番外編 珪藻土(三/三)

文字数 4,583文字

 そうして去って行った女性を見送った空木が、やれやれといった風に振り返ると、ずっと背後に立っていたらしい椿と目が合った。
 彼女の冷ややかな視線に、空木は思わず後ずさる。
 存在を忘れていたわけではない。とはいえ、今まで何も言ってこなかったものだから、この件はすでに解決したものだと思っていたのだが――
 そもそも、さわぎの原因を調べると言い出したのは彼女だ。これで問題はなかったのだろうか、と空木は少し不安になる。
「あー……あれでよかったかな?」
 空木が問いかけると、椿はあっさりとこう答えた。
「いいんじゃないの。悪い気配はなくなったって言ってるから」
 だからそれは誰が言っているのか。いまいちわからないその理屈に、空木は大きくため息をつく。
「てことは……やっぱりあの七輪には、その――亡くなったじいさんの魂が残っていたってことかな」
 深く考えもせずに空木はそう言った――が、はたと気づいて口をつぐむ。魂なんて曖昧なものを持ち出せば、椿にまた辛辣な言葉を返されるのでは、と思ったからだ。
 とはいえ、かく言う空木も魂の存在なんてものは大して信じていない。家業のことを考えるとそれもどうかと思うし、そのわりには、会ったこともない老人の姿を七輪に重ねて見てしまった気もするが――それはそれ、といったところだ。
 ともあれ、そうして身がまえた空木に対して、椿は淡々とこう返した。
「あなたが見たものが何だったのか、私には何とも言えない。でも、ある人が言うには――幽霊とかそういうものは、時間を越えて届く影みたいなものだって」
 空木がけげんな顔をすると、椿はこう続ける。
「影なの。そのものではなく、今ここにもない。そんな影だけの存在。だからこそ、人はそれに、自分にとって都合のいい形を当てはめてしまう。それがときに、魂のようなものとして認識されてしまう――って言ってた」
「誰が?」
 そうした言い方をするからには、おそらくそれは受け売りなのだろう。たとえば、あのとぼけた店主であれば、そんなことを言いそうな気もする――と思ったのだが、椿が返した答えは空木が考えていたものとは違っていた。
「私を母として引き取ってくれた人」
 空木はとっさにどう返したものかを迷って――結局、妙なうなり声を上げるだけになってしまった。どうやら、彼女の身の上は空木が考えていたよりも複雑らしい。
 とはいえ、椿の方は気にした様子もなく、あらためてこう話す。
「だから、あなたが見たのも、本当に七輪が転がっていただけで、火が出たことだって、たまたまだったかもしれない。それを亡くなった人の恨みだとか、魂があると考えるのは、あくまでもあなた自身ってだけで」
 つまり、七輪が転がっていたのも、ボヤが起こったのも、全ては偶然である、と。
 それはさすがに無理がある――と思ったが、もしもこの場に兄がいたなら、いかにも言いそうな理屈だな、とも思ったので、とりあえずはそれで納得しておくことにする。兄ほどではないにせよ、空木もそういう現象にはけっこう懐疑的だ。
 とはいえ、ここ最近の空木があやしげなものをよく目にすることについては、間違いなく事実ではあるのだが――
 そんなことを考えていると、椿はちらりと空木の反応をうかがいながら、こんなことを言い出した。
「それはそれとして――突然のことだったから、何も考えずに私もあの火を消してしまったけど。さわぎを起こしてあの家にいる人たちを追い出せるなら、本当はその方がよかったかもね。そうすることで、死者の恨みが晴らせるなら」
「いちいち物騒だな、椿ちゃん……」
 空木は思わず、そう呟く。
 とはいえ、七輪の恨みが家を荒らされたことによるものなら、確かに、厄介な親戚とやらを追い出すことでも怒りを鎮めることはできたかもしれない。あの女性の言い分が本当なら、むしろその方が痛快ですらある。それでも――
 空木は苦笑しながら、こう答えた。
「死者の言い分はわからないけどさ。生きている方からすると、亡くなった人には安らかでいて欲しいわけで。それは俺の実家が寺だから、そう思うだけかもしれないけど……」
 椿はうなずくこともなく、かといって顔をしかめるでもなく、じっと空木の話を聞いている。
「亡くなってからも、そういったものに囚われているのは、何かこう――救いがないじゃないか。本当に強い恨みがあって、どうしようもないことはあるのかもしれないけど……今回はそうじゃなかったってことだろうし。それなら、それでいいんじゃないかな」
 空木の言葉に、椿は少しだけ考え込んでから――そうね、と呟いた。その顔がどこか寂しげに見えたので、空木は少し不思議に思う。
 そうして彼女の表情をうかがっていると、椿はふいに空木のことをじっと見つめ返した――かと思うと、続けてこんなことを言い放つ。
「まあ……あなたのことは、悪い人ではないってことにしておく」
 空木の反応を待たずに、椿はくるりと踵を返した。しかも、空木が呆気にとられているうちに、早々にこの場を去って行く。
 残された空木は呆然と立ち尽くした。それはどういう意味なのか。もしかしなくとも、彼女にはやはり、空木が店を探っていたことがばれていたのでは――
 乾いた笑いを浮かべながら、空木は遠ざかっていくうしろ姿をただ見送っていた。

