第十八話 沸石(一/六)

文字数 3,329文字

 表の通りから格子戸を抜けた先、通り庭に面した板戸が一部だけ開いていた。中は店――というより、倉庫のようになっているその場所に、誰かがいる。
 白い着物に、透き通るような髪。雑多な中にあって、どこか整然とした――そんな印象を抱かせた後ろ姿は、この店でよく見る人たちの誰でもないだろう。かといって、この静けさなら石英でもなさそうだ。
 そこにある人影は、その場でただ静かに正座していた。まるで瞑想でもしているかのように。その姿に目を奪われていると、黒曜石がふいにこう声をかける。
沸石(ふっせき)か」
 花梨にとっては、初めて聞く石の名だ。しかし、沸石はこちらに気づいているのかいないのか、ずっとうつむいたまま。
 かと思えば、少し遅れて聞き覚えのない声がする。
「何だ……黒曜石。気が散る」
「すまない。沸石。戸が開いていたものだから。槐はいないのか」
 黒曜石はそう答えた。
 どうやら、今のは沸石の声だったらしい。しかし、それでも彼は、身じろぎもせずにその場でじっとしている。気になってよく見てみたところ、沸石の正面には何かが置かれていることに気づいた。
 白く光沢のある石と、もうひとつ。あれは確か――
 沸石はゆっくりとこちらに振り向くと――それでも、その目は伏せられていた――こう答える。
「槐なら、先ほどまで……そこにいた」
 と沸石が話しているうちに、当の槐とそれにつき従う桜が姿を現した。
「あ。花梨さん。すみません。急に電話が鳴って。さっきまで、ここでお待ちしていたんですけど」
 花梨を目にするなり、桜はそう声をかけた。そのとなりで、槐は花梨の左手へと目を向けている。
「あれから、傷はどうですか?」
「もうだいぶよくなりました」
 槐の問いかけに、花梨はそう答えた。槐が気にしたのは、かんかん石の呪いで負った傷のことだろう。
 それまで治る様子がなかった傷も、約束の百日目が過ぎてからは、普通の傷のように治っていった。血が止まらない、というようなこともなく、包帯も取れている。少しだけ跡が残っているが、これもそのうち消えていくだろう。
 しかし、花梨が気にしていたのは傷のことではなく、むしろその原因となった――かんかん石の方だった。沸石の前に置かれている石。あれは、やはり。
 花梨が見ているものに気づいたのか、槐は戸の隙間から中の様子をうかがうと、こう言った。
「彼は沸石。今はかんかん石に残る呪いの影響を取り除いてもらっています。それが彼の力で……浄化――というと、わかりやすいでしょうか」
 しかし、その言葉には、すぐに沸石が反応した。閉じていた目をわずかばかり――ごく薄く開けて、ゆるゆると首を横に振っている。
「私の力の本質を表すには、その言葉はあまり適していない。呪いとは――穏やかな海に嵐をもたらすようなもの。嵐がおさまっても、波はしばらく荒れる。波は、起こすことよりも静めることの方が難しい。それを助けるのが私の力」
 槐は彼の発言にうなずくと、あらためてこう話し出す。
「沸石というのは、鉱物のグループ名です。天然のものだけで九十種類近くあり、さまざまな色や形を持つのですが、白あるいは無色の石が多いでしょうか。英語名はゼオライト。ギリシャ語で沸騰する石という意味の言葉から。加熱すると含まれる水が分離して、沸騰しているように見えることからこの名がつきました」
 では、かんかん石のとなりに置かれている、白く輝く石こそが沸石なのだろう。それを前にして、沸石がまるで祈りを捧げるようにしていたのは、呪いを静めるためらしい。
 槐は続ける。
「沸石は結晶の構造上ごく小さな穴を持つのが特徴ですね。石の性質を生かして、有害物質の除去、水質や土壌の改良など、さまざまな用途に利用されています」
 なるほど、と花梨は相槌を打つ。石それ自体の性質は、おそらく彼らの特別な力にも通じている。槐が浄化と言ったのも、このことを思い浮かべていたからだろう。
「今までの石も、こうやって?」
 花梨がたずねると、槐はうなずいた。
