第十一話 黄玉(七/七)

文字数 3,779文字

 花梨たちは青年を残して空き家をあとにした。
 誰も何も言わない。なずなも桜も無言のまま歩き続けている。
 あの家で起こった悲しい事件と、それを関わっていたらしいひとりの青年。くわしいことは何もわからなかったが、それでも青年の悲痛な慟哭がすべてを物語っていた。
 とはいえ、その嘆きに対して何か言葉をかけられるほど、花梨たちは彼の事情を理解しているわけではない。そっとしておく他にないだろう、というのが結論だった。
 来た道を戻り、花梨たちはやがて五条大橋に着く。そこには訪れたときと同じように――鬼が待っていた。
「これでよかったのかしら」
 なずなは佇む時雨につかつかと近づいて行くと、挑むようにそう問いかけた。
「ええ。十分です。幽霊は成仏しました」
 彼はまるで何とも思っていないかのように、そう答えた。なずなは軽く顔をしかめる。
「あなたにとって、これにいったい、どんな意味があったというの?」
 なずなの問いかけに、時雨はしばし考えるような仕草で、なずなを――そして桜を見返した。口にすることを迷っている、というより単に焦らしているだけかもしれないが、結局はあっさりとこう話す。
「実は、樹雨(きさめ)の行方がわからなくてね」
「どういうことです」
 真っ先に反応したのは桜だ。しかも、いつもの様子とは明らかに違う。今の彼は、花梨が見たこともないような表情で目の前の鬼をにらみつけていた。
 なずなは言葉の意味がわからなかったのか、きょとんとしている。花梨には当然、事情がわからない。
 時雨は軽く肩をすくめた。
「そんな怖い顔で私のことを見られても困る。桜石。君からすると、いろいろと言いたいこともあるだろうが」
「……申し訳ないけど、その雨のことを私は知らないわ」
 なずなは桜に視線を向けつつも、戸惑ったようにそう言った。時雨は苦笑を浮かべながらも、そうでしょうね、とだけ応じる。
「まあ、とにかく。それでこちらも、いろいろと影響を調べていたわけだが――これについては、はずれかな。彼は単に、場に囚われていただけだろう」
 場に囚われていた――その言葉で思い出す。時雨がなずなに託した頼みごとは、河原院の幽霊退治。
 贅の限りを尽くし造られた庭園があった河原院。しかし、その広大な邸宅も主人を失ってからは徐々に荒廃していったと言う。華やかな過去は『源氏物語』で語られる六条院の元になると同時に、寂れてからの姿は光源氏とともにいた夕顔が、物の怪に取り殺されてしまう舞台の廃院だとも言われている。それも今ではその石碑と一部の庭園と、そして町の名前に面影を残すだけになっていた。
 美しい思い出と悲しい記憶。その二つがあるこの場所で、いつかの人と同じように、あの青年は囚われていた、ということだろうか。
 ただ、時雨の言う、はずれ、についてはよくわからない。同じように首をかしげているなずなに代わって、時雨に詰め寄ったのは桜だった。
「それじゃあ、今回のことはそのことを伝えに来たってわけじゃないんですね。まあ、そうすべきなのは、そもそもあなたじゃないかもしれませんけど」
 時雨は冷ややかに桜を見返す。
氷雨(ひさめ)のことなら、今後も君たちと顔を合わせることはないだろう。一応あれでも、百年前のことは気にしているのだから」
 飄々としている時雨に、桜は鋭い視線を向けたまま押し黙った。相手の真意を探ろうとでもするかのように。
 しかし、時雨は桜の思惑など意に介すこともなく、軽く苦笑いを浮かべている。
「何にせよ、君たちが来てくれてよかったよ。どうも、香り強い木は苦手でね」
 そう言って、彼は目の前の橋を渡り始めた。
「……そんな理由なの?」
 呆れたような、なずなの呟き。
 時雨はもう用は済んだと言わんばかりに、さっさと歩いて遠ざかって行く。なずなも桜も苦い顔だが、それを引き止めようとはしない。
 そのうち、時雨は唐突に五条大橋の欄干に飛び乗った。それだけでも花梨はぎょっとしたが、彼は、それではまた、とだけ言い残して――
 落ちた。
 たった今見たものへの理解が追いつかずに、花梨は目をしばたたかせる。時雨は確かに、欄干の向こうへ――川の方へ飛び下りた。いや、何気なく歩くような形でそのまま落ちていった――という方が正しいか。
 欄干に近づいて、花梨は慌てて橋の下をのぞき込む。
 川には舟が浮かんでいた。舟の上には先ほど落ちていった時雨が立っていて、ゆっくりと鴨川を下っていく。何ごともなかったかのように――
 何だろう。この光景は。
「言ったでしょう。でたらめだって」
 そう言ったのは桜だ。どうやら、驚いているのは花梨だけらしい。振り返ると、呆れた表情を浮かべているなずなと桜――二人の顔が並んでいた。
