第十五話 頑火輝石(一/七)

文字数 5,414文字

 家の近くに小さな稲荷の社があって、幼い頃はよく祖母と一緒にお参りした。
 住宅街の一角に埋もれるようにしてある神社だ。敷地は狭いが、つつましい社殿の前には赤い鳥居がずらりと並んでいて、わりと目を引く。無人ではあるが、知らない間に誰かが世話をしているのか、荒れているところを見たことはない。
 祖母もよく、この神社の周辺を掃除していた。家の周りをきれいにするついでだから、と言って。
 みんなにやさしくすれば、きっとそれは自分に返ってくる。それが祖母の口癖だ。おばあちゃん子だったこともあって、くり返し聞かされたその言葉を、自分は素直に受け取っていた。
 みんなにやさしく。幼いときのそれは、何かの見返りを求めるものでもあったかもしれない。しかし、それはいつしか自分の喜びともなっていた。
 みんなにやさしくして、喜んでもらえれば自分も嬉しい。
 そして今――やさしかった祖母は亡くなり、自分はもう大人になっていた。それでも、あのときの言葉は今でも心の中にある。

「店長」
 仕事中、ふいに呼ばれて振り返った。
 観光地の大通りにある雑貨店。そろそろ店じまいの時間で、閉店の準備をしているところだった。
 視線の先にいたのはアルバイトの女の子。今年から故郷を離れて京都の大学に通っている子だ。真面目でしっかりしているので、いつも頼りにしていた。
「どうしたんだい。鷹山さん」
「表に出してあった傘立てに、傘が一本残ったままで」
 そう言った彼女の手には、和傘だろうか――ずいぶんと古風な赤い傘が握られている。
 店内を見渡してみたが、人影はない。雨は午前中には上がっていて、午後からは晴れていた。ならば、誰かが置き忘れたのだろう。
「お客さんが忘れて行っちゃったのかな。もしかしたら取りに来るかもしれないから、貼り紙でも作っておくよ。とりあえず、裏に片づけておいてくれるかい?」
 わかりました、の返事と共に、アルバイトの子は傘立てと忘れられた傘を運んでいく。
 それを確かめてから、作業に戻った。表に出していた立て看板を片づけようとしていたのだ。しかし、そのときまた、今度は通りの方から声をかけられる。
「あの。まだ開いてますでしょうか」
 女の人だった。
 そうたずねるということは客なのだろうが、閉店までは、ほとんど時間がない。とはいえ、今はまだ営業時間内だ。愛想のよい笑みを浮かべ、彼女に向かってうなずいた。
「ええ。大丈夫ですよ」
 そういえば――と、ふと思い出す。目の前の女性は以前も何度か来店してくれていた気がする。そう思って、何の気なしにこう声をかけた。
「お久しぶりです。また、来てくださったんですね」
「私のこと――覚えて、くださっていたんですね」
 その人は軽く目を見開くと、ほっとしたように、嬉しそうに笑う。どうやら、喜んでもらえたようだ。途端に自分も嬉しくなった。
 その人はこう言う。
「最近、仕事で忙しくて……それで、なかなか来られなかったんです」
 わざわざ仕事帰りに寄ってくれたのだろうか。
 観光客向けの雑貨店ということもあって、そういうことはあまりない。しかし、店の内装やら品ぞろえやら、それなりに力を入れている身としては、何度も訪れてくれる客は、やはり嬉しいものだった。
「そうだったんですね。ゆっくり見ていってください、とは言えないんですが――まだ少し、時間がありますので、どうぞご覧になってください」
「ありがとうございます」
 そう言って、その人は店内に入って行く。かと思えば、彼女は何かに驚いたように、唐突に立ち止まった。
 どうやら片づけ損ねていた立て看板にぶつかってしまったらしい。そのことに気づき、すぐに慌ててかけ寄った。
「すみません。片づけの途中だったもので」
「こちらこそ見えてなくて……すみません」
 その人はそう言って、申し訳なさそうに頭を下げる。
 こちらの不手際なのだから、彼女が謝る必要はない。立て看板を端に寄せて、どうぞお気になさらず、とその人を中に通した。
 そのまま一緒に店内に入り、わずかな時間だったが、軽く話をしながら見て回る。看板のことで気を使わせてしまったこともあったが、わざわざ来てくれた嬉しさもあったからだ。
 閉店の間際までいたその人は、最後にバラのお香をひとつ買って、帰って行った。

