第五話 針鉄鉱(四/五)

文字数 4,607文字

 槐の店にやって来た花梨は、座卓に置かれたものに気づいて、あ、と声を上げた。
 そこにあったのは、いつの日か槐が柚子に渡した針鉄鉱だ。橋で声が聞こえたのか、それとも、また別の理由か。何にせよ、彼女はこの店に再び訪れたらしい。
 花梨の方は、すっかり槐の店に通い詰めるようになっていた。姉のことが行き詰まっているせいもあるが、それを言い訳にしてここへやって来るのは、結局のところ、この場所を居心地よく感じているからだろう。そんな事情で今日もまた、花梨は甘味をお土産に店に来ている。
 部屋の隅では、椿が本を読んでいた。桜はいつものようにお茶を用意してくれたところだ。珍しく槐の姿はない。
「柚子さん、店に来たんだね」
 花梨は桜に向かって、そう言った。桜はお茶を淹れた湯のみをふたつ置くと――石たちは飲み食いはしないらしい――こう答える。
「来られましたよ。針鉄鉱さんから話を聞いた槐さんが、橋占のことを話されていました」
「私、あの人苦手」
 菓子に飛びつきながら、椿が呟く。
 柚子が再来したときには、どうやら椿が居合わせたらしい。おそらく、あのときと同じように自分の店のことを宣伝したのだろう。
「柚子さん、大丈夫だったのかな。その、橋占の結果は――」
 そこまで言って、花梨はそれ以上たずねていいものかを迷った。占いなのだから、個人的なことに関わることもあるだろう。あまり人に知られたくないことだとしたら、聞かない方がいいかもしれない。
 そう考えた花梨が話題を変えるより先に、どこからかそれに答える声があった。
「生命の危険があるわけではない、と判断した。であるからには、こちらが何かをすることはない。我々は、外の者と必要以上に関わるつもりはないのだから」
 いつもは槐のいるその場所に、男が姿を現した。暗褐色の髪色に同じ色の目。なぜか眉間にしわを寄せて、不機嫌そうな表情をしている。
「針鉄鉱さん」
 桜がそう呼んだ。ならば、彼がこの――今、座卓に乗っている針のような鉱物、針鉄鉱の化身なのだろう。
「初めまして」
 と、花梨は声をかける。
 とはいえ、相手の方は、花梨のことを認識したのはこれが初めてではないかもしれない。しかし、そう言う以外にないだろう。針鉄鉱が無言でうなずくのを見て、花梨はこう続ける。
「特に危険がないなら、よかったです。槐さんに聞いた逸話では、最期を予言した、ということでしたから」
 針鉄鉱は花梨のことを一瞥してから、軽く肩をすくめた。
「その点について危惧する必要はない。これは本人の問題だ。私の方からも一応、忠告はしたが」
 針鉄鉱のその言葉に、桜は驚き眉をひそめている。
「忠告はしたって。まさか、本人にですか?」
 針鉄鉱は落ち着き払った表情で、こう返す。
「そうだが。何か? もっとも、どうやら私の存在を、夢か何かだと思っていたようだがな」
 桜はその答えに、呆れたようにため息をつく。
「まあ、いいですけど。どうせまた、迂遠な言い回しで煙に巻いたんでしょうし」
「私の言葉を迂遠だと捉えるなら、それはそのようにしか聞くつもりがないからだ」
「はいはい」
 桜におざなりな反応を返されても、針鉄鉱は特に気にする様子もない。
「あとは、本人が聞く耳を持つかどうかだろう」
 それだけ言い残して、針鉄鉱は姿を消してしまった。呆気にとられたまま、花梨はそれを見送る。
 桜は針鉄鉱に――今は沈黙している鉱物の方に、ちらりと視線を向けた。
「気にしないでくださいね、花梨さん。針鉄鉱さんのあれは、いつものことですから。気難しいというか、何というか」
 桜は取り成すようにそう言う。
「それにしても柚子さん、でしたか。ちょっと同情しますね。針鉄鉱さん、ああいう感じですし」
 姿を現さないまま、黒曜石が異を挟む。
「しかし、彼は不誠実なことを言うような石ではないだろう」
「それはそうですけど。耳の痛いことを理論責めでちくちくと説教されるのは、それがどれだけ正しくても、つらいものですよ」
「覚えがあるのか、桜石」
 と、黒曜石。その言葉には何も言わずに、桜は空とぼけている。
 そのときちょうど槐が帰ってきた。座敷に顔を出すと、花梨にこう声をかける。
「おや。鷹山さん。いらっしゃい」
「お邪魔しています」
 花梨がそう言うと、槐はうずいた。そして、いつもの定位置に――先ほど針鉄鉱が姿を現した場所に収まる。
 そのとき、桜が思い出したように、どこからか紙片を取り出した。
「そういえば、その、柚子さんなんですけど。あのとき言っていた、お店のチラシを持って来られましたよ」
 そう言って、桜はその一枚の紙を花梨に差し出した。そんなやりとりを見て、槐は椿にこう提案する。
「そうだったね。行ってきたらどうだい? 椿。もし良ければ、鷹山さんと一緒に」
 花梨はうなずいたが、椿は明らかに乗り気ではなさそうだ。桜は苦笑している。
「そのお店の隣だかにある喫茶店のサービス券も、一緒に置いていかれましたよ。今流行りのレトロな限定スイーツがどうのと、力説されてましたし」
 桜がそう言ってその紙切れを差し出すと、椿はそれを素直に受け取った。表情は変わらない。しかし、その心の内には、少し変化があったようだ。花梨にも、それはわかった。


