第六話 黄鉄鉱(一/五)

文字数 3,701文字

 笹谷(ささたに)茴香(ういか)は自分のことをばかだと思っていた。
 別にだからどうという訳ではない。ただ、常日頃からそう思っていれば、ふとしたときに誰かにそう言われても、腹は立たない。誰かにそう思われたとしても、それもそうだな、と流せる。その程度の認識だ。
 もともと、他人の言葉はそれほど気にならない方だった。言葉はその人の価値観。価値観が違うことなんて、往々にしてあることだろう。
 大学で友人と話をしているときだった。たまたま知り合いが通りかかるのを見て、茴香は席を立つ。
 昨日の講義で借りたノートを返すためだ。返してから、すぐに戻った。しかし、それだけのことで、色めき立った友人たちに取り囲まれてしまう。
「ちょっと、茴香。何やってんの」
「何が?」
 わけがわからずに茴香がそう返すと、相手はあからさまに顔をしかめた。
「何が、じゃないでしょ。あんた、この前話してたこと、聞いてた?」
 茴香は内心で肩をすくめる。
 もちろん聞いていたし、ばっちり覚えてもいた。しかし、それを聞いてなお問題はないと思ったのだ。少なくとも、茴香自身は。
 ああ、と思い出した風に呟いて、茴香はとぼけた調子でこう返した。
「悪い噂があるんだっけ。でも変な子じゃないよ。借りたノートも、丁寧で見やすかったし」
「そういうことじゃないでしょ」
 呆れたようにそう言われて、茴香は少しだけ殊勝な顔をする。言い返したりはしない。きっと、わかってはもらえないだろうから。
 ばかだけど、いや、ばかだからこそ、世を渡る術は心得ていた。
「だって、他にあの講義とってる知り合い、いないし」
 そうして拗ねてみせると、何となくその場に仕方がないという空気が生まれる。そこで茴香はいつもの言葉を口にした。
「仕方ないよ。あたし、バカだから」
 そう言えば丸く収まる。丸く収まるなら、それでいいのではないだろうか。茴香はずっと、そう思っている。

     *   *   *

 七月になると、この辺りは特にさわがしくなる。
 この時期の京都の行事といえば、やはり祇園祭だろう。京都の三大祭のひとつに数えられるこの祭りは、祇園にある八坂神社の祭礼。平安時代、疫神や怨霊などを鎮めるために行われた御霊会(ごりょうえ)が起源であるとされている。
 祇園祭といえば、街中を回る山鉾(やまほこ)巡行が有名だ。しかし、実際には七月一日から三十一日まで、さまざまな行事が行われているらしい。その中でも、京都の人々が特に楽しみにしているのは、おそらく巡行の三日前から行われる宵山(よいやま)だろう。
 道の傍らに山鉾が建てられ始めると、街には一気に祭りの空気が流れ出す。巡行の日に街を一巡りするこの山鉾は三日前から飾りつけされることになっていて、それを目当てに人々は夜の京都へとくり出した。その日は夕方から夜にかけて交通が規制され、一部区間は車も通らない。
 それぞれの山鉾の近くでは、御札やお守りの厄除け(ちまき)が買える。一部の山鉾には乗ることもできた。
 それだけでなく、各町では伝統行事が行われることもあるようだ。屏風などの家宝を展示している家もあるらしい。普通のお祭りのように路上には屋台も並ぶ。
 そんな様子を聞かされたのは、姉が行方不明になる少し前のこと。初めて見た祇園祭のことを、電話で楽しげに話してくれたことを花梨は覚えている。
 そのことを思い出して、花梨は気もそぞろだった。アルバイト中にも、せっかくだから少しだけ見てみようか、とあれこれ考えたりする。
 そんな風に、心ここにあらずであることを見透かされたのだろうか。同僚のとある人物から、花梨はふいに声をかけられた。
「神社からは、みこしが出るらしいよ。巡行の日らしいけど」
「おみこし? 祇園祭って山鉾だけじゃないんですね」
 思わず、そう返してしまう。すると、その人――西条浅沙は、なぜか得意げに、にやりと笑った。勝ち誇ったような相手の顔を見て、花梨は自分のうかつさにため息をつく。
 ――バイト中は、あまり話さないようにしていたのに。
「花梨ちゃんは宵山行くの?」
 そうたずねられたが、花梨はどうにも返答に困った。行きたい気持ちはあったが、この相手には何となくそれを知られたくはなかったからだ。
「……行きません」
 とっさにそう答えると、彼はあからさまに残念そうな顔をする。
「え? そうなの? これで上がりだよね? 宵山は十一時までだって。近いし、少しだけでも見に行かない?」
 見に行くのが当然、とでも言いたげに、彼は矢継ぎ早にそう言った。しかし、この人が相手の場合、そう言われれば言われるほど、どうにも反発したくなる。
「行きません」
 その返答に、彼は軽く肩をすくめた。
「そう? 空が少しずつ暗くなっていく中で、提灯の明かりが並んでさ。祇園囃子(ぎおんばやし)っていうの? あれが聞こえてくる。大通りもいいけど、俺は細い道を歩くのが好きだったな。人の流れにのって、まぎれてさ。外れた小路から、雑踏を見るのもいい。そうして見て回るだけでも、けっこうおもしろいよ。本当に行かない?」
 気になることを言ってくれる。しかし、花梨はかたくなに首を横に振った。
「――そう。残念」
 最後にそれだけ言って、彼は笑いながら去っていった。