     *   *   *

「お待たせしたでしょうか」
 その人は、空木のもとに来るなりそう言った。
 雑誌でも紹介されているおしゃれな喫茶店。その二人がけのテーブル席で、空木は注文を済ませて彼女のことを待っていた。
 例の店の前で会った女性だ。そのときは軽く言葉を交わしただけだったが、くわしい話を聞きたいということで、あらためて会う日を申し合わせていた。
「全然待ってませんよ。時間ぴったりです」
 本当のところは、約束の時間より十分は遅い。しかし、それくらいは誤差だろう。とはいえ、そんなことを言えば嫌みにも思われそうだが、このときの空木はそこまで考えていなかった。
 いつもの軽い調子で、空木はこう続ける。
「場所、わかりにくかったですかね」
「いいえ。ただ――人が多くて……」
 そう言うと、彼女はその苦々しい表情を客であふれた店内へと向けた。
 人気の店はお気に召さなかったか。次があるなら――あるといいが――もっと静かなところを探すとしよう。空木は密かにそう思う。
 女性が向かいの席に座ったのを確認して、店員が注文を取りに来る。彼女が選んだのは、熱いほうじ茶と干菓子のセットだ。
 この場面でその選択はちょっと変わっている。そう思いつつも、空木は相手が落ち着いた頃合いを見計らって、あらためてこう切り出した。
「えーと。それで……あの店のことについて、お教えいただける、とのことでしたが――」
「その前に」
 さっそく本題に入ろうと思ったのだが、早々にさえぎられてしまった。空木が虚をつかれているうちに、女は続けてこう問いかける。
「あなたはなぜ、あの家に?」
 空木は肩をすくめながらも、素直にこう答えた。
「知り合いが呪われているようなので、どうにかならないものかと――」
「その人はなぜ、呪われたのです?」
 矢継ぎ早の問いかけに、空木は相手の真意をはかる余裕もない。
 わずかばかり考えた末、空木はあの話から始めることにした。遠回りではあるが――おそらく事の発端だろう例の噂から。
「知ってます? こんな話。とある場所で、呪いを依頼できるってやつです。二年ほど前になるのかな、学生を中心に広まっていたそうで、ネットでも一時期、話題になったんですけど」
 女は問いかけに答えるでもなく、表情を変えることもなく、ただこう問い返した。
「その方は、それによって呪われた、と?」
「まあ、おそらくは」
 空木は答えを濁す。しかし、この流れでこんな話題を出したのだから、無関係ではないことくらい、相手にもわかるだろう。とはいえ、空木の方にも確証があるわけではないが――
 女は探るような目を向けてくる。空木からも何かたずねようかと思ったが、そうするより先に、彼女はゆっくりとその口を開いた。
「その呪い――あの家によるものかもしれない、と言ったら、信じますか?」
 空木は思わず、妙なうなり声を上げた。とっさに否定も肯定もできなかったからだ。
 あの店を知ったのは最近のことで、それも偶然のこと。目の前の女性もまた、知り合ってからは日が浅い。彼女の言い分を信じるも退けるも、判断する材料が少なすぎた。
 しかし、彼女は追い討ちをかけるようにこう続ける。
「あの家は、そういう力を持っている」
 店主が妙な力を持っていることは、空木も知っているし、目の当たりにもしている。とはいえ、空木はその事実だけで、例の噂とあの店につながりがある、と断定するつもりはなかった。
 こちらの出方を待っているらしい女に、空木こう切り出す。
「あー……念のため、確認しますが。あの店がその噂と関わりがあるという証拠――とまではいかなくとも、そう思うだけの根拠はあるんですか?」
「信じてはいただけない、と?」
 女は澄ました顔で首をかしげている。答えをはぐらかされたな、と思いつつも、空木もまた、とぼけたように、こんな話を始めた。
「呪いを引き受けてくれるっていう噂については、俺も少し調べたんです。ネット上での情報だけですけど。しかし、その呪いとやら、少なくともわかる範囲で実害はない」
「……どういうことでしょう」
 女は表情を変えなかったが、お互いの間にぴりっとした空気が走った――気がした。空木はそれには気づかぬ振りをして、場の空気を和らげるように愛想笑いを浮かべてみせる。
「覚えていらっしゃいますかね? これも二年くらい前――かな。五条の辺りで起きた殺人事件。ひとり暮らしの若い娘さんが殺されたやつですけど」
 当時、各所で報道されていたので、それなりに有名な事件だ。しかし、彼女の方は知っているのか、いないのか、何の反応も示さなかった。