 平日の午前中。天気はあいにくの曇り空だが、夏も本番となるこの時期だと、日差しがやわらぐこと自体はむしろありがたい。まだ梅雨が明けていないので雨は心配なところだが、今日一日くらいは持ちそうだった。
 柚子が主催するショップのプレオープンに招かれた花梨は、椿とともにその場所へと向かっていた。その途中には、橋がある。例の橋――戻橋が。
 せっかく近くに行くのだからと思って、花梨はあえてその道を選んでいた。椿もそれは了承している。かといって興味があるわけでもないようだが。
 実際に橋のたもとに着いても、椿は立て札には目もくれず、何の感動もなさそうに佇んでいた。かといって、花梨の方でも戻橋に特別な何かを――たとえば橋占をしようとか――そういう考えがあったわけでもない。
 ひとしきり周囲を見回してから、花梨は橋を渡り始める。少し遅れて椿も続いた。特別な思いはないつもりだったが、いざ橋を渡るとなると、やはり無意識のうちに耳を澄ませてしまう。しかし――
 残念なことに、そのときは何も聞こえなかった。声も、歌も、何も。
 花梨は、がっかりしている自分に気づいた。占いに頼るつもりはなく、今までも気にしたことはないが、それでもあの話を聞いたあとでは、もしかして、という期待を抱いてしまっていたのだろう。
 もしも、この先に起こることがわかったなら――
 とはいえ、たとえ何かしらが聞こえたとしても、花梨にはその声を読み解ける自信はない。あのあと戻橋の逸話を調べてみたが、橋占を行ったものたちは安徳天皇の即位の予言だけを取り上げて喜び、その最期に関する予言については読み解けなかったようだ。
 それに、こうも思う。もし、見たくない未来を見てしまったとして、自分はそれを受け入れられるだろうか。ありのままを、冷静に受け止められることができるだろうか――
「花梨」
 戻橋を渡り切る一歩手前。黒曜石の呼び止める声で、花梨は、はっとして振り返った。気づけば椿の姿がない。慌てて周囲を見回し、視線を橋の半ばまで視線を向けたところで、花梨はようやく佇んでいる彼女の姿を見つける。
 椿はしっかりしているようで、どこか危うい。ちゃんと気にかけてあげるべきだったと思いながら、花梨は慌ててかけ寄った。
 椿の事情については、花梨はまだ何も知らない。平日のこの時間に自由に行動できる理由も、なぜ従兄だという槐のところへ身を寄せているのかも。
 一緒に行動すること自体を嫌がっているようではなさそうだが、それでも椿と接する際にはいまだに壁を感じていた。店で合流してからここへ来るまでも、残念ながらほとんど言葉を交わしていない。道を歩くとき、椿がかたくなに花梨の近くを歩こうとしないせいもある。いったい、何を考えているのか――
 そのとき、花梨はふと思った。椿はもしかして、この橋で何かの声を聞いたのではないだろうか。
 花梨は来た道を戻り、椿の近くで立ち止まった。しかし、心配をよそに、椿は橋の下のささやかな水の流れをただじっとのぞいているだけ。
「ごめんね。気づかなくって。大丈夫? 椿ちゃん」
「何が?」
 即座にそう返ってくる。変わったところは何もない。本当にいつもの椿だった。
「気分でも悪くなったのかと思って。気づかないで、先に行っちゃったから」
「別に。そうしてって言ったんだから、それでいい。私はついて行くから」
 椿はそう言うと、無言で花梨が前を行くように促す。花梨は仕方なく、再び橋を渡り始めた。椿が問題なくついて来ることを、振り返っては確認しながら。
 そのとき、どんよりとした空にどこからか声が響き渡った。花梨は思わずその音に意識を集中する。
 機械を通した声だ。何かを知らせる、地域の人たちへ向けた放送のような――

