第十話 忍石(一/六)
文字数 3,593文字
椿は今日もひとり、座敷で本を読んでいた。
お気に入りの座椅子を持ち込んで、椿はよくこの場所にいる。適度に陽の光が入るし、風の通りもいいので、快適に過ごすのには申し分ない。店の客が訪れない限り、椿は大抵ここにいた。
できることなら、客も含めて誰もここには連れて来ないで欲しい、と椿は常に思っている。とはいえ、店の方は目も当てられない惨状なのだから、そうもいかないのだろう。わかってはいるが、ここで静かに過ごしたい椿には迷惑極まりないことだった。
そもそも椿は本の虫ではないし、外に出ることを嫌っているわけでもない。むしろ、どちらかというと外を歩くことの方が好きなのだが、この時間にひとりでいると周囲に見咎められることもある。それが面倒なだけだった。学校にも行かずにふらふらしているのだから、仕方のないことかもしれないが。
椿は人ごみが――いや、人というものが嫌いだ。関わらないなら、それに越したことはない。
そんな理由で、椿は今日もひとり本を読んでいた。本を読むのは、当てもなく街を散策するのに似ている。そうして何ごともなく静かに過ごせるなら、それでいいだろう。
文字を追いながら、そんなことを考えていた矢先――ふいに襖の動く気配がした。
椿は顔を上げて、廊下の方へと視線を向ける。わずかに開いた隙間から、こちらに視線を送っているのは桜だ。何かを言いたいらしいが、言いにくいことなのか、じっとこちらの様子をうかがっている。
「何」
と言って椿がにらみつけると、桜は渋々こう言った。
「それが、お客様みたいなんですよね」
だから何だというのだろう。この部屋から去れということだろうか――と考えてから、椿はふと槐が外出していることを思い出した。
いつもの客なら椿がいても問題ないだろうし、石が目当ての客なら大抵はあらかじめ約束しているはず。だとすれば――
嫌な予感がして、椿はため息とともに目の前の本を閉じた。
「私にどうしろっていうの」
「たぶん、例のあれに呼ばれたんだと思うんですよ。このまま帰してしまうのは、まずいかと」
椿は思わず顔をしかめた。
例のあれだの、人の姿をとって現れる石だの、この家は本当に面倒ごとが多い。とはいえ、その面倒ごとは、椿にとってもっと面倒だったものと引き換えとなったものだから、そう簡単に無視できるものでもなかった。
本を置いて、椿は立ち上がる。どうすべきかを決めた訳ではない。しかし、ここで不平を言ったところで意味はないだろう。ならば、とにかくその客とやらを見てみようか。それとも――
考えた末に、椿は客のところへ行くことはやめにした。そちらはひとまず桜に押しつけて、向かったのは石たちのねぐらとなっている、あの部屋だ。
町屋に不釣り合いなその洋間は、いつものように暗がりに沈んでいた。そこには誰の姿もなかったが、わだかまった影には何かが潜んでいるような――実際、この場にいると言えばいるのだが――妙な気配だけがある。
椿は真っ先に、碧玉の本体が残されていることを確認した。碧玉を伴っていないなら、槐は遠方に出たわけではないだろう。すぐに帰ってくるだろうし、それまで客のことはこの石にでも任せてしまおうか――と、そこまで思って、果たしてこれにそんなことができるだろうか、と思い直した。
椿は碧玉が苦手だ。嫌うほどまともに会話をした覚えもないが、居丈高に話すことを知っているので、何となく気後れする。その振るまいは、椿の知る限り誰に対しても変わらない。
そう考えると、そんなものに客の相手ができるとも思えなかった。愛想のない翡翠にも、それはおそらく無理だろう。石英は論外。話にならない。だとすれば――
「……灰長石 」
「何かな、椿のお嬢ちゃん」
お嬢ちゃん、と言う呼び方には若干の抵抗を覚えたが、この状況で指摘するほどのことでもない。椿は聞かなかったことにして、目の前に現れた人の姿をしているそれに、こうたずねた。
「客だそうよ。あなた、相手できるの」
「おや。槐の坊ちゃんはお出かけか。まあ、店主の代わりなら慣れている。任せてもらってかまわないよ」
――坊っちゃん、て……
相手もいい年なのだから、その呼び方はどうかと思う。しかし、椿はそれについても無視することにした。内心では呆れながらも、あらためて目の前の姿に向き直る。