「そうですね。呪いや怪異といったものは、彼の言うとおり、荒れた海のようなもの。しかも、その波は条件によっては悪化する。逆に相性がいいと――先日の鶏冠石のように、うまく打ち消すこともできます」
 槐の言葉が、花梨の記憶の何かに引っかかった。しかし、そのもやもやがはっきりと形になる前に、ふと桜が口を挟む。
「ところで、槐さん。こんなところで立ち話をするのはどうかと思うんですけど。結局、何だったんです? 沸石さんがいるのに、急にここを整理するとか言い出して」
 その言葉に、花梨はあらためて板戸の隙間から店の中をのぞいた。以前も、ここを片づけたい、というようなことを言っていた気がするが――見る限り、そちらの方はあまり進んではいないようだ。
 同じように店の方を気にしながら、槐はこんなことを言い出した。
「いや――実はひとつ、鷹山さんにご提案がありまして」
「提案、ですか?」
 花梨は思わず首をかしげた。槐はこう続ける。
「確か、昨年の火事で、アルバイト先が営業できなくなってしまったとか。もし、よろしければ、うちでアルバイトとして働いてみませんか?」
「え?」
 と返したのは、花梨ではなく――桜だった。
 桜は槐の発言に心底驚いたように、口をあんぐりと開けている。どうやら、この提案を事前に聞いていたわけではないらしい。
 しばらくぽかんとしていた桜だが、それがようやく飲み込めた頃になると、慌ててこう返した。
「いやいや。槐さん、何を言っているんですか。うちに人を雇うほどの仕事なんて。花梨さんの方が困ってしまいますよ」
 槐は軽く苦笑している。
「前々から考えてはいたんだけどね。店の方が――まあ、手狭になっているだろう?」
 手狭、というには半分以上は足の踏み場もないようだが――花梨も桜も、そこはあえて指摘しなかった。そんな中で、沸石は淡々とその場に座り続けている。
 槐はその現状を特に気にする様子もなく、こう続けた。
「最近は、いろいろなところでフリーマーケットなどが開催されているようだから、整理して、欲しい人に譲ってはどうかと」
 それを聞いた桜は、納得したような、していないような――そんな、何とも言えないような、うなり声を上げる。
「な、なるほど……確かに、柾さんがどこからか、ほいほいもらって来るものだから、増える一方なんですよね……でも、ですよ? 働いていただくからには、お給金が必要なわけですし。すぐに売れるわけではないんですから――」
「わかりました。その仕事、やらせてください」
 桜の言葉をさえぎって、花梨は槐にそう言った。桜は驚いた顔をして、花梨のことを見返す。
「いいんですか? 花梨さん」
 そうたずねてくる桜に、花梨はうなずいた。そして、あらためて槐に向き直る。
「アルバイトは、もともと姉の捜索資金を貯めるつもりで始めたんですが……今はその点で困ってもいませんし。いつもお世話になっていますから。お手伝いできるなら、ぜひ」
 うなずき返す槐に対して、桜はそれでも浮かない顔をしている。
「知りませんよ。花梨さん……」
 そのとき、その場に姿を現したのは椿だった。話の途中に顔を出したせいで事情がわからずきょとんとしている椿に、桜はさっそくこう伝える。
「椿ちゃん。花梨さんは、この店でアルバイトするそうですよ」
「は? アルバイト? ここで?」
 椿はあからさまに顔をしかめている。そして、花梨のことをじっと見つめたあと、肩をすくめてからこう言った。
「正気の沙汰じゃないと思うけど。まあ、いいんじゃない。好きにしたら」
 椿にあっさりそう言われたので、桜はしぶしぶ引き下がった。アルバイトの詳細はまた後ほど――ということになったので、花梨は椿に向かって軽く目配せする。
 それを見て、桜はああ、と思い出したように声を上げた。
「今日はこれから、椿ちゃんと一緒にお出かけですよね。どちらに行かれるんでしたっけ」
 無言で格子戸の方へ向かう椿を追いかけながら、花梨は桜にこう言った。
「柚子さんが作品を販売されてるって言う――アンティークショップに」
 そうして、槐と桜に見送られ、花梨と椿はともに店をあとにした。
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