 明日は大雨の予報のため、予定していたイベントは中止となりました……

 空の雲はさっきよりも厚く、黒々としている。何か、嫌な予感がした。そんな漠然とした不安を抱きながら、花梨は戻橋を渡りきる。それ自体は、何ごともなく。
 重い空気のまましばらく道を行くと、花梨たちはやがて目的の場所へとたどり着いた。古屋を改装したような、趣のある家屋だ。となりには確かに喫茶店があり、どうやら行列ができるほどに盛況らしい。
 しかし、当のショップに華々しい雰囲気はなかった。むしろ何かトラブルがあったらしく、数人が店を遠巻きにしながら、ひそひそと話をしている。
「何がって……見てないの? 柚子のデザインを模倣だって告発するアカウントが……いたずらかもしれないけど、野次馬が抗議の電話をするって、ネットではちょっとしたさわぎになってるよ」
「それで、オーナーがずいぶん怒ってるらしくて……」
 そのとき、花梨たちのことに気づいたらしい柚子が店の中から出てきた。途端に周囲の話し声は消え、辺りはしんとする。
 花梨が何かを言うより前に、柚子はこう言った。
「ちょっと問題があってね。急に中止になっちゃった。わざわざ来てもらったのに、申し訳ない」
 そう言って、柚子は花梨たちを少し離れたところまでつれて行く。話をしていた人たちが気になって、花梨は柚子にこう言った。
「でも、あの人たちもお客さんでは……」
「いいのいいの。他は作家仲間ばっかだし。ちゃんと把握してるから。誘いを受けてくれたのに、ごめんね。こんなことになって。埋め合わせは後日必ず」
 そう言って、柚子はこっそりと花梨に何かを握らせた。そうして、喫茶店を指さすと、小声でこう続ける。
「となりの喫茶店はやってるから、何か食べていって。お姉さんがもらった割引き券もあげちゃう。気にしないで、楽しんでいってね」
 柚子はそれだけ言うと、足早に戻っていった。椿は早々に喫茶店の方へと並びに行ってしまう。
 しかし、花梨はそう簡単に切り替えられなかった。呆然としたまま振り返ると、ショップに入る直前、柚子が寂しそうに呟くのが聞こえる。
「がんばったんだけどなあ……」
 彼女の胸元に揺れるトルコ石が目に入る。あざやかな空色だったはずのその石は、以前見かけたときよりもどこか色褪せて見えた。
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