第十三話 燐灰石(一/四)

文字数 4,814文字

 いったいどこに行ってしまったのだろう。
 五歳になる息子の姿を探していた。近所の人に声をかけられて、ほんの少し目を離しただけ。それなのに、気づいたときにはもう、見える範囲のどこにもいなくなっていた。
 最近は、いつもこうだ。こちらの言うことなど、おかまいなし。近頃はただでさえ物騒なのだから、勝手な行動は謹んで欲しいものだが、遊び盛りの子どもがそんなことを聞き分けてくれるはずもなかった。
 とはいえ、ついさっきまでそこいたのだから、さすがに何かの事件に巻き込まれたというわけではないだろう。そんな心配をするには、まだ早過ぎる。それでも不安は拭えない。
 そうこうしているうちに、ふいに息子の姿を見つけた。遠目に見ただけなので顔ははっきりと見えないが、体格や服装からしても間違いはないだろう。
 通りを外れた――マンションかビルか――とにかく建物に挟まれた路地の奥まったところ。息子はそこで、暗がりに向かってしゃがみ込んでいる。
 入っても大丈夫だろうか。不安になりつつも足を踏み入れた。
 近づくにつれ、それが自分の息子であることを確信していく。ほっとすると同時に、今度は軽い苛立ちが頭をもたげた。
 息子のうしろに立ち、その背に声をかける。
「こんなところにいたの。黙っていなくなっちゃダメでしょう」
 叱るというより、思わず責めるような口調になってしまった。それでも息子は何かに――また、妙な生きものでも見つけたのか――夢中になっていて、こちらを振り向きもしない。
 大きくため息をついて、どうにか、かんしゃくを吐き出す。そのときふと、この場所のことが気になった。
 ぽっかりと空いた土地――いや、取り残されたと言うべきか――の中心に、ひと抱えもあるほどの岩が置かれている。その岩にはしめ縄がかけられていて、傍らには幹を曲げた細い木が、寄りかかるように生えていた。周囲には石碑や祠のようなものがあり、なぜか小さな賽銭箱まである。
 ここは――何だろう。
 どこかの家の裏庭にでも入り込んでいるなら、早々に立ち去らなければ、と思っていたのだが、何かただならぬ空気を感じて思わず身がすくんだ。動く様子のない息子の肩に手を置いて、その場から引き剥がすようにこう促す。
「早く帰りましょ。ね」
 しかし、息子から返ってきたのは、こんな言葉だった。
「ねこ」
 そう言って、息子はしゃがみ込んだまま、右手を伸ばしている。まるで猫とじゃれ合うかのように。
 いぶかしく思いつつも、こう問いかけた。
「……ねこさんがいたの?」
 息子の視線の先には猫などいない。少なくとも、自分の目には見えなかった。
 ふいに、りん、と鈴の鳴る音がする。姿は見えないが、本当にいるのだろうか。だとすれば飼い猫か。
 しかし、猫にご執心の割には、息子はその音に反応するわけでもない。どこかに隠れている猫を誘い出している、というわけでもなさそうだ。息子が見つめる先にあるのは、何もないただの暗がりだけ。
 その異様な雰囲気に、思わず顔をしかめた。それだけではない。どこからか妙な匂いがする。かすかだが、何かが腐ったような異臭が。
 たまらなくなって、強引に子どもの手を取った。息子は不満げな声を上げるが、取り合わない。
 そのまま逃げるようにして、その場を去った。

