第七話 孔雀石(三/四)

文字数 3,622文字

「笛の音、そして、その音色を交わす、ということなら、思い浮かぶものがあります。あれは確か、朱雀門(すざくもん)の――」
 それを聞いて、言葉を詰まらせていたはずのその人は、え、声を上げた。
「どうして場所がわかったんですか? 確かに、音が聞こえるのは、その辺りで……」
 その反応に、槐は苦笑する。
「いえ、すみません。私が言いたかったのは、朱雀門の鬼の話と似ているかもしれない、ということなのです」
「鬼……?」
 その人は、虚をつかれたように呟いた。槐はうなずく。
「鎌倉時代の説話集『十訓抄(じっきんしょう)』にある話のひとつです。都一の笛の名手である源博雅(みなもとのひろまさ)が月夜に朱雀門で笛を吹いていたところ、この世のものとは思えないほどの笛を吹く者が現れます。何度か笛を合わせるうち、互いの笛を交換することになったのですが、そのまま月日は過ぎ、源博雅も亡くなり、しばらく笛を吹きこなすものがいなくなる。その後に、帝が新たな笛の名手に朱雀門で笛を吹かせたところ、それに応える声があり、それが鬼の笛であることがわかった、という話です」
 唐突な話に、その人は呆気にとられたような表情を浮かべた。まさか、鎌倉時代から伝わる、それも鬼の話が出てくるとは思わなかったのだろう。
 しかし、確かにそれは、彼女の話と一致する部分もなくはない。この世のものとは思えないほどの笛の音。それを吹く者の正体は、鬼――
「朱雀門の鬼というと、もうひとつ、双六で賭けをする鬼という話もあるのですが……何にせよ、その音の正体が本当に鬼なら対処も容易かもしれません」
「容易……でしょうか。相手は鬼ですよね?」
 その人は、半信半疑ながら、その話に乗ることにしたらしい。少し疑わしげに、そうたずねる。
 槐はそこで、何かに気づいたように目をしばたたかせた。その横では、口には出さないものの、なぜか呆れたような顔で桜が肩をすくめている。
 槐は仕切り直すように、軽く咳払いをした。
「そうですね。鬼、というものは、(おぬ)、が語源とされているとおり、もとより目には見えない、得体の知れないものを指してはいました。今だと、いわゆる妖怪といった、化け物のように理解されているのでしょう。しかし、この物語に登場する鬼が風流を知る者として書かれているとおり、心を介さない化けものというわけではない。そして、鬼という名はその時代のまつろわぬ者たちや、異分子が負わされた名でもあります。今回のことも、そういった鬼が関わっている可能性もありますが――」
 その人は、おずおずと首を横に振った。
「どうでしょう。あの音色は確かに美しいのですが、心が入っていない、といいますか、淡々としていて、とても心ある演奏者によるものだとは――少なくとも、私にはそう思えません」
 槐はその答えに、わかりました、とうなずいた。そして、おもむろに席を立つ。少々、お待ちください、とだけ言い残して。
 そうして次に現れたときには、槐の手には石が――手のひらに収まるほど大きさの、緑の石が乗せられていた。
 槐はそれを彼女へと差し出す。
孔雀石(くじゃくいし)です。英語名であるマラカイトはゼニアオイという植物のギリシャ語名が由来でして、その名のとおりあざやかな緑の鉱物です」
 それは、丸みを帯びた突起が不規則にある、不透明な緑の石だった。表面は照りが見られるほどつるりとしているが、それでいてベルベットのような光沢のある部分も見られる。
「銅の錆である緑青(ろくしょう)と同じ成分の石で、磨くと緑色の濃淡で縞模様が出てきます。それが同心円状にもなり孔雀の羽に似ていることから、日本では孔雀石の名がつきました。加工しやすい石ですので、昔から宝石として、あるいは顔料として利用されています」
 その人はそれを受け取りつつも、はあ、と生返事をした。今までの話の流れで、どうしてこうなったのか、と戸惑った様子だ。
「こちらの石に、その音をお聞かせ願えますか」
 槐の言葉に、その人は助けを求めるように困った表情で振り向いた。しかし、視線の先で、茴香が力強くうなずくものだから、彼女は無理矢理にでも納得したようだ。わかりました、と答えながら、その石を軽く握りしめる。
 そうして、彼女は店を去っていった。孔雀石を手にして――