「こんなことで驚いたりさわいだりしたら、相手の思うつぼです。無視ですよ。無視」
 その言葉に、花梨は舟の行く末を見届けることなく川の方から背を向けた。
 あらためて見ると、桜の様子も平常に戻っている。時雨に見せていた険しい顔は何だったのか、いつもの人好きのしそうな青年がそこにいた。
 花梨はそこでふと、あることを思い出す。
「でたらめ、と言えば、だけど……」
 言い淀んだ花梨に、桜は首をかしげた。花梨はこう続ける。
「あのとき、桜くんは何をしたの? その……気絶させてたでしょう。空き家で。あんなことができるとは思ってなかったから……驚いた」
「あまり驚いているようには見えませんでしたけど……」
 桜は複雑そうな表情だ。花梨がじっと見つめると、居たたまれなくなったように、ため息をつく。
「気絶させた、というか、何と言うか……できれば、やりたくないんですけどね……」
 あまりふれたくはない話題らしい。言葉を濁す桜を見るに見かねて、なずなは助け舟を出すように話を変えた。
「ともかく、これで終わったわね。でも、あの雨に、これで貸し借りなし、って言うのを忘れちゃったわ。まあ、どうせ向こうは気にもしてないでしょうけど」
 なずなは五条大橋のたもとから、空き家のあった方を振り返った。その表情は、ここに来たばかりの頃より晴れやかだ。
「私も、あの幽霊と同じように、悲しいできごとから逃げていたわね。そうして、忘れようとしていた。つらくないなんて言ったら嘘になるけど、もう目を背けることは、やめにするわ」
 花梨と桜は思わず顔を見合わせた。今は姿を現してはいないが、なずなのことを心配していた黄玉のことを思って、お互いほっとしたように笑い合う。
「これからは、もっと店にも遊びに来てくださいよね。なずなさん。沙羅さんがいなくても、ですよ」
 桜がそう言うと、なずなは、そうねえ、と考え込む。
「でも、黄玉って、あまり自分の話をしてはくれないでしょう。相槌ばかりで。いつも私ばかりがおしゃべりしてしまうのよ。いいのかしら」
「まあ、昔からそんな感じでしたし。でも今なら積もる話もありますよ――ねえ、黄玉さん。それに、槐さんだって、椿ちゃんだっているんですから」
 桜がそう言うと、なずなは、椿ちゃんね――と、呟いてから、少し表情を曇らせた。そこでふと花梨に目をとめると、なずなはあらたまったようにこう話し出す。
「鷹山さん。もしよければ、どうか――椿ちゃんとお友だちになってあげてね。少し年は離れているかもしれないけれど……。あの子も私と同じ、どうしようもない運命から、あの家に救われた子。だから、仲良くしてあげて欲しいの」
 ――どうしようもない運命。
 花梨には、なずなの事情も知らないし、椿の事情もまだ知らされてはいない。それでも、あの店に関わるようになってから、石たちに救われた人たちを見てきた。きっと、あの店はそういう場所なのだろう。
 花梨自身が助けを求めたように――
 なずなはこう続ける。
「私も、音羽の家に――石たちに救われた。だから、その分を返したいとは、思っているのだけれど……」
 なずなはそこまで口にすると、ふいに、はたと目を見開いた。そして、花梨を前にして急にあたふたし始める。どうやらなずなは、考えていることが表情に出る人のようだ。
「その……もちろん、あなたの――鷹山さんの事情も少しは教えてもらっているわ。槐さんからお手紙をもらったから。もしも、私の力が役に立つようなときには、その力を貸して欲しいって。でも――」
 なずなはどうやら、花梨の事情を思い出して気になったものらしい。花梨が口を挟む隙もなく、言い訳めいた言葉を重ねていく。
「私、人探しは苦手で……黄玉もあれ以来、探す力は弱まってしまったし――ああ、やっぱり私のせいね。どうしましょう。こんな厄介ごとにまで、ついて来てくれたのに、申し訳ないわ。だから――」
 なずなはそこで、大きく息をはいた。落ち着くためだろうか。そうして、花梨に向き合うと、正面を真っ直ぐに見据えて、こう言った。
「私に何かできることがあれば、協力するわ。約束する。必ずよ」
 その表情に、憂いは見えない。彼女は、もう大丈夫だろう。
 ふいに、どこからか甘い花の香りがただよってきた。それに気づいて、なずなは振り返る。
「私、金木犀の香りって好きなのよね。この花が咲くたびに、少しずつ、昔の秋を思い出すの」
 思い出す過去に、たとえ悲しい記憶があったとしても。彼女はもう、逃げたりはしない。
 その姿が、花梨の目にはまぶしく映った。
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