第十七話 鶏冠石(三/四)

文字数 5,166文字

 襖が閉まると同時に、室内はしんと静まり返る。ひとり震える少女に向かって、槐は気づかうようにやさしく声をかけた。
「あなたは、この呪いを止めたいと思っている――ということで、よろしいでしょうか」
 少女は嗚咽を飲み込むと、力なくこう答えた。
「わからないんです。止めてしまったら……この先、何も変わらない。だったら」
 いっそ――と、少女は思い詰めた表情で呟く。槐は軽く顔をしかめた。
「あなたは、その呪いを止めることを――迷っている?」
「ごめんなさい……」
 彼女のその言葉に、室内は再びしんと静まり返った。
 少女にとって、この呪いはそれだけ切実なものなのだろう。今もまだ、諦めきれないほどに。
 しかし、だからといって、この件を容認するわけにはいかない。花梨がその対象であるということを抜きにしても――呪いが成就することは、阻止しなければならなかった。少女がどれだけの人に石をふれさせたかはわからないが、彼女の言うことが本当なら、これは命を奪う呪いなのだから。
 花梨は思わず槐の横顔に目を向けた。槐はそのことには気づかずに、淡々と少女に向かって問いかける。
「その百日目まで、あと何日か教えていただけますか?」
「……明後日です」
 少女は思いのほかあっさりと、それを打ち明けた。彼女自身にも、迷いがあるからかもしれない。
 槐はその答えにうなずくと、こう話し始めた。
「あなたのお気持ちはわかりました。しかし、このことを知ってしまったからには、こちらとしても、止めるように動かないわけにはいきません。あなたもご存知のとおり、彼女も――その石にふれてしまったようですから」
 槐はそこで、花梨のことをちらりと見やる。しかし、すぐに少女の方へと向き直った。
「ただ、強引に呪いを返せば、あなた自身に害が及ぶ可能性があります。そうならないように、どうかご協力いただけませんか」
 少女は沈黙している。槐は話を続けた。
「あなたにとって、これは決死の思いでのことだったのかもしれません。しかし、誰かを傷つけてしまったあとでは、取り返しがつかない。たとえそこに、自分にとっての正当な理由があろうと、不慮のことであろうと――」
 取り返しがつかない、という言葉に、少女は花梨の方をちらりと見やる。花梨は彼女のまなざしを、ただ真っ直ぐに受け止めた。
 黙していた少女が、そのときふいに口を開く。
「私は」
 そこで軽く息をはいてから、彼女は意を決したように――こう言った。
「この呪いを止めたいです。無関係の人まで巻き込むのは……違うと思うから」
 少女がそう口にした瞬間、張り詰めた空気がほっとゆるんだように思えた。とはいえ。
 桜は難しい顔をしながら、槐にそっと耳打ちする。
「でも、人を殺すほどの呪いですよ。それを、何の影響もなく返すことなんて、できますか?」
「そうだね。この呪いの条件……百日、となるとやはり――」
 槐がそう呟きながら考え込んだ、そのとき。
「その石、どうも獣くさいなあ」
 不遜にも――床の間に腰かけるようにして、唐突に見知らぬ青年が姿を現した。髪色は赤く逆立って、目の色は赤色にわずかに黄色が混じっている。
 彼はにやにやと笑いながら、そこに置かれていた水石に――横柄にも肘をかけていた。その姿を見て、槐は彼のことをこう呼ぶ。
鶏冠石(けいかんせき)……」
「げ。何しに出て来たんです。鶏冠石さん」
 桜は心底嫌そうにそう言った。少女は突然のことに驚き、目を見開いたまま固まっている。
「ああ? 俺が出て来ちゃ悪いかよ。桜石」
 鶏冠石はそう言って桜に凄んでから、槐に向き直ると軽い調子でこう言った。
「その呪い、俺ならうまく返せるぜ。なあ、槐」
 槐はしばし無言で鶏冠石を見返した。意味深に笑う鶏冠石に、槐はこう問いかける。
「君に、この件を任せられるのかな?」
「もちろん」
 どこか楽しげに、鶏冠石はそう答えた。
「ええ?!」
 と、やりとりに口を挟んだのは桜だ。
「やめた方がいいのでは……」
 桜はそう言って、槐のことをうかがっている。しかし、槐が取り合う様子がないのを見て取ると、今度は鶏冠石の方へと詰め寄った。
「そもそも、深泥池の件だって協力しなかったくせに、何だって急に出てきたんです?」
「あ? 何で俺がそんなもんに協力しなけりゃならねえんだよ。関係ないだろ。それとこれとは」
 桜と鶏冠石がにらみ合う。槐は苦笑しながら席を立つと、ひとり座敷を出て行った。しばらくして戻って来た彼の手にあったのは――目の覚めるような赤い石。
「鶏冠石。その名の由来は、ニワトリのとさかのように赤いことから。英語名はリアルガー。こちらはアラビア語で、鉱山の粉を意味する言葉が由来です。ヒ素の硫化鉱物で赤い柱状に結晶しますが、光に弱く、長くさらされると変化し、黄色い粉となって砕けてしまいます」
 白っぽい石の上に、あざやかな赤の結晶が見える。その名のとおり、ニワトリのような色彩だ。
 その赤は花梨が受け取った辰砂の色とも似ていたが、鶏冠石の方は少し橙色がかっているだろうか。そして、その化身となると、同じ赤なのに性質は全く異なっているようだ。辰砂が落ち着いた様子だったのに対して、鶏冠石は見るからに粗野な印象を受ける。
 ただ、鶏冠石が言った――呪いを返せる、という言葉は確からしい。でなければ、槐がこの石を持ち出すことはないだろう。
 槐は手にした鶏冠石を少女に差し出すと、こう言った。
「こちらをお持ちください。彼の力なら、その呪いを終わらせることができるでしょう」
 少女はその石に向かって、おそるおそる手を伸ばす。鶏冠石は床の間で、それをにやにやと笑いながら見つめていた。