 とはいえ、その事件のことを知らなくとも、先を話すことに支障はない。空木は続けた。
「いわゆるストーカー殺人ってやつで。勘違い男に殺されるっていう痛ましい事件だったんですけど。その男、事を起こす前にネット上で予告――というか、書き込みをしてたんですよね。そのこと」
「そのこと、というのは?」
「呪ってくれるように頼んだのに、何もしてくれなかった。だから自分が殺してやるって」
 女は無表情のまま黙り込む。空木は肩をすくめた。
「どうも、ネット上で噂が広まったのは、それがきっかけみたいで。そもそもの発端である学生の噂までは、俺もあまり知らないんですが。何にせよ、それをおもしろがった連中が、いろいろと調べてまとめたようなのが残ってました。どうもこの呪い、誰かのいたずらとか、その程度のものだったらしい。それで――そういう話が広まった辺りで、その噂自体もぱたりと止んでる」
 空木が探るような視線を向けると、彼女はあらためてこう問いかけた。
「だとしたら……あなたのどうにかしたいという呪いとは――何なのです?」
 空木は思わず苦笑いを浮かべた。
「まあ、そうなりますよね。しかし、こちらの事情はちょっと特殊なんです。ただ――だからこそ、あなたがその呪いを、あの店が原因だと断言されるのは奇妙に思われまして」
 空木がそう言うと、相手はあからさまに顔をしかめた。
 この女性があの店に敵意を持っていることくらい、空木にもわかっている。それでいて、今のところ空木自身はどちらの味方をするつもりもなかった。できることなら、これについては双方の主張をうかがいたいところだが――だとすれば、ひとまずは目の前の彼女からだろう。
 さて相手はどう出るか――と空木が身がまえたところで、それでも彼女はこう主張した。
「何であろうと、呪いの石があの家にあることに間違いないはありません」
 呪いの石。空木が知っているそれは、蛭石とかいう、干からびたミミズのような石だ。それも、店主は自分を狙ったものだろうと言っていた。いったい何がどうなっているのやら。
 呪い石とやらを扱える者は、ひとりではないのかもしれない。だとすれば――
 空木があれこれ思案していると、女はふいに、こう提案した。
「わかりました。では、こうしましょう。今は信じていただけなくてもかまいません。その代わり、あなたがもし、またあの家に行くというなら、そのときのことを私に教えていただけないでしょうか」
「それは――」
 間者にでもなれ、ということだろうか。簡単なお願いを装ってはいるが、これは少しきな臭い――と考えるのは、空木が少し穿った見方をしているだけかもしれないが。
 彼女はさらにこう言いつのる。
「話せることを、話していただけるだけでけっこうです。ご協力いただけませんか?」
 とりあえず、乗ってみるか。空木はそう思った。
 現状、どちらのことを信用するべきなのか、空木はまだ決めかねている。それを決めるのは、双方に通じてお互いの腹の内を知ってからでもいいだろう。そういうことをして心を痛めるような繊細さを、空木は持ち合わせていなかった。
 そのとき。
 ふと――何気なく彼女の方へと向けた空木の目が、視界の端で何かを捉えた。細い糸のようなもの。日に照らされて、一筋の光になっている。
 ――蜘蛛の糸?
 それは彼女の首元に巻きついて、まるで――どこかにつながれているかのようにも見えた。
 視界の端で引き結ばれていた口が、ふいに開く。
「――どうかしましたか?」
「いや」
 空木はそこでようやく、物思いから覚めた。
 じっと無言で見つめていたせいか、相手はけげんな顔をしている。しかも、軽く言葉を交わしている間に、その糸のようなものも見失っていた。あるいは、ただの見間違いだろうか。
 最近たまに、妙なものを見る――
 空木はぼんやりとした不安を振り切るように、彼女に向かってこう答えた。
「わかりました。とりあえず、情報を交換し合う、ということなら。それで、その――ご協力にあたって、あなたのお名前だけでも、お教えいただきたいんですが……」
 空木はまだ、彼女の名前すら聞いていなかった。いろいろ事情があるのだろうと思って遠慮していたが、この展開なら、いいかげんたずねてしまってもかまわないだろう。
 彼女はわずかなためらいのあと、こう名乗った。
「私の名は――クズノハ、です」
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