     *   *   *

 椿が家に帰ると、店の戸が開いていた。どうやら槐と桜が年末の大掃除を始めたらしい。
 しかし、そう思ってよく見ると、ふたりは掃除の手を止めて、何やら話し込んでいるようだ。気になって近づいてみたところ、椿はそこで思いがけないものを目にする。
 ふたりが取り囲んでいたもの。それは――どう見ても七輪だった。
「また、七輪……」
 椿が思わずそう呟くと、桜はいぶかしげに首をかしげた。
「また?」
「何でもない」
 素っ気なく返した椿に、槐はこう話す。
「祖父が使っていたものが残っていたみたいでね。奥の方から出てきたんだよ。しかも、これが珪藻土(けいそうど)の切り出し七輪で……」
 槐が妙に楽しそうにしているので、椿は思わず顔をしかめた。七輪ひとつで何をはしゃいでいるのだろう。そうでなくとも、椿には何が、しかも、なのかよくわからない。
 ともかく、珪藻土という言葉には聞き覚えがあったので、椿は何の気なしにこうたずねた。
「珪藻土って、マットとかコースターとかに使われてたりする?」
 槐はその問いかけにうなずいた。嬉々として。
「珪藻土は白亜紀以降の地層から産出する岩石で――植物プランクトンの一種である珪藻(けいそう)の死骸のうち、分解されずに残る殻の化石が堆積することで形成される。切り出し七輪はこれを削ることで成形し焼き上げるんだよ。ただ、七輪は珪藻土を砕いて粘土状にしたものから成型する作り方もあって、こちらの方が容易だから、近頃は切り出しの方ではあまり作られていないようだね。ともかく、珪藻土が七輪の素材として用いられるのは、内部にあるごく小さな空洞によって高い断熱性と保温性が得られるからで、そうした性質を活かして珪藻土は他にもさまざまなものに利用されている。椿の言うようなものは、吸湿性や吸水性を生かしたもので――」
 椿は閉口した。まさか七輪ひとつでそんな話になるとは思っていなかったからだ。
 わかっていることではあったが、本当に少しでも石に――あるいは怪異に――関係していれば、槐は何にでも興味を持つらしい。油断も隙もあったものではない。
 話を振ってしまったことについては、椿もうかつだったと思わなくもないが――それにしても、七輪を前にしてそんな話になるのは、どう考えてもおかしいだろう。話題の広げ方としては、明らかにずれている。
 そんなことよりも――
「ところでこれ、使えるの?」
 槐の話は適当に聞き流して、椿は桜にそうたずねた。この家の台所事情を握っているのはこの石だからだ。
 そもそも七輪は道具なのだから、素材に関する知識よりも、どう使うかの方が重要だろう。七輪を前にしての話題としては、そちらの方が適切だと椿は思う。
 桜は七輪の状態を確かめながら、こう答えた。
「問題ないと思いますよ。椿ちゃんが好きそうなものなら……サツマイモでも焼いてみますか? あとは――年末年始のために、榧さんがいろいろと送ってくれてますから。その中に、何かいいものがあるかもしれません」
 椿は甘いものも好きだが、おいしいものなら何でも好きだ。
 とはいえ――
「でも、これって木炭が必要なんだっけ」
 椿は七輪を使ったことなどない。しまい込まれていたのだから、槐だってそうだろう。だとすれば、これを使うのは思ったよりも面倒そうだ、と椿は考え直す。
 しかし、桜は、そうですね、とうなずくと、あっさりとこんなことを提案した。
「とりあえずは、黄鉄鉱さんに火をつけてもらってはどうでしょう」
 椿は思わず顔をしかめた。
 それで代わりになるのだろうか。というか、そんなことをしては、普通に火で焼くのと変わらないのでは。せっかくの七輪なのに、それではありがたみも何もない――気がする。何となく。
 椿の不機嫌に気づいたのか、桜は苦笑いを浮かべながらこう言った。
「昔はそんなこともしてたんですよ。懐かしい話ですけど。(なつめ)さんが、よく山歩きの途中で採ったキノコなんかを、七輪で焼いて食べてました」
 棗は槐の亡くなった祖父だ。体が弱かった、という話を聞いていたが――その印象とはだいぶ違う。そうでなくとも、山中にあるキノコなんて――そんなものを気軽に食べても問題はなかったのだろうか。
「それって大丈夫だったの?」
 椿の問いかけに、桜は平然とこう答える。
「棗さんは、目を離すとすぐ山に入ってましたから。そういうことにもくわしかったですよ。目的は、石を採集することだったみたいですけど」
 そういえば、店ではもともと、そうして槐の祖父が集めた鉱物を主に売っていたらしい。そもそもは榧が管理していたから、きれいに整頓もされていたようだ。今は柾のせいで見る影もないが。
 椿が思わず混沌とした室内に目を向けているうちに、桜は目の前の七輪を手に取った。
「とにかく。一度使ってみましょうか。そろそろ、みなさんも帰ってくるでしょうし。榧さんが懐かしがるかもしれません」
 槐と桜で話し合った末に、七輪はひとまず茶の間に持って行くことにしたらしい。掃除の途中だった店はそのままにして、ふたりは何やら話をしながら通り庭を奥へと向かう。
 椿はその場にとどまって、そのうしろ姿を見送った。
 周囲は何だかわからない雑多なもので――そのほとんどが石なのだが――あふれている。ぽつんと取り残されたその場所で、椿はふと、この日にあったいろいろなことについて、ぼんやりと思いを巡らせた。
 七輪と、それの元となる珪藻土――太古の死骸の成れの果て。
 積もりに積もった屍は、新しい形を与えられて、もはや昔の面影すらない。そうして長い時を経ることで、すべては変わっていくのだろう。その屍に魂があったとしたら、それはどこへ行ったのだろうか。
 死の先にある穏やかな変化。それは救いとなるのか。それとも――
「ねえ、翡翠。もしも」
 ――もしも、私が殺されたら、あなたはその恨みを晴らしてくれる?
 そんな言葉を飲み込んで、椿は、何でもない、と呟いた。
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