第十五話 頑火輝石(六/七)

文字数 3,093文字

 いったい、何がいけなかったのだろう。
 みんなにやさしくすれば、それは自分に返ってくる。だからこそ、嬉しいことがあるたびに――これはきっと、誰かにやさしくできたからだろう――そう思えていた。
 しかし、だとすれば、今の状況は何だろう。
 自分はただ、みんなにやさしくしたかっただけ。そして、みんなと喜びを分かち合いたかっただけだ。桜をみんなで見る、その光景を、そのときはきっと、本気で思い描いていた。その考えは、浅はかなものだったのだろうか。
 やさしくしたつもりなのに、嬉しいことが返ってこない。返ってこないなら、やはり、自分がしたことは間違っていたのだろう。だからきっと、こんな悲しいことが起こってしまったに違いない。
 自分は、あの人から逃げるべきではない、と思う。そして、この件にアルバイトの二人を巻き込むわけにはいかなかった。この状況は、おそらく自分のせいなのだから。
 それでも――と思う。自分は本当に、みんなにやさしくしたかっただけなのだ。この思いが間違いだとすれば、今までそうしてきたことは、いったい何だったのだろうか。やさしくする、とはどういうことなのか。もう、どうしたらいいのか、自分にはわからない――
 祈るような気持ちで彼女の元へ向かう。どうすればいいのかはわからないが、どうにかしなければならない。その思いだけが、自分を突き動かしていた。
 事務所まで来たが、扉の前に動かした棚はそのままになっていた。彼女はまだここに閉じ込められているのだろう。
 どうにか動かして扉を開ける。その途端、何か大きなものがぶつかってきて、背後にある廊下の壁まで吹き飛ばされた。
 灰色の石を突きつけて、詰め寄る彼女はこう言う。
「わ、私のこと、からかっていたんですね。勝手に舞い上がって。そんな姿を、心の中では、笑っていたんでしょう」
 目の前に、炎が燃え上がった。
 その火を呆然としながら、見上げる。彼女の言うようなことなど、一度も思ったことはない。すれ違っている。致命的なほどに。自分が考えたやさしさなど、ひとつも伝わっていなかった――
 結局、自分は本当の意味でやさしくなどできていなかったのだろう。それは個々のことを考えない、上辺だけのやさしさだった。その愚かさを、きっと神様はわかっていたに違いない。
 稲荷の社殿で手を合わせた、その日々を思い出す。
 ――ああ、神様。
 ふいに、誰かに手を引かれる感覚がした。目の前の女性ではない。それは後ろから――廊下の壁の向こうから差し伸べられたものだった。
「え?」
 そのまま、引きずり込まれるように後ろに倒れ込む。しかし、そこにあるのは、何もないただのコンクリートの壁のはず。いったい何が――
 振り向いた視線の先にあった光景に、思わず驚きの声を上げる。自分が倒れ込んだのは、見知らぬ部屋――いや、通路だった。
 壁をすり抜けたのか。いや、前を向けば、炎を手にした女性が、突然のことに驚いた顔をしている。何もないはずの壁にぽっかりと――なぜかはわからないが――穴が空いて、そこからこの場所に入り込んでしまったらしい。
 通路をよく見ると、誰かがいた。暗がりに目をこらし、徐々に見えてきたのは、あでやかな着物をまとった女性。一幅の絵として描かれていてもおかしくない豪奢なその着物は、ここではひどく場違いなものに見えた。
「な、何なんです。その人は」
 戸惑ったように炎を手にした女性がそう言った、そのとき。ふいに足元から鳥が飛び立った。鳥――数羽のスズメが。それに驚いた女性は後ずさり、彼女を廊下に残したまま、通路に続く穴は閉じてしまう。
 何が起こっているのだろう。
 着物の女性とふたり、この場所に取り残された。
 何をたずねればいいかもわからず、着物の女性に問いかけるような視線を送ってみる。しかし、彼女は何も言うことなく、ただ通路の奥を指し示した。
 その先は闇。どこに続いているかもわからない。どうやら地下道のようで、その洞窟のような岩壁は植物の蔓によって覆われているようだ。
 進むことをためらっていると、ふいに足下の近くを何かが通った。驚いて目を向けると、その何かは通路の奥へ――暗がりへと進んで行く。そして、それは少し先の方で立ち止まると、光る両の目をこちらに向けた
 猫だ。しかも、よく見ると、その猫には見覚えがあった。学生の頃だっただろうか。道端に捨てられていたところを拾って、しばらく世話をした。その猫にそっくりだ。
 思わず猫を追って行く。一歩進むと、猫もその先へと歩き出した。つかず離れず、まるで導くように、その猫は振り返っては前へと進んで行く。
 そうして――

