを、空木も察したらしい。彼は槐の次の言葉を待ち構えた。
 どこまで踏み込み、どこまで話すのか。おそらく、いろいろと考えを巡らせたのだろう。ひと息ついてから、槐はおもむろに口を開く。
「呪いといっても、千差万別ありますので、申し訳ございませんが、それがどういった呪いかわからなければ、それを理解できるか否かは返答しかねます」
 槐の言葉に、空木は目を見開いた。この言い方だと、一部とはいえ、そういうものに通じていることを認めたようなものだ。とはいえ、空木はその言葉を鵜呑みにするつもりはないらしい。一瞬だけ、疑わしげな表情を浮かべる。
「じゃあ、それがわかれば、あなたには対処できるんですか?」
「具体的なことがわからなければ、何とも」
 それを聞いた空木は、へえ、と呟きながら、軽く笑みを浮かべる。
 その表情を見た桜は、空木が呪いについて、さらに問い詰めるものだと思っていた。しかし、彼はそうですかと言っただけで、あっさりと引き下がる。
 そして彼は、宣言したとおりに、ここから去るため立ち上がった。
「ありがとうございます。貴重な話をいただきました。いやあ。ここに来てよかった」
 最後にそれだけ言い残して、空木は足早に去っていく。見送るような余韻すらない。空いたグラスを片づけながら、桜は呆然として呟いた。
「何だったんでしょうね。あの人……」
 槐もまた、言い様のない違和感を抱いたようだ。無言のまま、何やら考え込んでいる。
「碧玉さんが通したなら、変な人ではないと思ったんですけど」
「いや。僕が通せと言ったんだよ」
「って、石英さん?」
 石英は唐突に姿を現すと、さっきまで空木がいた場所を、そして彼が去った方を見やってから、ふむ、とうなった。そして、誰にともなく呟く。
「しかし、まだつかめないな……まあ、これで縁はできたのだから、もう少し別のものが見えてくるだろう」
 それだけ言って、石英は消えてしまう。桜は呆れて顔をしかめた。
「何なんですか。もう」
 ともあれ、このできごとが石英の奇行と関わっていたなら、いくつか納得もいく。少なくとも桜はそう思った。ただ、こんなことは、そう何度もあっては困るのだが。
 しかし、その思いに反して、奇妙な訪問はこれで終わりとはいかなかった。
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