「大丈夫でしょうかね……」
 少女と、それにつき添った片桐を見送ったあと、桜は心配そうにそう言った。槐は例の――石たちの部屋に行ってしまったので、通り庭に立っているのは花梨と桜だけだ。
 桜の呟きに、花梨はこう問いかける。
「それって、もしかして鶏冠石さんのこと?」
 桜は曖昧な答えを返す。とはいえ――
 花梨にも、桜が危惧する理由はわかる気がした。花梨は鶏冠石と初めて会ったが、今まで会った石たちとは、ずいぶん雰囲気が違っている。思わず――任せても大丈夫だろうか、と思ったほどには。
 しかし、桜は花梨に心配をかけまいと思ったのか、慌てたようにこう言い直した。
「すみません。不安にさせてしまいますよね。この呪いには、花梨さんも関わっているんですから……でも、槐さんもああ言ってますし、石英さんも何も言ってこないんですから、きっと大丈夫ですよ。そうですよね。黒曜石さん。辰砂さん」
 そうして桜は、今は姿を見せていない石たちに、そう話を振ったのだが――
「そう、だな……」
「私からは何も言えない」
 と、黒曜石からは歯切れの悪い答えが、辰砂からはそんな言葉が返ってくる。桜は思わず顔を引きつらせた。
「信用されてないですね……鶏冠石さん」
 桜はこの場の空気を変えようと――ともかく、と話を切り替えた。
「この件が解決したら、きっと花梨さんの傷も治りますよね。それまでは、お願いしますよ。辰砂さん」
 承知しているよ、と答える辰砂に、花梨は感謝の意を込めてうなずき返す。
 鶏冠石のことは心配ではあるが――それでも、花梨はこの呪いをあまり怖いとは思っていなかった。なぜかはわからない。それよりはむしろ、人を殺せるほどの呪いがある、という点が気になっている。
 深泥池の件で、花梨の身に起こったことのほとんどは浅沙によるものだとわかっていた。そのことで、姉の行方に関する手がかりは、ついえたようにも思ったのだが――
 浅沙が残した言葉もある。そして、周囲にあった噂と不審な死のことを考えると、姉はやはり、呪いに関する何らかのできごとに巻き込まれた可能性があるのではないだろうか。
 浅沙には、よりくわしい話を聞かなければならない。この日に思わず彼に会ったことで、花梨はその必要性をあらためて強く感じていた。
 当の浅沙は座敷を出されたあと、早々にひとり帰されていたらしい。彼については、後日にあらためて、必ずこの店まで連れて来る、と片桐は言っていたが――
「そういえば、片桐さんって何者だろう。古木守……だっけ?」
 ああ、と声を上げてから、桜はこう答えた。
「古い木は化けることがあるんです。古木守は日本中にあるそんな木を管理してる集団で。元は山を放浪する民の末裔――とか。今は違うのかな?」
 化ける木ということは、彼も怪異に関わる人物、ということなのだろう。土蜘蛛の末裔らしい浅沙と彼とは、どんな関係なのだろうか。
 花梨が考え込んでいると、桜は肩をすくめてこう続けた。
「まあ、あのひと個人のことはよくわかりませんけど。ある程度、怪異のことにはくわしいと思うので、浅沙とかいう、くもの人よりは信頼できると思いますよ」
 浅沙から、ちゃんとした話が聞けるかどうか、心配していたところではあったが――あの様子からすると、そう不安になることもないのかもしれない。わずかながら光明が見えてきた気がして、花梨はひとまずほっとしていた。

