第一話 黒曜石(一/四)

文字数 4,609文字

 誰かにつけられている。
 そのことを自覚するより先に、嫌な気配のようなものは感じていた。確信したのは人通りの少ない道を歩き始めてから。しかし、それが一体誰なのか、何の目的があるのか――考えてみても、とっさに思い当たる節はなかった。
 昔から何かにつけてさとい方だ。人の気配。視線。悪意。そういったものには、よく気づく。だから、これは勘違いや気のせいではないだろう。
 だとすれば――
 時は夕刻。場所は大通りから少し外れた細い小路。古めかしい家屋が両端に並んでいるが、表札も看板もないせいで、一目見た限りでは民家と商店の区別もつかない。
 それは自分がこの街になじんでいないせいなのか、それともそういう情緒なのか。住み始めて二か月程度の身では、いまいちわからなかった。ただ、静かな通りは、どこかただならぬ空気に満ちている。
 辺りに人影はない。とはいえ、ここは街中だ。まだ明るいし、周辺や家の中にも人はいるだろう。この状況で危険があるとも思えない。
 それでも用心するに越したことはないか。そう思い直して、近くに助けを求められるような場所がないかを探した。何かお店か、そうでなくとも人がいる場所。大通りの方へ向かって、人波にまぎれるでもいい。とにかくそういった場所で、この嫌な気配を断ち切りたかった。
 そのときふと、とある場所が目に入る。
 なぜその戸をくぐろうと思ったのか。その理由は自分でもよくわからない。少なくとも外観はおよそ店らしくない。それでも、そのときはなぜか、ここなら安心だと直感したのだった。
 以前、姉につれて行ってもらったことのある、町屋を改装したという隠れ家のようなカフェに少しだけ似ていたからかもしれない。その店を正確に覚えていたわけではなかったが、それを思い出したことが、戸をくぐる抵抗を軽くさせたことは確かだった。そうでなくとも、普段から何かを決断するとき、自分の直感には重きを置いている。
 手をかけると、格子戸は音を立ててすんなりと開いた。
 その先にあったのは奥まで続く土間の通路。天井は吹き抜けのようになっていて、右手は木と漆喰の壁。左手は――閉め切った板戸だろうか。
 夕暮れだが、それでもこの通路のほうが薄暗く感じた。ただ、奥の方は外につながっているのか、ほのかに明るくなっている。
 物音はしなかった。お店という感じもしない。それ以上進むことはためらわれ、さりとて退くこともできずに佇んでいると、ふいに通路の向こうからひとりの青年が顔を出した。
 年の頃は自分と同じか、下くらい。つまりは十八か、その辺り。きょとんとした表情で、無言のままこちらを見つめている。様子をうかがっているのか、こちらの出方を待っているのか。少し奇妙だったが、不思議と嫌な感じはしなかった。
 何かひとことでも発してくれればよかったのだが、青年はしばらくすると、何も言わずに立ち去ろうとしてしまう。追いすがるように思わず声をかけた。
「あの」
 青年は驚いたような顔で振り向いた。その反応に、こちらの方が憮然としてしまったくらいだ。
 挫けそうになりつつも、どうにか問いかける。
「あの。ここはお店ですか?」
 相手は目をしばたたかせた。そして、ちらりと奥の方を振り返る。
 見当違いなことを言っただろうか。そう思っていると、彼はおずおずとこう言った。
「ええ。まあ、一応……」
 曖昧な答えだ。それでも、答えがあったこと自体に内心でほっとする。
 青年は少し迷う素振りを見せていたが、すぐに思い直したようにこちらへ向くと、軽く笑みを浮かべた。こうして見ると、人好きのする顔立ちというか、妙に人懐こい印象を受ける青年だ。
「すみません。少し待っていてもらえますか?」
 青年はそう言うと、奥へと消えていった。歓迎されてはいないかもしれないが、邪険にされているわけでもないらしい。少なくとも表向きは。
 何にせよ訪問を許可されたのだと受け取って、通路へと一歩踏み出す。開けたままだった戸を後ろ手で閉めると、遠くから声が聞こえてきた。
(えんじゅ)さん? 槐さーん」
 先ほどの青年だろう。呼ばれた名は、この家の――あるいはこの店の――主だろうか。
 青年はしばらくすると、通路の奥から再び顔を出した。軽く手招きをするので、おそるおそる進んで行く。
 暗い通路を抜けた先、その出口に続いていたのは明るく小さな庭だった。
 足を踏み入れてまず目を引いたのは、あざやかな新緑の紅葉。残照の木もれ日が苔むした地面に落ちている。そこにはいくつか飛び石が並べられていて、奥に置かれた石造りの水鉢には静かに水がたたえられていた。茂みの向こうには小さな石灯篭もある。
 家屋に囲まれた空間にもかかわらず、ここはとても明るかった。こぢんまりとしているが、見ていてほっとするような庭だ。
「お気に召されましたか?」
 思わず見とれていたところに、声をかけられてはっとする。声の主は――庭に面した縁側に立っていた着流しの男性だ。
 この街では着物姿も他よりまだ目にする方だが、それでもこの人はずいぶんとこなれている感じがした。年は三十代くらいだろう。落ち着いた、いかにも穏やかそうな人だ。
「どうぞ、お上がりください」
 男性はそう言うと、縁側からさらに奥の方を指し示した。それに従い進んで行くと、開けっ放しの戸の向こうに上がり框が見えてくる。ここから中に入れ、ということだろうか。こういう家屋にくわしいわけではないが、ずいぶんと変わった構造をしている。それにしても。
 ――入っても、いいものだろうか。
 ここが普通の店ではないことは、とうにわかっていた。ここから先に足を踏み入れるか否か。もし引き返すつもりなら、今しかない。
