第十二話 碧玉(三/四)

文字数 5,452文字

 行き先を塞いでいるものに驚いて、空木は思わず車の速度を落とした。
 道の先に何かがいる。それこそ猿くらいの大きさの見たこともない生き物たちが――まるで車を先導するかのように、進行方向へと練り歩いていた。しかも、どうやらそれらは、ぞろぞろと列を成しているらしい。
 その何かは、明らかに異形の化け物だった。やたら角張っていて、それでいて薄っぺらい体躯をひらひらさせながら、おどけたように先へと進んで行く。
 空木は車を止めるか、引き返そうとした――が、折悪く適当な場所が見つからない。そうこうしているうちに、車はそれに追いついてしまった。
 まさか行列に突っ込むわけにもいかないので、うしろをついて行く形になる。幸いなことに――と言っていいかはわからないが、今のところ、その異形のものたちは、こちらの車には興味を示していないようだ。
 何にせよ、おかしな状況であることに変わりはない。しかし、そのとき混乱する空木の傍らから聞こえてきたのは、妙に落ち着いた声だった。
「これは……まるで百鬼夜行(ひゃっきやぎょう)のようですね」
 前方にある化け物の行列を、槐はそう表した。その声音が少し楽しそうに聞こえたのは気のせいだろうか。
 百鬼夜行というと、鬼だか妖怪だかが列を成す怪異のことだったか。言葉自体は空木も知っている。しかし、そんなものがこの現代にあっていいわけがない――と、空木が物申すその前に、槐は焦る風でもなくこう続けた。
「だとすれば、対抗する呪文があるのですが……確か、『拾芥抄(しゅうがいしょう)』だったか――」
 何か訳のわからないことを言って、槐はしばし考え込んだ。どうにか平常心を保ち運転している空木のとなりで、何をしようというのか。ただでさえ異常な状況に、空木は気が気ではない。
「カタシハヤ、エカセニクリニ、タメルサケ、テエヒ、アシエヒ、ワレシコニケリ」
 そのうち、槐はもはや意味すらわからない言葉を口にし始めた。空木はどう反応していいかわからない。
 とはいえ、よくよく考えれば彼は呪いを解ける――かもしれないと嘯く人物だ。だとすれば、百鬼夜行だか何だか知らないが、この化け物どもを退治することもできるのかもしれない。
 と、思ったのだが、槐が呪文とやらを言い終えてしばらく経っても、百鬼夜行は相変わらず前方にいた。
 白けた空気の中、槐はなぜか照れたように笑う。
「これで退散できれば、よかったのですが……そもそも、百鬼夜行は字のごとく夜に会うものですから、やはり違うものなのでしょうか。おもしろいですね」
「全くもって、おもしろくなどないですが」
 ――この状況で、何を言っているんだ、この人は。
 空木の中で、化け物に対する恐ろしさよりも、むしろ苛立ちの方が大きくなっていく。
 とはいえ、気づけば後方にも、ぞろぞろと化け物どもが現れ始めていた。どうやら取り囲まれてしまったようだ。もはやどこにも逃げ場はない。
 これからどうなるのだろう。そのうち、化け物たちに襲われるのだろうか。あるいは、どこかに連れて行かれるのか。それとも――
「百鬼夜行は死をもたらすと考えられていたため、これがあるとされる日に貴族は外出を控えたそうです。しかし、百鬼夜行に会い、そして難を逃れたという話はいくつかありまして、『今昔物語集』によると、若い頃の安倍晴明が師である賀茂忠行(かものただゆき)の供をしているときにそれと行き合い、師の術によって身を隠し助かった、とのことです」
「その話、今、必要ですかね……?」
 槐の唐突な語りに、空木はどうにかそう返す。
 何を言うかと思えば――古典の授業じゃあるまいし、『今昔物語集』など出されても、どうしようもない。空木はもはや苛立ちを通り越して、呆れのような気持ちを相手に抱き始めていた。
 槐は苦笑して、こう続ける。
「いえ。同じように姿を隠すことはできないか、と思ったのですが。どうかな、碧玉」
 ――へきぎょく?