 アルバイトを終えた花梨は、そのまま槐の店を訪れた。
 座敷にいたのは椿と桜。椿の方はいつもの定位置で、やはり本を読んでいる。祭りの日ではあっても、この店は特に変わったところはないらしい。
「椿ちゃんは、宵山には行く?」
「誰が行くの。あんな恐ろしく人の多いところ」
 花梨の問いかけには、そんな答えが返ってくる。
「沙羅なら喜んで行くんでしょうけど」
 続けてそう言った椿に、花梨は首をかしげた。知らない名だ。いや、聞いたことはある気もする。
 応えたのは桜だった。
「そう言えば、今年は祭りに合わせて帰っては来られなかったですね。沙羅さん」
「ヒマラヤ山脈の頂にでも行って、帰って来られないんじゃない」
 と椿は言う。
「沙羅さんでもさすがに、それは……ないですよね?」
 軽く笑っていた桜だが、話しているうちに不安になったらしい。とはいえ、それをたずねられても花梨には返答のしようがない。そもそも――
「その、沙羅さん、って名前、前にも聞いた気がするけど……」
「なんだ。知らなかったの」
 花梨が言い淀むと、桜が口を開くより先に椿が答えた。視線は本の文章を追ったまま、気のない風にこう続ける。
「音羽家の人間」
 そうだろうとは思った。しかし、その答えだとあまりにも漠然としている。
 とはいえ、この家にいるのはほとんどが石なのだから、人であると知れただけでもよしとするべきか。当然のことながら、どんな人かはほとんどわからないが。
「どうせ、そのうち会うことになるでしょ。あなたとも」
 椿の言葉に、桜は苦笑しながら肩をすくめている。
「――お待たせしました。鷹山さん。どうぞ」
 そう言って、顔を出したのは槐だ。室内には入らずに、花梨がうなずいたのを確認すると、そのまま背を向けた。残る桜たちに見送られて、花梨はそのあとを追う。
 特に用もなくこの店を訪れるようになった花梨だが、今日に限ってはあらかじめ約束をしていた。かつて見た石を、もう一度見せてもらうという約束を。
「最近、少し勉強しているんです。石、というか鉱物のこと。柚子さんの話を聞いているときに、何も知らないことがわかりましたから」
 花梨の言葉に、槐はうなずく。
「そうでしたか。石は同じ鉱物でもひとつひとつ姿形が違うものです。いろいろな標本をご覧になられるといいですよ」
「なるほど……。でも、いくつか鉱物に関する本を読んでいるのですが、黒曜石のことは、あまりくわしく載っていなくて。桜石も」
 槐はふむ、と呟きながら、軽く考え込む。
「黒曜石は鉱物の定義には当てはまらないですからね。準鉱物とも言われますが、分類としては岩石です。桜石の方は仮晶。これもやはり、特殊な扱いでしょう」
 花梨は槐の話を興味深く聞いた。やはり、まだまだ理解できていないことばかりのようだ。
 そうして話を聞いているうちに、例の部屋の前にたどり着く。槐は扉を開けて、花梨を室内へと促した。
「ごゆっくり、どうぞ」
 そうひとこと言い残して、槐はそのまま去っていく。扉は開いたまま。のぞき込んだ室内は、わずかな明かりだけしかなく薄暗い。
 もうすでに日が落ちた時間ではあるが、そもそもこの部屋のカーテンはずっと閉めきられている。そのため、ほとんど日光が入らないようになっていた。
 鉱物の中には、光に弱いものもあるらしい。そうでなくとも、例えば湿度など、鉱物の保管には注意しなければならないことがあると知ったのは、花梨が石のことを調べ始めてからだ。
 とはいえ、それがこの部屋にある石に当てはまるかはわからない。槐が柚子に針鉄鉱を渡したときには、そう簡単に損なわれるものではない、とも言っていた。ならば、普通の石と同じ条件ではないのかもしれなかった。
 何にせよ、たとえ本で得た知識だとしても、知る前と知った後では印象は変わるものだ。花梨は何も知らずに訪れたときとは違う心境で、目の前の部屋へ足を踏み入れた。そのとき――
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