赤茶色の髪の青年は、灰長石という石の化身だ。よく見ると、その目には銅色の光が散っていて、不思議な輝きをしている。
どうも石たちの中では古株らしく、それが理由かはわからないが、見た目のわりにどこか年寄りくさい。翡翠の話では、石たちが自我を得た時期に、それほど隔たりがあるわけではないということだったが。
何にせよ、少なくとも碧玉よりは話しやすい相手だった。他の石たちも彼のことは古参として扱うので、何かあったときに話が通りやすい。
いつだったか、まだ椿がこの家に慣れていない頃、勝手に石を持ち出そうとしたときにそれをやんわりと止めたのもこの石だった。それ以来、槐のいないときに何かあれば、この石に断りを入れるのが無難だと椿は思っている。
「それで、お客はどんなお人だい?」
灰長石の問いかけに、椿は肩をすくめた。
「さあ。まだ会ってない。桜は、あれに呼ばれた客だ、とか言っていたけど」
灰長石は訳知り顔で、ふむとうなずいた。
「あれに呼ばれた客なら、そう難しいことじゃない。客自身が、自分に必要なものを、勝手に選んでいくだろう」
相変わらず、よくわからない理屈だ。ここではそういったことが自然と受け入れられているが、椿はいまだに、こういう常識はずれなことには慣れなかった。これから先、慣れる気もしない。
椿ですらそうなのだから、どんな怪異も不思議も知らずに生きてきた者たちにとって、ここはきっと魔窟のようなものだろう。それとも、そう感じるのは、自分がまだこの家にとって異物に過ぎないからだろうか。そんなことを、椿は思う。
この家の非常識と親しくするつもりもないが、爪はじきにされるのも釈然としない。いつもだったらくわしくたずねようと思わないのだが、そのときの椿はそれがどうしても気になった。
だから、灰長石にこう問いかける。
「その――あれとやら、槐ですらよくわかってなさそうなのに、あなたはよく知っているのね」
その言葉に、灰長石は何がおかしいのか声を上げて笑った。
「ここにいる石で、あれを知らないものはいないよ。お嬢ちゃん。まあ、槐の坊っちゃんは、あれの本性など知るはずもないがね。残念ながら――か、あるいは幸いなことに、か――今はあれと言葉を交わす手段がないのだから」
灰長石の答えに、椿は思わず顔をしかめた。
言葉を交わすことができる、のか――あの、ご丁寧になぜかこの家の神棚に祀ってある、あの石とも。
石。やはり石だ。しかし、それは何の変哲もない石だった。少なくとも、椿の目にはそうとしか思われない。まだこの部屋にある石たちの方が珍しい。
槐が言うには、それは――怪異に困っている人をやたらと呼び寄せる、のだそうだ。話を聞く限りでは、それに関しては槐もよくわかっていないらしい。
だからというわけではないが、今の今まで椿はそれをただのいわくつきの石だと思っていた。この部屋にあるものではないから自我はないものだと、そんな風に決めてつけていた。しかし、灰長石の言葉を信じるなら、事情は少し違うらしい。
椿はさらにたずねる。
「そもそも、あの石が口をきくなんて、知らなかったんだけど。どうして、それとは話ができないの? 槐も姿は見たことない?」
灰長石は快活に笑う。
「お嬢ちゃんが言っているのは、この姿のことだろう? それなら、あれにはそもそも、そんなものはないよ」
わけがわからなかった。椿が顔をしかめると、どこか別の場所から声がかかる。
「あまりお嬢さんを困らせるのではないよ。灰長石」
「困らせているつもりはないんだがなあ。玻璃長石 」
灰長石は笑いながら、その声に応えている。椿はそのやりとりに、深くため息をついた。
こうして思わぬところから口出しされることも、ここではよくある。よくあることなのだから、いちいち苛立っていてはきりがないが、少なくともこのときの椿は水を差されたような気がした。おかげで、それ以上のことをたずねる気が失せてしまう。
そんな椿の心の内には気づかずに、灰長石は人の良さそうな笑みをこちらに向ける。
「さて、お客をあまり待たせてもいけない。連れて来てくれるかな、お嬢ちゃん。こちらで、良いようにするとしよう」
そこで椿はようやく、今の状況を思い出した。
灰長石の言うとおり。こんなことはさっさと終わらせて、いつもの場所に戻る方がいいだろう。