 槐は言葉の最後の方を、まるで誰かに呼びかけるように口にした。
 この状況で、いったい何をしようというのか。
 空木が問いただすより前に、槐は――お気をつけください、と言って行く手を指し示した。注意が疎かになっていたことに気づいて集中すると、ふいに視界が霧に煙り始める。それはまるで化け物どもを遠ざけるかのように、百鬼夜行の列を覆い隠していった。
 周囲が白いもやで閉ざされて、あたかも雲の中で車を走らせているかのようになる。しかし、不思議と危険は感じなかった。走り慣れた道とはいえ、こうも視界が悪い中、こんな感覚になるのは奇妙と言うよりほかない。
 とにかく、これであの化け物から逃れられるのかと、空木も少しは期待したのだが――
 どこからか、カリカリと音がしていることに気づいて、空木は思わずそちらに意識を向けた。それが何の音か気づいた途端、空木は思わず叫び声を上げる。
 さすがの槐も、焦ったようにこちらへ身を乗り出した。
「どうかしましたか。何か――」
「音が! あいつら爪で引っかいてるとかじゃないだろうな! 傷でもついたらどうするんだ!」
 聞こえていたのは、車体に何か固いものが擦れるような音だった。それも、何度も何度も――
 槐は、はあ、といまいちことの重大さがわかっていないような反応を示す。
「車の傷、ですか?」
 そう言って、槐はいぶかしげに首をかしげている。
 どうやら大事だとは思われていないようだが、空木にとって、これは見過ごせない問題だった。実家から拝借している車を、こんな訳のわからないことで傷だらけにした、なんてことになれば――
 悪夢だ。空木にとっては怪異よりも恐ろしい。
 そうでなくとも、この音がするということは、化け物が車に取りついているということだろう。結局、姿が隠れただけで逃れてなどいない。そう考えれば、槐がどうしてそんなに平静でいられるのか、空木にはわからなかった。
「いやいや。一大事じゃないですか。この車が襲われてるってことでしょう! それに、車に傷なんてつけたら、兄貴に何て言われるか!」
「それは大変ですね」
 けげんな顔で、槐はそう返す。その言葉には、全く心がこもっていない。
 とはいえ、空木も少しずつ冷静になり始めていた。確かに、この状況で命の心配よりも先に車の心配をしてしまったのは、端から見れば滑稽かもしれない。相手もよくわからない呪文を唱えていたのだから、どっちもどっちだとは思うが――
 そのとき、ふいにどこからか声がした。
「いつまでそんな馬鹿を言い合っているつもりだ」
 怒声のような、妙に響く低い声。発した者は明らかに苛立っているか、あるいは怒っているようだった。それにしても、これはいったい。
 ――誰の声だ?
 疑問に思う間もなく、突然、周囲が閃光と轟音に包まれた。思考が吹っ飛ぶほどの衝撃に、空木は思わず身がすくませる。
 ――雷?
 雷鳴は一度きりのこと。それ以降は車を引っかくような音も止み、余韻が静まるにつれて周囲の雲も晴れていく。
 そうして現れたのは、空木にとっては見慣れた――何もない山中の風景だった。そこに、化け物の姿はない。
「やり過ぎじゃないかな。碧玉」
 苦笑しながら、槐はとなりで小さく呟いた。
 危機は去った――のだろうか。
 ちょうどそのとき、走って来た対向車とすれ違った。通りすがりの、いたって普通の車だ。本当に何ごともなかったかのように、あっさりと日常の中に戻ってきたらしい。
 ほっとしたのも束の間、空木はふと、車の調子がおかしいことに気づく。傷のこともあるので、仕方なく路肩に止めると、さっきまで何の問題もなく走っていたはずの車が、その場で力尽きたように動かなくなってしまった。
 空木は呆然とするよりほかない。
 原因は何だろう。化け物のせいか。それとも、あの雷か。車から降りて確かめてもみたが、少なくとも外装には傷ひとつ見当たらない。
 どうしました、とけげんな顔をしている槐を横目に、空木はどうにか車を動かそうと苦心してみた――が、そう簡単にどうにかなる問題でもなかった。しばらくは槐も黙って見守っていたが、すぐには直らないと思ったのか、ひとこと断ってから車を降りてしまう。今の空木には、その行動にいちいち構っている余裕はない。
 ほどなくして、空木はようやく、もはや自分の力ではどうにもならない、と悟ることになった。そうして諦めの境地へ至った頃、どこかへ行っていたらしい槐が再び姿を現す。
 戻って来て早々、空木は槐にこう告げた。
「車が故障してしまったみたいでして。すみませんが、お手上げです」
 槐はそうですか、とうなずき返してから、空木の表情をうかがうと、来た道を指し示しながら何かを差し出した。
「あちらで、こんなものを見つけました」
