第三話 翡翠輝石(三/三) 

文字数 3,051文字

 残された花梨は椿から渡された包みと石燕を手に、道の真ん中に立ち尽くしていた。黒曜石は姿を消していたが、鏃はもちろん花梨の手元にある。
 黒いツバメが消えた今、周囲には何の異変もなかった。
「槐さんのところへ、行かないとね」
 花梨は誰にともなく、そう呟いた。当初の目的とは違うが、この件を槐に報告しないわけにはいかないだろう。
 そうして来た道を引き返し始めてすぐ、花梨は黒曜石に問いかけた。
「椿ちゃんって甘いもの好き?」
「……なぜ、そんなことを?」
 黒曜石の戸惑った声に、花梨は苦笑する。椿から受け取った包みをちらりと見て、花梨はこう答えた。
「今回のことのお礼に、何かお菓子でも買っていこうかと思って」
 危機を脱することができたのは、彼女のおかげだ。椿はどうということはないような態度だったが、それでも呼びかけに応じてくれたのは、彼女が見た目どおり無愛想なだけではないからだろう。
 そうでなくとも、椿を巻き込んでしまったことを、花梨は申し訳なく思っていた。せめてものお礼として、菓子折りくらいは持って行かなくては。
 花梨は槐の店へ向かう前に、祇園の商店街へと足を向けた。そうして、そこにある和菓子屋をのぞいてみる。
 椿が甘いものを好きなことはおそらく間違いないだろう。が、細かい味の好みとなると花梨にはわからない。黒曜石も、さすがにそこまでは知らないようだ。
 何がいいだろうか。花梨は店頭に並べられた菓子をながめながら迷う。
 そのとき、花梨の背後から別の客が近づいて来た。
「お。水ようかんかー。夏だねえ」
 その男性は並べられた菓子をながめながら、そう呟いた。まだ決めかねていた花梨は、その人に注文を譲る。彼もまた、何を買うのかを悩んではいたようだが、すぐに決心したようにうなずくと、こんなひとりごとを口にした。
「よし。エリカさんの分も、買って帰ろう」
 花梨は目を見開く。
 エリカ。それは花梨が探し求めてやまない人の名だ。偶然? それとも――
「……花梨?」
 小さく自分を呼ぶ声がした。黒曜石だろう。花梨は、はっとして、物思いを振り払うように軽く首を振る。
「何でもない」
 珍しい名前ではない。ならば偶然、耳にすることもあるだろう。こんなことをいちいち気にしていては、身が持たない――
 花梨が戸惑っている間にも、男性は水ようかんを数個求めると、すぐにその場を去って行った。