 そんな考えが頭をかすめはしたが、心の内では端から引き返すつもりなどなかった。自分の直感には信を置いている。あくまでも、今回はそれに従うことを決めていた。
 脱いだ靴をそろえてから家屋に入る。廊下の先では、庭に面した座敷から出てきたばかりらしい先ほどの男性が、ひとり佇み待ち構えていた。
 男性は多くを語らず、そのまま別の部屋へと先導する。おとなしくそれにつき従い、後ろ姿を追って行った。
 どうぞ、と通された場所は薄暗い部屋。窓がないのか、それとも閉めきっているのか。すぐにわかったのは、ここが畳ではなく板間の部屋であるということだった。
 顔を上げて、暗がりに慣れた目であらためて室内を見回す。そこにあるものの正体に気づいた瞬間、はっとした。
 三方の壁にいくつもの棚か据えつけてある。そして、その棚の上にあったのは、あらゆる姿、形の――
 石だ。
 棚の上にきちんと並べられていたのは無数の石。そのひとつひとつが、おそらくは違う種類の石だった。
 その辺りの道ばたや河原で拾ってもおかしくないようなものもあれば、明らかにそうではない、変わったものも並んでいる。しかし、そのいずれもが、石、ということに違いはなかった。
「いかがでしょうか。噂を聞きつけて、これを目当てに訪れる方もいらっしゃいます」
 男性はそれらをながめながら、感慨深そうにそう言った。
 ここは石を売っているお店なのだろうか。それとも、個人の博物館のようなものか。何にせよ、突然の訪問は慣れたものらしい。それなら、自分の来訪もそれほど奇異には見られていないだろう。
 そうして余裕が生まれれば、好奇心も湧いてくる。こういった珍しい石――あるいは鉱物と呼んだ方がいいのか――に造詣があるわけではなかったが、それでもさまざまな石が並んでいるのを見るのは目にも楽しかった。
 とはいえ、いつまでもこうしてはいられない。
 実際のところ、ここを訪れたのは、全くの偶然だ。何かにつけられている気がしたから。ここなら安全だと思ったから。他人からすれば、実に不確かな話でしかない。
 たとえ自分の直感に信を置いていたとしても、他人にまでそれを求めるつもりはなかった。当然、信じてもらおうなどとは思っていない。しかし、そうなると、この来訪をどう言い訳したものか、という現実的な問題に引き戻されずにはいられなかった。
 だから、たわいもない嘘をつく。
「実はここを訪れたのは、たまたまなんです。変わった建物に見えましたから。私はこちらの大学に通うため、この春からこの街に住み始めたのですが、勉学のためにいろいろと拝見させていただいていて……」
 大学に入ってから――いや、入る前からでも、この手の会話は幾度となく交わした。ありきたりな理由だが、相手を納得させるにはちょうどいい。
 この街で行動するときも、表向きはそれを理由にしていた。そもそもが古い街なので、その歴史に、文化に興味があると言えば、それで説明にはこと足りる。
 しかし、このときは少し様子が違っていた。その言い分を聞いた男性は明らかに表情を曇らせたからだ。何か気を悪くさせるようなことを言っただろうか。いぶかしんでいると、男性は確かめるようにこう返す。
「なるほど。偶然、ですか」
 その呟きに含まれた、ただならぬ空気に少し警戒心がもたげた。
 自分の直感には信を置いている――とはいっても、何もかも信じるわけではないし、疑いがないわけではない。そして、それに頼ることの危うさも理解しているつもりだった。
 しかし、次の言葉を聞いた瞬間、その自信がほんの少し揺らぐ。
「あなたは何か、よくないものをつれていらっしゃる。ここに来たのは何か、お困りだからではないですか?」
「――なぜ……」
 それを――と、続きそうになった言葉を飲み込んだ。指摘されたことには覚えがあったが、それに言及したことも、悟られるような行動をした覚えもない。そう思って、必死に考えを巡らせる。
 そうして不安にさせることで、何かを買わせようという算段だろうか。困っている者ほど、それを指摘されれば虚をつかれるもの。よくある手だ。
 ただ彼は、はっきりとこう言った。よくないものをつれている、と――
 男性は、じっとこちらの反応をうかがっていたようだが、しばらくすると、ふいに苦笑した。
「いえ、私も決して、くわしいわけではありませんので、確かなことは言えませんが。それに、一時的なものかもしれませんし、怖がらせてはいけませんね。もし見当違いのことを言ったのでしたら申し訳ございません。ただ、ここは――そういう方が迷い込んでくることがよくあるのです」
 その言葉をいぶかしんでいると、男性はこう続けた。
「どうにも、ここにあるものが、そういった方を呼び寄せてしまうようで」
 それを聞いて、思わず周囲を見回した。たくさんの石。そのたわいもない収集品が、何か得体の知れないものであるかのように思えてくる。
 すべてを鵜呑みにするわけではない。しかし、すべてを否定してしまえるほど、これらの石のことを知っているわけでもなかった。
 返す言葉も失って、呆然と目をしばたたかせるしかない。自分の意志で道を選んできたつもりが、知らず影響を受けていたとでも言うのだろうか。ここにある、ありふれた――ではないが、それでも、ただの石ころに。
 しかし、ここを安全な場所だと思った、ということは、そういうことなのかもしれない。とはいえ、その言葉を素直に受け入れるほど、自分は単純でも、追い詰められてもいない――つもりだった。
 面倒なことになる前に立ち去ろうか。そう思った、そのとき。
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