第六話 黄鉄鉱(三/五)

文字数 4,029文字

「あれ? 花梨さん、今から宵山に行くんですか?」
「何。結局行くの。行くなら、ベビーカステラ買ってきて」
 驚く桜に、あくまでも淡々としている椿。黄鉄鉱を手にして座敷に戻った花梨を迎えたのは、そんなふたりだった。
 花梨は桜に軽く事情を説明する。それを聞いて、桜は顔をしかめた。
「石英さんがそんなことを……でも、わざわざ黄鉄鉱さんまで連れ出しておいて、何もない、なんてことはないと思いますけど」
 今はもう姿を消した黒曜石が、それに応える。
「それはわかっている。しかし、彼があれほどまでにすすめるからには、おそらく何かしら意味があるのだろうと――」
「なるほど。そうやって押し切られたんですね」
 桜にそう言われて、黒曜石は黙った。実際にやり込められている場面を見ているので、花梨は軽く苦笑する。
 それにしても、これほどまでに心配されるとなると、自分が下した判断はこれでよかったのだろうかと、どうにも不安になってくる。それが表情に出ていたのか、桜が取り成すように口を開いた。
「まあ、石英さんが大丈夫、というからには、大丈夫だとは思いますけど。問題は、それを言ったのが石英さんだってことです。だって石英さんですよ」
 やはり、そういうことになるらしい。不合理なことを言っている気もするが、言わんとしていることはわかる気もする。
 そんな風に話しているうちに、その場に槐がやって来た。黄鉄鉱を持って、突然宵山に行くと言い出した花梨に、槐は驚くこともなく穏やかにほほ笑む。
「そうですか。これから宵山に。ぜひ楽しんできてください」
 唐突な心変わりを、いぶかしむ様子もない。花梨は槐のことが何となく底知れない気もしたが、実のところ深い意味はないような気もした。
 椿とはお土産の約束をして、桜には見送られつつ、花梨は槐とともに通り庭へと向かう。そうして表へと続く戸から出る直前、槐は花梨を呼び止めた。
「お帰りのときにお渡ししようと思っていたのですが……」
 槐はそう言うと、手にしていたものを花梨に手渡した。和紙に包まれたそれを、花梨は軽く開く。中に入っていたのは、白いのっぺりとした石。
「今日、こちらに届いたものです。もともと店にあったものではないので、特別な石ではありません。しかし、伝手を当たって、こちらに簡単な術を施してもらいました」
 花梨が驚いて目を見開くと、槐は苦笑した。
「そんなたいそうなものではありませんよ。ご祈祷をしてもらった、くらいに考えてください」
 槐は白い石を指して、こう話す。
「これは、こぶり(いし)。ほとけ(いし)菩薩石(ぼさついし)とも呼ばれます。珪乳石(けいにゅうせき)――メニライトという不純物を含む蛋白石――オパールの一種です」
 その説明を聞いて、花梨はあらためてこぶり石を見た。受け取った石は丸っこく、簡単な人の形――頭と体だけの単純なものだが――をしている。
「それを、今回は人形(ひとがた)として見立てました。ちゃんと作用するかわかりませんが、これもひとつのお守りとしてお待ちください」
 黄鉄鉱に、こぶり石。そして当然、黒曜石も伴って、ちょっとそこまで行くのに、ずいぶんと重装備になってしまった。
 しかし、ここまで来ると、花梨も覚悟ができてくる。そうでなくとも、今から見る光景に少しだけ期待を抱き始めていることに、花梨も自覚せずにはいられなかった。