「大丈夫でしたか? 花梨さん」
 そう言って、真っ先に出迎えたのは桜だった。その様子がひどく心配そうだったので、花梨は少し驚く。
 そうして桜とともに坪庭まで来ると、ふいに黒曜石がその姿を現した。よく見ると、庭の石灯籠の上に一羽のカラスがとまっている。
 カラスは黒曜石の姿を認めると、翼を広げて彼の元まで飛んできた。そして、そのまま黒曜石と一緒に消えてしまう。
 花梨が不思議に思っていると、黒曜石がこう言った。
「これは私の一部であり、眷族でもある」
 とのこと。よくわからないが、桜に話が伝わっていたのは、このカラスのおかげなのだろう。
 ふいに、桜が花梨の持っているものを見て、こう言った。
「花梨さんが持ってるその飴。椿ちゃんがよく買ってるやつですね。幽霊の飴。近くに椿ちゃんがいて、よかったです」
「幽霊……?」
 そう問い返した花梨に、答えたのは槐だった。
「飴買い幽霊ですね。子を残して亡くなった母親が、子供のために飴を買い求める……という話で、日本の各地に似たような話が伝えられています。その飴が、今でも売られているのですよ」
 縁側に立った槐はそう言って、にこりと笑うと、こう続けた。
「無事で何よりでした。黒曜石の便りで心配していましたよ。問題ないとは、聞いていましたが」
 問題ないと聞いた、ということは、すでに椿は帰っているのだろうか。少なくとも、近くに姿はなかった。
 花梨は槐を前にして、深々と頭を下げる。
「すみません。槐さん。椿ちゃんを巻き込んでしまいました」
 その言葉に、桜はあわてたように口を開く。
「そんな。花梨さんのせいじゃないですよ。それに、黒曜石さんと翡翠さんがそろえば、大抵のことはどうにかなりますから」
「ええ。皆が無事で、何よりです」
 槐も同意するようにうなずく。
 あらためて座敷に招かれて、花梨は槐たちに一部始終を話した。呪いの依り代となったという化石――石燕も槐に託す。
「それにしても、椿ちゃんも石を持っていたんですね。驚きました」
 花梨がそう言うと、槐と桜は顔を見合わせた。
「そういえば、この前話していたとき、椿ちゃんがいたんだから、翡翠さんもいましたね……」
「あのとき紹介していればよかったかな」
 そんなことを話し始める。桜は自分がうっかりしていたことは棚に上げて、ため息をついた。
「椿ちゃんも、ひとこと言ってくれればいいんですけど。絶対に気づいてましたよ。まあ、この場合は、翡翠さんがもっと自己主張するべきなのかな。翡翠さん無口だから。というか、黒曜石さんも、気づいていたなら言ってくださいよ」
「……私が口出しすることではないと思ったのだが」
 と、黒曜石の声。彼は続けてこう言った。
「そもそも、ここにいる、というだけなら、まだまだ石はいる。まさか全員、引き合わせるつもりではないだろう?」
「まあ、切りがないですからね」
 そんなやりとりを聞いて、槐は苦笑していた。
「では、あらためて……彼のことを話しておきましょうか。彼は翡翠輝石。翡翠の勾玉です」
「本人、いないですけど」
 と、つけ加えたのは桜だ。
「翡翠、というのはいろいろと意味のある言葉で、鳥のカワセミの異称でもあり、緑の宝石の総称でもあります。これはジェイドとも言いますね。鉱物名としては翡翠輝石。ジェダイトです」
「翡翠と翡翠輝石は違うのですね」
 花梨の問いかけに、槐はうなずいた。
「ええ、厳密には。翡翠輝石はそれだけで結晶を成すことはほとんどない。ですから、彼も翡翠輝石の微細な結晶を含む岩石です。形状は見てのとおり勾玉。古代日本の装身具で、牙や魂、あるいは胎児を表しているなど、いろいろな説があります」
 花梨は椿の持っていた翡翠の勾玉を思い浮かべた。なぜかなじみのある形だが、確かに何を模しているか、というと何とも言いがたい。
「翡翠という言葉が幅広く捉えられているその原因は、これがもともと中国の言葉であるためで、古代の中国では緑の宝石を総じて翡翠と呼び、珍重していたからです。しかし、当時は同じような特徴を持つ石として、翡翠輝石を主とする翡翠輝石岩と、軟玉――ネフライトと呼ばれる宝石とが混同されていました。この二つは見た目ではほとんど区別がつきません。ただ、翡翠輝石岩は軟玉に比べて硬い、ということで硬玉とも呼ばれています」
 槐はそう言うと、花梨に向き直った。
「彼も強い力を持っている。椿も無謀な行動をしたわけではないでしょう。そうであれば、翡翠も止めます。ご心配には及びません」
 花梨が気に病んでいるのを、安心させるための言葉だろう。花梨はひとまずうなずいた。
「とはいえ、このようなことに会われて、鷹山さんも不安でしょう。ただ、これだけ大がかりなことは、そう何度もできることだとは思えません。こちらでも対策を考えてみましょう」
 槐の言う通り、今回のことは黒いもやとはわけが違った。花梨の道行く先に、あの呪いがあったということは、花梨の行動が知られ、先回りされているということだ。
 不安は尽きない。しかし、花梨は槐に、ただうなずくことしかできなかった。
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