 気づけば、横断歩道の真ん中に立ち尽くしていた。
 目の前に、人ひとりが立てるほどの空間が四角く柵に囲われている。そこだけコンクリートでは舗装されておらず、その中心には、地面に埋もれているようにして石の一部が見えていた。
瓜生石(うりゅうせき)……」
 道路の中にこんなものがある場所は、そうそうないだろう。だとすれば――
「ここ、知恩院(ちおんいん)さん?」
 知恩院。八坂神社の北東にある、浄土宗の総本山。瓜生石はその知恩院にある、道の真ん中に埋まっている大きな石だ。その名の由来は、植えてもいないのに瓜の蔓が伸び花を咲かせ実をつけたからだとか――その他にも、石の下には二条城まで続く抜け道があるとか、さまざまな話が言い伝えられていた。
 どうしてこんな場所にいるのだろう。隠された地下の道は、二条城ではなく店につながっていたのだろうか。突然のことに、そんな突拍子もないことを考えてしまう。
 呆然と瓜生石をながめていると、ふと誰かが近づいてきた。着物姿の女性だ。店に現れて、自分をここに逃がしてくれた――
「えっと。どなたかわかりませんが、助けていただいて、ありがとうございます」
 彼女に向かって、そう言って頭を下げた。しかし、目の前の女性は何も言わない。ただ、じっとこちらを見つめている。
 そもそも、どうして突然こんな場所に出てきたのだろう。なぜ、目の前の女性が自分を助けてくれるのか。何もわからない。彼女はいったい、何を思ってこんなことをしたのだろう。
 ――何を思って、か。
 やさしくしたい――そう思って行動したのに、すれ違いによって、自分はあの人のことを傷つけてしまったらしい。
 喜んでもらえることをしているつもりだった。しかし、それは自分本位の考えでもあったのだろう。自分はただ、みんなにやさしくしたかっただけだ。でもそれは、みんなに、であって、彼女に、ではない。
 目を閉じ、大きく息を吐き出す。そして、ひとりごとのようにこう言った。
「でも、帰らないと。鷹山さんと浅沙くんが心配だし。それに――」
 そこで目を開けると、けげんな顔をした女性と目が合った。彼女はおそらく、自分のことを助けようとしてくれたのだろう。だとすれば、こんなことを自分が言うのは、不思議に思うに違いない。
 それでも、自分は――
「あの人とも、ちゃんと話さないといけないので」
 そう言って瓜生石に背を向け一歩踏み出すと、そこはまた――地下道だった。ここを戻れば、店に戻れるのだろうか。とにかく、急がなくては。
 振り返ると、やはりそこには着物の女性がいた。感謝の気持ちを込めて、再び頭を下げる。彼女には不義理かもしれないが、それでも助けてくれたこと自体は、本当に嬉しく思っていた。
 やさしくしてくれるのは、嬉しい。しかし、そのやさしさにすがってばかりもいられない。あの人に向き合わなくては。そう決意して、救いの手に背を向けると、その道をただひたすらかけて行った。
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