 祇園の四条通りは、すでに人でごった返していた。
 今日に限っては人の流れのほとんどは山鉾町がある方、四条大橋へと集中している。その流れに乗って歩きながら、花梨は手にした石に話しかけた。
「何だかつき合わせてしまったみたいで、すみません。黄鉄鉱さん」
 黄鉄鉱。その鉱物の存在は、すでに本で見て知っていた。鉄と硫黄から成る鉱物。何よりも、その見た目が印象に残っている石だ。測ったように均整のとれた立方体はどこか作りものめいていて、何も知らなければ自然に産出したものだとは思わないだろう。
 槐から借りた黄鉄鉱も、いくつかの立方体が寄り固まったような形だった。金色の光沢も相まって、まるで誰かが細工でもしたかのように思われる。
 花梨の呼びかけに、黄鉄鉱は苦笑まじりに応えた。
「お互い災難だ。あの石に目をつけられたんだから。まあ、そう気負わずに、気楽に行こうじゃないか」
 慣れたものなのか、それともこの石の気質か。何にせよ、黄鉄鉱の言葉に花梨は少しほっとした。あの場所にある石たちは、おそらくはすべてが花梨に友好的なわけではない。しかし、少なくともこの石は力を貸してくれるようだ。
 雑踏の音にまぎれて、次に声を上げたのは黒曜石だった。
「花梨。石英がすまなかった。他には見えないものが見えるせいか、たまに突飛なことを言い出す。勝手な言動は、碧玉に戒められているはずだが……」
 石英のことはともかくとして、花梨は碧玉という名が気になった。石英と会話していたときにも、耳にした気がする。
「そうは言うがね。音羽の者ほどではないが、石英には甘い方だよ。あの石は」
 これは黄鉄鉱の言葉だ。その石の人となり――と言っていいのか――を知らない花梨は、内心で首をかしげている。そのことを察したのか、黒曜石はこう言った。
「碧玉は、君の前に姿を現すことはないかもしれない。彼は、音羽家の者以外には……少々厳しいところがある」
 黒曜石は濁すようにそう言った。黄鉄鉱も同調する。
「そうそう。まあ、別に音羽の者に特別甘いというわけでもないが。槐すら頭が上がらないようだし。怒るとものすごく怖い。あまり関わらない方がいい」
 いつかのとき、特別な石についての問いに、槐と桜が言葉を濁した理由がわかった気がする。石英と碧玉。前者は言わずもがな、後者もまた、話を聞いているだけでも厄介そうだ。ともかく。
 しばらく人波にまぎれて歩いて行くと、いよいよ祭りの空気が近づいてきた。
 宵山のこの時間、四条大橋から西側の堀川通りと交わるところまで、四条通は歩行者だけの通れる道となる。橋を渡り終える頃には人も格段に多くなり、祇園の辺りを歩いていたときの比ではなくなっていた。
 いつもは車が通っているところにもすでに人が満ちていて、皆笑いさざめきながら道端にある山鉾を渡り歩いている。両端の建物の中からも、思い思いに祭りの光景を楽しんでいる姿が見えた。
 山鉾を飾っている提灯の光が、日も落ちて夕闇に沈みゆく空に煌々と浮かぶ。その山鉾からは、独特な調子のお囃子の音が聞こえていた。
 もちろん、人の声も止むことはない。山鉾に近づいて行くにつれて、それは徐々に大きくなり、花梨がそれらのただ中に入り込む頃には、人の多さで自由に身動きできないほどになっていた。
 初めての祇園祭に圧倒されて、花梨は言葉を失う。唐突に来ることを決めたせいで、どこに向かっていいかもわからないが、それでも祭りの雰囲気に浮かされて、花梨は流されるままに四条通りから北への通りに曲がっていった。ここはどこの通りだろう。四条通りより狭い通りだが、山鉾が建っていせいか、やはり人は多い。
 非日常の空気。確かに、これは入り込むだけでも特別な何かを体験している気になってくる。しかし、こんなことなら、ここに来る前に少しは祭りについて調べておくべきだった、と花梨は軽く後悔した。
 空がすっかり暗くなり、提灯の明かりがよりいっそう輝く頃。ぼんやりと歩いていた花梨はふと、人のあふれた通りとは別の道を横目に見た。山鉾がないためか、こちらには人影が全くない。暗い夜道に、ただ街灯だけがぽつぽつと一部を照らしている。
 ――誰もいない道?
「あれ? 鷹山さん?」
 そのときふいに、誰かに声をかけられた。振り返った先に、人をかき分けながら現れたのは、同じ大学の同回生。
「笹谷さん」
 講義を受けているとき、ノートを貸して欲しいと頼まれた相手だ。それ自体は変わったことではないが、大学では人に避けられるのが常だったので、花梨は彼女にどう接するべきかを決めかねていた。
 そんな戸惑いを知ることもなく、彼女の方はいつも気兼ねなく話しかけてくる。
「友だちと来たんだけど、はぐれちゃって。こんなに人、多いんだね。祇園祭って。びっくりしちゃった。鷹山さんはひとり?」
 答えに迷っているうちに彼女が目を向けたのは、花梨も気にしていた誰もいない通り。
「あ。ここの道、人が少ないね。あたし、人波で疲れちゃって。ちょっとひと休み……」
 花梨は、はっとした。行かせてはいけない。直感に従い、手を伸ばし引き止めようとする。
「待って、笹谷さん」
 しかし、伸ばした手が彼女をつかむことはなかった。それどころか、花梨はとっさにその手に持っていたもの――黄鉄鉱を手放してしまう。まるで、何かの意志に従うように。
 そして、彼女は――笹谷茴香は姿を消した。黄鉄鉱とともに。跡形もなく。
 花梨は慌てて誰もいない通りに入る。しかし、そこはもう普通の道だ。人通りは少ないとはいえ、人影がないわけではなく、背後からは変わらず祭りの喧騒が聞こえてくる。
 黒曜石が姿を現した。彼もまた、この事態に焦っている様子だ。
「花梨。呪いの依り代は、おそらくこの辺りに隠されているだろう。しかし、この暗がりでそれを見つけることは、私の得手ではない。槐に助けを求めるべきかもしれない」
 黒曜石はそう言った。やはり、何かが――おそらく花梨のことを狙っていたはずの呪いが――関係のないはずの茴香に作用してしまったのだろうか。
 花梨は考える。黒曜石の言うように、槐の店に帰った方がいいのかもしれない。しかし――
「石英さんが問題ない、と言っていたのが気になるの。それも、黄鉄鉱さんまで持たせて」
 花梨は石英の言葉を思い返す。こうなることを、彼は知っていたのだろうか。それなら、あの提案には何の意味があったのだろう。
 ――もしかして、試されているのだろうか。
 祭りからは少し外れたその道で、自分の為すべきことについて、花梨は必死で考えを巡らせた。
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