 後日のこと。やはりどうしても気になったので、あの場所のことを近所の人にそれとなくたずねてみることにした。
「あら。知らないの?」
「越してきて、まだそんなに経ってないものねえ」
 返ってきたのは、そんな反応だ。
 確かに、この土地に住み始めて、まだそれほど経っていなかった。生活に必要な施設ならばともかく、あのような奇妙な場所のことなど知るはずもない。
 それにしても、たずねた二人がそろってそんな反応を返すということは――
班女塚(はんにょづか)のことでしょう」
 どうやら、有名な場所だったらしい。異様な空間にでもまぎれ込んだのかと、半ば本気で思っていたので、とりあえずは、ほっとする。
「近くに小さな神社があるの、知らない? 繁昌神社(はんじょうじんじゃ)って言うんだけど、あの神社はもともと班女神社だかで、班女から繁昌になったんだとか」
 どうやら、あの岩は神社に縁のあるものだったらしい。だとすれば、賽銭箱があったとしてもおかしくはないだろう。
 とはいえ、場所が少し離れているし、関係ない建物に囲まれているようだった。跡地か、飛び地のようなものだろうか。
 何にせよ、その人が言うには、その神社は繁昌の名の通り商売繁盛がご利益なのだという。そのため、その岩――班女塚にも良縁成就のご利益があるのだとか。
 しかし、その場にいたもうひとりは、全く違う話をした。
「私は、班女塚に未婚の人が近づくと、ご縁がなくなるって聞いた気がするけど」
 縁を結ぶという話と、縁を切ってしまうという話。まるで正反対だ。どちらが本当なのだろう。
 そのとき、ふいに聞き覚えのある音がした。何だろう、と思ったのも束の間、それが何なのかを思い出した途端、息をのむ。
 それは、あの場合で――班女塚で聞いた音だった。しかし、その音を発しているはずの、それ自身の姿はやはり見えない。
 縁を結ぶ。まさかとは思うが、何か――猫の霊だろうか――にでも憑かれたのだろうか。班女塚に対して、うら寂しい印象を抱いていたこともあって、思わずぞっとする。気のせいであればいいのだが。
 そのとき、その疑念に応えるように、またあの音が聞こえた。りん、と――小さな澄んだ鈴の音が。