椿はそう考えて、今日の客――何らかの問題を抱えているらしい、その客の元へと向かった。
お気に入りの座椅子を持ち込んで、椿はよくこの場所にいる。適度に陽の光が入るし、風の通りもいいので、快適に過ごすのには申し分ない。店の客が訪れない限り、椿は大抵ここにいた。
できることなら、客も含めて誰もここには連れて来ないで欲しい、と椿は常に思っている。とはいえ、店の方は目も当てられない惨状なのだから、そうもいかないのだろう。わかってはいるが、ここで静かに過ごしたい椿には迷惑極まりないことだった。
そもそも椿は本の虫ではないし、外に出ることを嫌っているわけでもない。むしろ、どちらかというと外を歩くことの方が好きなのだが、この時間にひとりでいると周囲に見咎められることもある。それが面倒なだけだった。学校にも行かずにふらふらしているのだから、仕方のないことかもしれないが。
椿は人ごみが――いや、人というものが嫌いだ。関わらないなら、それに越したことはない。
そんな理由で、椿は今日もひとり本を読んでいた。本を読むのは、当てもなく街を散策するのに似ている。そうして何ごともなく静かに過ごせるなら、それでいいだろう。
文字を追いながら、そんなことを考えていた矢先――ふいに襖の動く気配がした。
椿は顔を上げて、廊下の方へと視線を向ける。わずかに開いた隙間から、こちらに視線を送っているのは桜だ。何かを言いたいらしいが、言いにくいことなのか、じっとこちらの様子をうかがっている。
「何」
と言って椿がにらみつけると、桜は渋々こう言った。
「それが、お客様みたいなんですよね」
だから何だというのだろう。この部屋から去れということだろうか――と考えてから、椿はふと槐が外出していることを思い出した。
いつもの客なら椿がいても問題ないだろうし、石が目当ての客なら大抵はあらかじめ約束しているはず。だとすれば――
嫌な予感がして、椿はため息とともに目の前の本を閉じた。
「私にどうしろっていうの」
「たぶん、例のあれに呼ばれたんだと思うんですよ。このまま帰してしまうのは、まずいかと」
椿は思わず顔をしかめた。
例のあれだの、人の姿をとって現れる石だの、この家は本当に面倒ごとが多い。とはいえ、その面倒ごとは、椿にとってもっと面倒だったものと引き換えとなったものだから、そう簡単に無視できるものでもなかった。
本を置いて、椿は立ち上がる。どうすべきかを決めた訳ではない。しかし、ここで不平を言ったところで意味はないだろう。ならば、とにかくその客とやらを見てみようか。それとも――
考えた末に、椿は客のところへ行くことはやめにした。そちらはひとまず桜に押しつけて、向かったのは石たちのねぐらとなっている、あの部屋だ。
町屋に不釣り合いなその洋間は、いつものように暗がりに沈んでいた。そこには誰の姿もなかったが、わだかまった影には何かが潜んでいるような――実際、この場にいると言えばいるのだが――妙な気配だけがある。
椿は真っ先に、碧玉の本体が残されていることを確認した。碧玉を伴っていないなら、槐は遠方に出たわけではないだろう。すぐに帰ってくるだろうし、それまで客のことはこの石にでも任せてしまおうか――と、そこまで思って、果たしてこれにそんなことができるだろうか、と思い直した。
椿は碧玉が苦手だ。嫌うほどまともに会話をした覚えもないが、居丈高に話すことを知っているので、何となく気後れする。その振るまいは、椿の知る限り誰に対しても変わらない。
そう考えると、そんなものに客の相手ができるとも思えなかった。愛想のない翡翠にも、それはおそらく無理だろう。石英は論外。話にならない。だとすれば――
「……
「何かな、椿のお嬢ちゃん」
お嬢ちゃん、と言う呼び方には若干の抵抗を覚えたが、この状況で指摘するほどのことでもない。椿は聞かなかったことにして、目の前に現れた人の姿をしているそれに、こうたずねた。
「客だそうよ。あなた、相手できるの」
「おや。槐の坊ちゃんはお出かけか。まあ、店主の代わりなら慣れている。任せてもらってかまわないよ」
――坊っちゃん、て……
相手もいい年なのだから、その呼び方はどうかと思う。しかし、椿はそれについても無視することにした。内心では呆れながらも、あらためて目の前の姿に向き直る。