 槐が手にしていたのは、干からびた芋虫のようなもの――いや、よく見ると、無機物のようだった。鈍い光沢の薄い板のようなものが、細長く連なっている。
「何です、これ」
蛭石(ひるいし)です」
 空木の問いかけに、槐はそう答える。
 その言葉に、空木は思わず顔をしかめた。ヒルというと――血を吸うナメクジのような、あのヒルのことだろうか。
 空木がけげんな顔で見返すと、槐はこう続けた。
「元は鱗が重なったような鉱物なのですが、加熱すると伸びるのです。それがヒルに似ているので蛭石と呼ばれています。雲母(うんも)が変化するなどして、このような性質を持つようになるのですが……」
 空木は、はあ、と気のない返事をした。それ以外に、反応のしようがない。どうにも、この店主とは反りが合わないようだ。
 しかし、どうやら彼の本題はこのことではなかったらしい。槐は何やらあらたまると、その蛭石を見ながらこう切り出した。
「つかぬことをおたずねしますが――」
 そう言って彼は、真っ直ぐな視線を空木に向ける。
「こういった怪異は、身に覚えがありますか? 今まで、同じような体験をされたことは?」
 彼の言う、こういった怪異、というのは、さっきの百鬼夜行のようなことだろうか。そんなもの、あるわけがない。
「こんなとんちきな経験、生まれて初めてですよ」
 空木がそう答えると、槐は重々しくうなずいた。
「そうですか。では、この石による呪いは、私を狙ったものかもしれません。申し訳ありません。あなたを巻き込んでしまったようです」
 そう言って、槐は深々と頭を下げる。
 空木には何が何だかわからない。そもそもの話、彼にはたずねたいことが山ほどあるのだが――いろいろなことがありすぎて、今は考えがまとまらなかった。とりあえず今回のことは、あれがもたらしたことではないようだが――
 空木はあらためて槐の表情をうかがった。
 呪いと関わるということは、おそらく簡単なことではないのだろう――と空木は勝手に想像する。人を呪わば穴二つ、だったか。何にせよ、先ほどのあの力を思えば、どうやらこの御仁は本物ではあるようだ。
 ――この石による呪い、か。
 槐の言葉を思い出しながら、空木は彼の手にした蛭石とやらを見る。これ自体には、特に禍々しいものは感じない。それに比べれば――
 空木はあるものを思い出して、無意識のうちに呟いた。
「石、かあ。石ねえ。じゃあ、木の呪いはダメですかね」
 槐はそれを聞いて、いぶかしげにこうたずねた。
「キ……キというのは、樹木ですか? それとも……」
「ああ。それです。ツリーで合ってます」
 何の考えもなく口にしたことだったので、空木は虚をつかれたようにそう返した。その答えに、槐は難しい顔で考え込む。
 とにかく、空木はひどく疲れていた。時間も大幅に遅れている。車をここに放っていくわけにもいかないので、今日の予定はもはやどうにもならないだろう。
 空木は仕方なく、槐にこう提案した。
「すみませんが、今日のところは中止ってことにしていただけませんかね。車もどうにかしないといけないですし。こっちにも都合がありまして」
 何か引っかかるものがあるのか、槐は浮かない表情をしながらも結局はうなずいた。
「そう、ですね。また日をあらためて、おうかがいしましょう」
 槐はそう答えると、ふと何かを思い出したように小さく声を上げた。
「そうでした。あなたには、こちらをお渡ししようと思っていたのですが……受け取っていただけますか?」
 そう言って、槐はふところから何かを取り出す。
 差し出されたものを、空木はひとまず素直に受け取った。渡されたのは、手のひらほどの小さな布袋。
「何ですか? これ」
「お守りです。今回はこちらのせいで災難に会われたようなものですし、次に会ったときにお返しいただければかまいませんので」
 空木はどうしたものかと思ったが、百鬼夜行を消した去った雷の凄まじさを思い出して、一応は受け取ることにした。何かしらの加護はあるかもしれない。
 お守りをしまい込んだ空木は、さて――と呟き、あらためて周囲を見回した。
 辺りは何もない山道。近くに民家もなく、空木は車をどうにかしなければならない。となれば――
「あー……こんなところまで連れて来ておいて、あれなんですが、お帰りは――」
「かまいませんよ。この道は、大原へ向かう道ですよね?」
 槐はあっさりとうなずいた。空木はほっとして、うなずき返す。
「そうです。バスが通ってます。本数は多くないですけど。ここからなら――バス亭までは下った方が早いですかね」
 そう言って、空木は下りの山道を指し示す。そこにはもはや奇妙な影はなく、ただ車が行き交っているだけの、なんの変哲もない山間の道だった。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み