番外編 珪藻土(一/三)

文字数 4,124文字

 それは年末のことだった。
 格子戸から外に出たとき、通りの向こうで人影が動いたことに気づいて、椿は思わず立ち止まる。おそらく、物影にでも隠れたのだろう。その姿はもう見えない。
 椿は影が消えた方をじっと見つめていた。誰だか知らないが、どうも店の方をうかがっていたように思えたからだ。
 椿は近頃、この辺りを無意味にうろついているらしい男を何度か見かけていた。しかも、その人物はなぜか椿を目にすると、決まってそそくさとその場を去る。これでは、気にするなという方に無理があるだろう。
 だから椿はこう言った。
「…………ねえ。何あれ」
 それは翡翠への問いかけだった。気配などにさとい彼になら、何かわかるかと思ったからだ。
 翡翠はこう答える。
「椿。彼が何をしているかは、私にはわからない。しかし、以前にも店を訪れたことがある者だ。彼は――日本式双晶を伴っている」
 どうやら、店に無関係の人物ではなかったようだ。椿は思わず顔をしかめた。
「日本式双晶? だったら、石英のせいね」
 そう言って、人影が消えた方をにらみつける。いったいあの人物は――あるいは、石英は――何を企んでいるのか。
 またもや、自分に知らされないところでものごとが進行しているらしいことを知って、椿は不機嫌だった。それを察したのか、翡翠は取り成すようなことを言い出す。
「椿。石英にも考えがあるのだろう」
「翡翠。考えというものはね。あればいいというものではないの。どうして石英の深淵な考えとやらのせいで、私の平穏が乱されなくてはならないの?」
 すぐにそう言い返すと、翡翠は少しだけためらったあとに同意した。
「……もっともだ」
 視線の先に動きはない。しかし、そのうち物影から誰かが立ち去る姿がちらりと見えた。
 考えた末に、椿はその人影を追うことにする。
 どうせ行き先など決まっていない。この店に関わるにしても、どんな人物なのか見定めてやろう――椿はそう思っていた。

     *   *   *

 空木は見られていることを自覚しながらも、そっとその場を後にした。
 店のことを探り始めて一週間ほど。少なくとも住人くらいは把握していたので、店から出てきた少女があの町屋に住んでいることは知っていた。しかし、いまだ身の振り方を決めきれていない空木としては、できればまだ、こちらの行動を知られたくはない。
 とはいえ――
 周囲でいろいろと話を聞いてはみたが、実情がわからないわりに、あの店にはあやしいところが見つからなかった。不審な人物が出入りしているわけでもないし、いわゆるご近所さんの印象も悪くはない。あの店主なら表向き人当たりもよさそうだから、店におかしな点がないなら、そんなものかもしれないが。
 ただ、周辺と親しいつき合いがあるかといえば、そうでもないようだ。商いをしていることも知られていないようで、むしろそれをたずねた空木の方が不審に思われてしまったくらいだ。
 ただ、ひとりだけ、あの店の住人と親しいという人物に話を聞くことができた。しかし、その親しい住人については、長らく不在にしているとのことだったが。
 ともかく――
 その人の話では、あの店は昔、今の店主にとって叔母にあたる人物が切り盛りしていた、ということらしい。そのときも石の店ではあったようだが、どうもその叔母は占いをよくしたようで――それがけっこう当たったのだそうだ。
 その頃からすでに、本業の傍らその手の相談ごとにも乗っていた、ということだろうか。例えばその叔母が何か特別な力を持っていたのだとしても、今の店主がそうだとは限らない。だとすれば、あの店主が呪いについて曖昧な返答をしていたことにも合点はいく。
 何にせよ、人づてに聞いたことばかりではあるから、確かなことは何ひとつわかっていないのだが――
 そもそも、空木があの店を知ることになったのは、本当に偶然のことだった。
 空木は普段から、京都の街をぶらぶらと意味もなく歩き回っている。それというのも、ライターとして担当しているコラムのネタを探すためだ。内容は――ありがちではあるが――京都の隠れた名店を紹介する、というもので、大人気とまではいかないまでも、空木の記事はそれなりに好評を得ていた。
 この手の話題だと、やはり強いのは飲食店なのだが、だからこそ掘り尽くされてしまっているという部分もある。そんなわけで、空木は他が扱わないような、ちょっと変わった店を紹介することが多かった。
 隠された石の店、なんていうのも、空木にしてみれば恰好の題材ではある。とはいえ、当の店主があの様子では、記事にすることを許可しそうにはないが。
 玉砕覚悟の飛び込みは空木の得意とするところだ。しかし、その逆で、今みたいにこそこそと探るようなことは、どうにも性に合わなかった。
 ともあれ――
 きっかけはともかくとして、そうして知ったあの店は、思いがけず呪いと関わっているらしいことがわかっていた。これがどうなるかはわからないが――できることなら、いいように転べばいい、と空木は思っている。
 そんなことをつらつらと考えながら歩いているうちに、空木は自分が見知らぬ場所にいることに気づいた。はて、ここはどこだろう。そうして、見回した視線の先にあったものは――
 道の端を何かが動いている。初めは猫かと思った。しかし、よく見ると違う。ごろごろと、ひとりでに転がる、円筒型のあれはおそらく――七輪(しちりん)だ。
 ――なぜ七輪……
 ともかく、七輪が転がっているというだけなら、それほど奇妙なことではない。いや、普通はあり得ないことだが、絶対にないとは言い切れないだろう。
 しかし、その七輪はまるで意志でもあるかのように、平らな道を進んでいた。かと思えば、空木の目の前で曲がり角をきれいに曲がって行く。
 そもそもの話。あの形状では、真っ直ぐに転がることは難しいだろうに。いったい何が起こっているのやら。
 疲れているのだろうか。空木はとっさにそう思う。
 最近、たまにだが、こういった妙なものを目にすることがあった。妙なものではあるが、特に害のないものだ。空飛ぶ板だとか、木を登る赤い服だとか。
 本当に、自分は何か特別な力にでも目覚めたのでは――と考えたりもするのだが、それにしたって、ただ見えるだけなのはどうなのだろうとも思う。例えば、そのものに対して嫌な感じがする、とかであれば、それを避けたり、注意を促すこともできるだろう。しかし、そんなことは一切ない。ただ、本当に奇妙なものが見えるだけ。
 それでも空木は、どうしてもその七輪のことが気になった。仕方がないので、転がる七輪の後を追うことにする。
 そうしてついて行くうちに、七輪はふいに民家の門をくぐったかと思うと、そのまま中へと入ってしまった。
 開けられた門扉から、中をこっそりうかがってみる。見えたのは、あれこれ話をしながら動き回るいくつかの人影。どうも、家の中から何かを運び出しているようだ。引っ越しだろうか。
 しかし、肝心の七輪はどこにもなかった。どうも見失ってしまったらしい。この家の敷地に入って行ったことは確かなのだが。
 そのうち、中にいるひとりが空木のことに気づいた。けげんな顔で、何か用か、とたずねてくる。
 空木は思わず苦笑いを浮かべた。
「いや……ここに今、七輪が転がって来ませんでした?」
 空木がそうたずねると、相手はあからさまに顔をしかめる。
「あんた、何言ってんだ?」
「ですよね……」
 空木がそう返すと、会話を聞いていた別の人が、もしかして――と、話に入ってきた。
「まとめてゴミに出したやつですか? いいですよ。持って行っても。しかし、ゴミあさりとは……お若いのに」
 そう言うと、その人は空木に哀れむような目を向けてくる。何か勘違いされているようだ。しかし、うまく説明できる気がしない。空木がどうにも返答に困っていた、そのとき。
 目の前の家にある庭の、誰の姿もない一角から――突然、何かが爆ぜるような音がして、火の手が上がった。