赤茶色の髪の青年は、灰長石という石の化身だ。よく見ると、その目には銅色の光が散っていて、不思議な輝きをしている。
どうも石たちの中では古株らしく、それが理由かはわからないが、見た目のわりにどこか年寄りくさい。翡翠の話では、石たちが自我を得た時期に、それほど隔たりがあるわけではないということだったが。
何にせよ、少なくとも碧玉よりは話しやすい相手だった。他の石たちも彼のことは古参として扱うので、何かあったときに話が通りやすい。
いつだったか、まだ椿がこの家に慣れていない頃、勝手に石を持ち出そうとしたときにそれをやんわりと止めたのもこの石だった。それ以来、槐のいないときに何かあれば、この石に断りを入れるのが無難だと椿は思っている。
「それで、お客はどんなお人だい?」
灰長石の問いかけに、椿は肩をすくめた。
「さあ。まだ会ってない。桜は、あれに呼ばれた客だ、とか言っていたけど」
灰長石は訳知り顔で、ふむとうなずいた。
「あれに呼ばれた客なら、そう難しいことじゃない。客自身が、自分に必要なものを、勝手に選んでいくだろう」
相変わらず、よくわからない理屈だ。ここではそういったことが自然と受け入れられているが、椿はいまだに、こういう常識はずれなことには慣れなかった。これから先、慣れる気もしない。
椿ですらそうなのだから、どんな怪異も不思議も知らずに生きてきた者たちにとって、ここはきっと魔窟のようなものだろう。それとも、そう感じるのは、自分がまだこの家にとって異物に過ぎないからだろうか。そんなことを、椿は思う。
この家の非常識と親しくするつもりもないが、爪はじきにされるのも釈然としない。いつもだったらくわしくたずねようと思わないのだが、そのときの椿はそれがどうしても気になった。
だから、灰長石にこう問いかける。
「その――あれとやら、槐ですらよくわかってなさそうなのに、あなたはよく知っているのね」
その言葉に、灰長石は何がおかしいのか声を上げて笑った。
「ここにいる石で、あれを知らないものはいないよ。お嬢ちゃん。まあ、槐の坊っちゃんは、あれの本性など知るはずもないがね。残念ながら――か、あるいは幸いなことに、か――今はあれと言葉を交わす手段がないのだから」
灰長石の答えに、椿は思わず顔をしかめた。
言葉を交わすことができる、のか――あの、ご丁寧になぜかこの家の神棚に祀ってある、あの石とも。
石。やはり石だ。しかし、それは何の変哲もない石だった。少なくとも、椿の目にはそうとしか思われない。まだこの部屋にある石たちの方が珍しい。
槐が言うには、それは――怪異に困っている人をやたらと呼び寄せる、のだそうだ。話を聞く限りでは、それに関しては槐もよくわかっていないらしい。
だからというわけではないが、今の今まで椿はそれをただのいわくつきの石だと思っていた。この部屋にあるものではないから自我はないものだと、そんな風に決めてつけていた。しかし、灰長石の言葉を信じるなら、事情は少し違うらしい。
椿はさらにたずねる。
「そもそも、あの石が口をきくなんて、知らなかったんだけど。どうして、それとは話ができないの? 槐も姿は見たことない?」
灰長石は快活に笑う。
「お嬢ちゃんが言っているのは、この姿のことだろう? それなら、あれにはそもそも、そんなものはないよ」
わけがわからなかった。椿が顔をしかめると、どこか別の場所から声がかかる。
「あまりお嬢さんを困らせるのではないよ。灰長石」
「困らせているつもりはないんだがなあ。
灰長石は笑いながら、その声に応えている。椿はそのやりとりに、深くため息をついた。
こうして思わぬところから口出しされることも、ここではよくある。よくあることなのだから、いちいち苛立っていてはきりがないが、少なくともこのときの椿は水を差されたような気がした。おかげで、それ以上のことをたずねる気が失せてしまう。
そんな椿の心の内には気づかずに、灰長石は人の良さそうな笑みをこちらに向ける。
「さて、お客をあまり待たせてもいけない。連れて来てくれるかな、お嬢ちゃん。こちらで、良いようにするとしよう」
そこで椿はようやく、今の状況を思い出した。
灰長石の言うとおり。こんなことはさっさと終わらせて、いつもの場所に戻る方がいいだろう。
椿はそう考えて、今日の客――何らかの問題を抱えているらしい、その客の元へと向かった。