     *   *   *

 深泥池で手に入れた石と、奇妙な店で借りた石。そのふたつを自室の机の上に並べて、しばらくじっと見つめていた。
 今では、わからなかった石の名前もわかっている。かんかん石と――そして、もうひとつの方は鶏冠石だ。どちらも変な名前だ、と思う。
 もしかしたら、かんかん石の方はあの店に預けることになるかもしれないと思っていたのだが――これもこの場にそろっていないと呪いがきちんと返せないかもしれない――と石を貸してくれた人は言う。だから、相反する二つの石がここに並べられていた。
 呪う石と呪いを止めるという石――
 そのとき、ふいに誰かがこう言った。
「あんた、嘘をついただろう」
 その言葉に、どきりとする。
 周囲を見回すと、部屋の窓に寄りかかるようにして赤い髪の青年が現れていた。一応、説明してもらっていたので驚きはしない。彼は――今ここにある赤い石――自身なのだと言う。
 信じがたい話だが、実際に何もないところから姿を現すところを見てしまっては、信じないわけにはいかなかった。それに、この石が呪いを止めてくれるというのだから、邪険にするわけにもいかない。
「……何のこと?」
 と、とぼけると、その青年――鶏冠石はせせら笑った。
「本当は止めたくなんてないんだろう。その呪いを。だけど、あの場所であんなやつらに囲まれてちゃ、そう言わないわけにはいかないよなあ」
 その言葉に、思わず顔をしかめる。確かに――そうだ。あの場では、ああ言うしかなかった。他に、どんな選択肢があっただろうか。
 しかし、本当の気持ちは――
「どうしてそんなことを言うの? 呪いを止めてくれるんでしょう?」
 そう問い詰めたが、相手はにやにやと笑うばかり。
「いいや? 別にかまわないぜ。止めなくても」
「な」
 何を言うのだろう。自分が何を言っているのか、わかっているのだろうか――
 言い返せないでいると、鶏冠石はこう続ける。
「止めないって言ってるんだよ。あんたが本当にそれを望むなら」
 おそるおそる、こうたずねた。
「でも……あの店にいた、あの人が――死んでしまうかもしれないのに?」
 鶏冠石は肩をすくめるだけだ。
「そんなこと、かまいやしないさ。どうでもいいね。俺にとっては」
 その答えに、思わず言葉を失った。彼はとんでもないことを言っている。しかし――
 それでも、すぐに否定することはできなかった。そうして黙り込んでいると、鶏冠石はさらに大それたことを言い始める。
「それに、止めなくたって、槐は別にあんたを責めたりはしないさ。現に、あのときもそうだっただろう? かわいそうなあんたのことなら、おやさしいあいつらのことだ――ちゃんと同情してくれるって」
「で、でも――」
 思わずそう言ったことで、自分の気持ちがかたむきかけていることに気づいた。本当のところは、どちらを望んでいるのだろうか。どちらを選んだとしても、ここには自分を止める人はいない――
 鶏冠石は、なおもこう言う。
「あそこには記憶を消す、なんてことができる石もあるぜ。これで罪悪感に悩まされることもない。安心しただろう? なあ?」
 何も答えられなかった。どうすればいいのか、わからない。
 そうして戸惑う様子を、鶏冠石はしばらくながめていたが、彼はふいに――ふんと軽く一笑した。
「まあ、そういうことだ。どうしても呪いを止めたいって言うなら――そう言ってくれ。俺はどちらでもかまわない」
 それだけを言い残して、鶏冠石はその姿を消してしまう。
 呆然と立ち尽くしていると、やがて夜がやって来た。どこからか、かん、かん、かんと音がする――
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