     *   *   *

 この日、店には珍しい客が訪れた。
「兄さま。黄玉を貸してちょうだい!」
 来て早々、そう言って槐に詰め寄ったのは、なずなだ。桜は槐とともに表の倉庫――ではなく、店の整理をしているところだった。
 なずなの唐突な申し出に対して、槐は虚をつかれたように、ぽかんと口を開けている。仕方がないので、それに代わって桜が応じた。
「どうしたんです。なずなさん」
 そうたずねると、なずなは槐に迫った勢いのまま、桜の方へと向き直る。
「一大事なのよ。桜くん。私で力になれるかはわからないけど、居ても立ってもいられなくって」
「はあ。一大事。何ですか? その一大事って」
 桜の気のない返事に、少々むっとしながらも、なずなはこう答える。
「知り合いのうちの猫ちゃんがね。帰って来ないらしいの」
 桜は思わず槐と顔を見合わせた。何を言うかと思えば、猫。しかも、知り合いの。
 その反応を見て、なずなはじれったそうに、こう続ける。
「一大事でしょう! うちの子がいなくなったらと思うと……他人事じゃないわ」
「ああ……なずなさんのところ、猫を飼ってましたね。そういえば」
 店の片づけを再開しながら、桜は上の空で呟く。
 片づけ、といっても、たいしたことはしていない。積み上げられた箱の中を確かめては、より分けて、また積み上げていく、という不毛な作業をしていただけだ。ここにある箱の中身は、ほとんどが石。捨てるわけにもいかないし、他にしまう場所など、この家のどこにもありはしない。
 それでも、もはや足の踏み場もないこの空間をどうにかしようと、今日は朝から二人で四苦八苦していた。
 それにしても、なずなは他所の猫のことで、どうしてそこまで必死になっているのだろう。桜にはよくわからない。猫というものは、とぼけているように見えて案外したたかなものだ。そのうち戻ってくるのではないだろうか。
 なずなの大げさな取り乱しように桜はただ呆れていたが、槐の方はその言い分でいろいろと納得したようだ。頬を膨らませているなずなに、苦笑しながらこう言った。
「その猫を探しに行くんだね? かまわないよ。黄玉を連れていくといい」
 なずなはそれを聞くと、例の部屋へとすっ飛んで行く。ほどなくして、黄玉を持ち出したなずなが戻って来た。
「さあ、行くわよ。黄玉」
 息巻くなずなのうしろには、なぜか椿の姿がある。桜たちの視線に気づくと、ばつが悪そうな表情でこう行った。
「……行ってくる」
 どうやらなずなについて行くようだ。槐は特に意外に思う様子もなく、行ってらっしゃい、と声をかけた。
 椿も案外、面倒見がいい方だ――と桜は思う。なずなの面倒を椿が見るというのも、おかしな話だが。
 椿はどうやら、たまになずなのところへ遊びに行っているらしい。石たちのほとんどは眠っているようなものだとはいえ、この家では気の休まらないこともあるのだろう。
 音羽家の外から来ている者同士ということもある。そんな事情もあってか、あの二人は割りと仲がいい。
 なずなと椿を見送ったあと、ふいに槐が呟いた。
「何か、いいきっかけでもあったかな」
 その言葉で桜は、はっとする。
 そういえば――なずなは長らく、この家を――というより槐と黄玉のことを――避けていたのだった。沙羅がいるときにはよく顔を出していたが、あんな風にひとりで気軽に訪れることはしばらくなかったことだ。
 あまりにあっさりと現れるものだから、桜はつい普通の対応をしてしまった。しかし、事情を知らない槐にしてみれば、突然のことを奇妙に思ったかもしれない。なずなへの反応が遅れていたのも、そのせいだろう。
 それにしても、鬼とのことがあったとはいえ、こうも変わって――いや、本来に戻ったというべきか――しまうとは。桜が声をかけても、なかなか遊びに来てくれなかったのに。桜としては少々複雑な心境だ。
 とはいえ、槐の方も多少は驚いたようだが、呆気なくその事実を受け止めてもいる。そんなものなのかもしれない。どう話したものかと思っていた桜は、内心でほっとしていた。
 槐は嬉しそうに、こう続ける。
「それならばよかったよ。なずなは、あれでけっこう頑固というか、意地を張る方だろう? でも、わだかまりがとけたのなら……安心した」
 桜は思わず、槐の顔をじっと見つめた。
 そのわだかまりの原因を――あのときのことを、槐はどう考えているのだろう。そんなことを、ふと思ったからだ。
 しかし、桜は今、それをたずねる気にはなれなかった。たずねてしまえば、答えを聞くことになる。万が一、望まない答えが返ってきたら――きっと、どんな顔をしていいかわからない。
「どうかしたのかい?」
 物思いに沈んでいると、槐がいぶかしげにそう言った。桜の視線に気づいたからだろう。
「いいえ。何も」
 そう言って、桜は首を横に振った。軽く苦笑を浮かべながら、去って行ったなずなたちの影を追うように視線を逸らす。
「まあ、人というものは時間とともに変わっていくものですからね。僕たち石とは違って。それでいいんだと思いますよ。僕は」
「――何を言ってるんだか。変わったという意味では、石の中で一番変わったのは、間違いなく君だと、僕は思うけどね。桜石」
 唐突に会話に割り込んできたのは石英だった。目の前に姿を現した彼は、さらにこう続ける。
「昔に比べれば、ずいぶんと丸くなったものだよ。本当に」
 しみじみとそんなことを言う石英に、桜はあからさまに顔をしかめた。
「そういう、昔の話とかやめてもらえませんか。何しに出てきたんです。石英さん」
 槐のいるところで、昔の話など――桜は本気でやめて欲しかった。槐はおそらく過去の桜を知らない――茅が変に書き残していなければ、だが。
 そうでなくとも、桜にとって過去は鬼門だ。できればあまり、思い出したくない。
 それがわかっているからだろう。石英はやけに楽しそうに、こう言った。
「僕が意味もなく出てきてはいけないのかい。まあ、今はそう――きかん坊の桜石の話をしに来たのではないのだよ」
 桜は、ぐう、と押し黙る。これ以上、下手に何かを言えば、逆にからかわれるだけだろう。だとすれば、沈黙するよりほかない。
 そう思って桜が口を閉ざすと、石英は思いのほか真面目な表情になって、槐の方へと向き直った。
「それで、槐。例の件だが――」
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