「今日はお時間いただき、ありがとうございました」
 孔雀石を渡されたその人が去ったあと、花梨は槐にそう声をかけた。茴香は彼女につき添って、すでに店を辞している。
「この件、解決するでしょうか」
 間接的にではあるが、この店をすすめたこともあって、花梨はそのことを気にしていた。さすがに部外者である自分が、これ以上首を突っ込むわけにもいかない――とはいえ、あとは待つだけというのも、どうにも不安になる。
 しかし、槐は慣れた様子でほほ笑んだ。
「孔雀石に任せてみましょう。彼の力で難しいようでしたら、あらためて考えてみます」
 槐の言葉に花梨はひとまずうなずいた。
「それにしても、槐さんは石のことはもちろん、怪異というか、その逸話にもくわしいんですね」
 花梨がそう言うと、槐は少し寂しそうにうなずいた。
「そう、ですね。私の父が、民俗学の研究者だったこともありまして。おそらく、自然と」
 槐はいつの日にか、亡き父――と言っていた気がする。花梨は思わず黙り込んだ。
「おそらく父は――石に秘められた力のことを知りたかったのだと思います。曾祖父は必要以上のことを残してはくれませんでしたから。祖父もよくわかっていないようでしたし――祖父の関心はむしろ石そのものの方にあったようで、研究者というわけではありませんが、鉱物についていろいろと書き残してくれました。そういった知識は、祖父譲りと言えるかもしれません」
「槐さんが石と怪異のこと、両方にくわしいのはそのためだったんですね」
「そうですね。こんな商いをしていますから。曾祖父の残した石たちと、祖父と父の残した知識のおかげで、今の私はあるのでしょう」
 そう言った槐に、花梨は思い切ってこうたずねる。
「今回のことは、朱雀門の鬼が関係しているのでしょうか」
 それとも、そうではないのだろうか。あのときの槐は、まるで鬼が実在するかのように話していた気がする。
「関係しているとも、していないとも言える――と私は考えています」
 曖昧な答えだ。花梨の戸惑いが伝わってしまったのか、槐は苦笑する。そして、珍しく自信を欠いた様子で、こう話し始めた。
「これは、あくまでも私の推論に過ぎないのですが――怪異というものは、過去の残滓のようなもの、ではないかと思っているのです。ですから、その時点であるかないか、と問われれば、それはない。しかし、在ったか、ということならば、間違いなく在った、あるいは在ったとされるものなのです」
 漠然とした表現だった。そのことは槐も自覚しているようだ。どう説明するべきか迷うように、しばし考え込む。
「そうですね……戻橋の話を例にすると――あの場所には確かに橋占が行われていた、という逸話があります。かといって、今あの場所でこぞって橋占を行うようなことは、おそらくないでしょう。しかし、そのことを心にとめた誰かがある日、戻橋を渡ったとする。そのとき、たまたま耳にした話し声が、その人の行く末を当ててしまった。すると、戻橋だからだ、ということになる。もし、それが何の歴史も逸話もない橋だったとしたら、それは橋による予言とはならない。あるいは、話し声など端から気にもとめないかもしれません。そういう意味では、戻橋にはすでにそういう背景があるのです」
「でも、柚子さんはそういったことには無頓着な方だったようですが」
 槐はうなずく。
「人の意識を越えて作用する、ということは、そこに在ったという事実がそれだけ強いということなのだと思います。その事実を内包する場や物などが、それだけの力を持っているのだと。言わば、それが怪異。鳥辺野の葬地としての記憶も、戻橋の逸話も、朱雀門の物語も――例えば、どこそこで幽霊が出る、といった噂などもそうでしょう。人はその場所で、時間を越えて怪異を見出してしまう。ですから、見える人には見えるし、見えない人には見えない、ということが起こり得るのです」
 場所や物が力を持つ、ということは、この店の石たちが力を持っていることと、近い理屈なのかもしれない。槐の話を聞きながら、花梨はそう考える。
「朱雀門の鬼の物語が、あの場に影響を与えた可能性はあるでしょう。しかし、あれはおそらく、朱雀門の鬼の笛の音そのものではありません――そうなると、心の持ちよう、ということにもなってくると思うのですが、怪異とは、そもそもそういうものではないかと、私は考えます」
 心の持ちよう。そう言われて、花梨が思い浮かべたのは、姉のことだった。偶然の不幸。続いた不運。しかし、その渦中にあった人たちにとっては、それは確かにあった呪いだったのかもしれない。
 だとすれば、姉の周囲で起こったことは――
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