     *   *   *

 燃え上がった炎を目にした途端、椿はすぐに問いかけた。
「翡翠。あれ、消せる?」
「問題ない」
 短い返答とともに、どこからともなく突風が巻き起こる。その風は、目の前の火を瞬く間にかき消した。
 門の内にいた人たちは皆、何ごとか、と火元の方へと向かって行く。そうして、その場に残されたのは――
 門前に立つ男がひとり、ぎょっとした顔で振り向いていた。
 とはいえ、驚くのも無理はないだろう。密かに彼の後を追っていた椿だが、火の手が上がったのを見て、思わず飛び出してしまっている。しかも、この男にとって、椿はここで出会うはずのない人物――彼が隠れて様子をうかがっていたらしい町屋の住人だ。
 案の定、男は椿の顔を見るなり呆然と呟いた。
「君は、あの店の……」
 椿は相手のことを無言でにらみつけた。
 そのことに恐れをなしたのか、男はためらいつつも、この場から逃げ出そうとする。店を探っていたことを咎められるとでも思ったのかもしれない。
 しかし、椿は彼の行く手に立ち塞がった。
「待ちなさいよ」
 男は立ち止まったが、いかにもばつの悪そうな表情を浮かべている。
 そのとき椿はふと思った。どうもこの男、日本式双晶を持っているわりには、その力を――あるいは、その存在すら――自覚していないようだ。そんな状態で怪異に首を突っ込もうなど、正気の沙汰ではない。
 内心で呆れつつも、椿は男にこう問いかけた。
「あなた、ここで何かを見たんでしょう?」
「どうして、それを……」
 戸惑う男に、椿は淡々と続ける。
「このまま放っておけば、また同じようなことが起こるかもしれない」
 椿がそう言うと、男は思案するような顔になる。そして、あらためて火の手が上がった家の方へと目を向けた。
 その表情からすると、目の前の怪事に素知らぬ振りをするつもりはないらしい。ならば、その力、少しは役立ててもらうことにしよう――椿はそう考えた。
「何を見たのか、教えてちょうだい」
 椿が有無を言わさぬ調子でそう言うと、男は諦めたようにため息をついてから、渋々といった風にうなずいた。
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